【実録】昭和〜平成〜令和サラリーマン生存記#8 「トラブル対応編1」
「トラブル対応編1」
〜地球の摩擦を感じたライターと、冥界の掟〜
通信回線が止まれば、社会が止まる。正月二日から始まった大規模トラブルは、上場企業の役員が、
「殺すぞ!」と叫びながらライターを飛ばす地獄の幕開けだった。廊下で立たされたまま、決して振り返ってはいけない「冥界の掟」に震え、若手SEは、
「人の目を見て話を聞く」という小学校の教えを全否定される。ここは会社か、それとも別の惑星か。
〜正月二日の地獄と、受付嬢の震え〜
F事業部長の辞書に「妥協」の二文字はない。特に顧客対応、それもトラブル対応に関しては、彼の「顧客最優先」思想はもはや狂気に近い領域に達していた。
悲劇は正月二日から始まった。通信事業者という、社会の生命線を預かる顧客先で大規模トラブルが発生したのだ。
折しも一月は年始回りのシーズン。F事業部長が社長以下、社の幹部を引き連れて挨拶に伺った先で、待っていたのは顧客社長ら十数名による怒号の洗礼だった。
「社長に恥をかかせた!」
社内は蜂の巣をつついたような大騒ぎ。即座に対策会議という名の「公開説教」が幕を開けた。まさに地獄の始まり。
数日後、事業部長はH営業課長を連れ、別の顧客への年始の挨拶回りに出た。しかし、受付で
「担当幹部は不在」と告げられた瞬間、事業部長の導火線に火がついた。H課長に向かって、
「お前! xxx(副社長)に会わせろと言っただろうが!」
上場企業の役員ともあろう人が、顧客の副社長を呼び捨てで怒鳴り散らす。
受付の女性たちは恐怖でガタガタと震え、半泣き状態。多分総会屋かヤクザと間違えられたと思う。
その剣幕は、エリートサラリーマンというよりは、完全に「あちら側」の筋の人間のそれだった。
その後外の道端の端と端に立って説教、時々
「お前は!」と怒鳴り、その時たまたま間を通った人はビクっと驚く。往来で大注目になっていた。
〜冥界の掟「振り返ってはいけない」〜
命からがら帰社したH課長は、自席を捨てて、設計と開発部門と本社とのビデオ会議室に逃げ込んできた。顔面は蒼白、魂が抜けたような状態だ。
「何があったんだ?」と皆で心配していた、その時だ。
「ギギギ……」
不吉な音を立ててドアが開いた。そこには、怒りで顔を真っ赤に染めた「鬼」が立っていた。
ここで私は、一生の後悔をすることになる。気配を感じて、つい、振り返って事業部長と目を合わせてしまったのだ。
「……お前も来い」
絶望した。ギリシャ神話でも日本の伝承でも、
冥界から脱出する時に「振り返ってはいけない」
のは鉄則だ。私はその禁忌を犯してしまった。
廊下で二人、立たされたまま十数分。罵声の嵐が吹き荒れる。体感時間は二時間を優越していた。
その間会社の皆が廊下を通れなくて困っていた。ようやく解放されて会議室に戻ると、同僚たちの同情の視線が痛かった。
だが、地獄は終わらない。一分後、再び
「ギギギ」とドアが開く。
「……お前たち、もう一回だ」
言い足りなかったらしい。再び廊下へ引きずり出される私たちの背中に、会議室の全員が合掌していた。
後日談、何故H課長が会議室にいると分かったのか?
帰社後に事業部長が、
「Hはどこへ行った!」と聞いた時に、
「会議室です」と言ったやつがいたんだよね。
誰が言ったかは後で分かったが。。。
「知りません」と言ってくれれば良かったのに。。。
〜地球の摩擦とタバコの火〜
翌日の対策会議。事業部長のボルテージは最高潮に達していた。
長引く会議の最中、H課長とK営業二人が
「お客様とのアポイントがあるので退席させてください」と切り出した。空気を読まない正論に、事業部長はタバコに火をつけようとしていたライターを、渾身の力で机に叩きつけた。
「てめえら、殺すぞ!!」。この人上場企業の役員なんですけど。。。
ライターは激しい勢いで机の上を滑っていった。だが、不思議なことに、机の端でピタッと止まったのだ。
(ああ……地球には、摩擦があるんだな……)
極限状態の中で、私は物理法則の素晴らしさを実感していた。
ライターの正面に座っていたT設計部長は、その「凶器」を戻すべきか、触れぬべきか、ビクビクと震えていた。結局、事業部長は別のライターを取り出し、平然と火をつけた。設計部長がそっとライターを元の位置に戻す手つきは、爆弾を扱うプロのようだった。
〜仏滅の報告と、SEの正しい教育〜
「何かあったら、その日のうちに必ず俺に報告に来い」
それが事業部長の厳命だった。数日後、案の定トラブルが発生。T本部長、SEのKセンター長、私の三人は、死罪を待つ囚人のような足取りで事業部長室へ向かった。
ドアに手をかけようとした瞬間、中から
「ふざけんな、お前!」という怒声が漏れてきた。
先客が「処理」されている。本部長の手がピタッと止まった。しばらく硬直後、
「……今日は日が悪い。やめよう」
「いや、今日報告しないと後で殺されますよ!」
私が食い下がると、本部長は虚空を見つめて呟いた。
「しょうがない。今日は仏滅だ」
結局、報告を一日延ばしたせいで、翌日は「仏滅」以上の惨劇が待っていた。
その後、事業部長より「トラブル関係の技術者(SE)を集めろ、訓示する」との命令、私は若手SEを含め5人で事業部長の部屋に行った。長い長い訓示が始まる。ほとんどの者が下を向いて嵐が過ぎるのを待つ中、SEのH君だけは、真っ直ぐ事業部長の目を見て話を聞いていた。すると、
「お前! 俺にガン付けてんのか!」
もう一度言います。この人上場会社の役員です。。。
怒鳴られたSEのH君は、後で言った。
「小学校の先生には、人の話は目を見て聞けと習ったんですが。間違いだったんですね」
。。。
「いや先生は正しいよ。ただ、この会社は『別の惑星』なんだ」と慰めるしかなかった。
トラブルが収束するまでの一ヶ月。毎日夕方二時間の説教という名の「精神的筋トレ」に励んだ結果、
私の体重は三キロ減った。
ダイエットには成功したが、私の心も三キロ分、どこかへ削り取られてしまったようだった。
後日談、騒動が落ち着いた後、事業部長はH課長に
「悪かったな」と謝ったという。
……私への謝罪? そんなもの、この迷宮には存在しないのだ、チクショー。
