【書評】グレート・ギャツビー:ギャツビーのどこが「グレート(偉大なる)」だったのか?(著:スコット・フィッツジェラルド 訳:村上春樹)


・あらすじ
舞台は1922年のアメリカ、ニューヨーク。
語り手のニック・キャラウェイは、証券会社への就職を理由に故郷の中西部からニューヨーク郊外のロングアイランドのウェストエッグという場所に引っ越す。
ある日、大学時代の友人であるトム・ブキャナンに招かれて、ウェストエッグの向かいにあるイーストエッグにある邸宅に招かれる。
そこでブキャナンと奥さんであるデイジーとの仲がうまくいってないことを知ることとなる。
一方で、ニックの家の隣にある豪邸に住むジェイ・ギャツビーは毎夜、豪華絢爛なパーティを開いていた。
ニックはそのパーティに招かれる。
ニックはギャツビーと親交が深まるうちに、ギャツビーの胸に秘めた、ある思いを知ることになる。
実は、デイジーとギャツビーはかつて恋人関係にあり、第一次世界大戦にギャツビーが従軍することになってから疎遠になってしまった。
待ちきれなくなったデイジーがトム・ブキャナンと結婚したという過去があった。
ギャツビーはデイジーと再び結ばれるために、財を成して、成金となった。
そして、向かいのイーストエッグに住むデイジーに気づいてもらうためにパーティを毎夜行っていた。
ギャツビーはニックに頼んでデイジーと会わせてほしいと頼む。ここからデイジーとギャツビーの恋が再燃する。
キャラウェイ、ギャツビー、デイジー、トム・ブキャナン、キャラウェイの彼女の五人で外出した際、ギャツビーはデイジーを取り戻そうとするがうまくいかない。
その帰りに、デイジーが運転する車がトム・ブキャナンの浮気相手であるマートルを轢き殺してしまう。
やがてトム・ブキャナンに「マートルを殺したのはギャツビーだ」と唆されたマートルの夫であるウィルソンにギャツビーはピストルで殺されてしまう。
パーティには多くの人が来ていたにも関わらず、ギャツビーの葬式にはキャラウェイとギャツビーの父親以外、誰も参加することはなかった。

・解釈
この話はニューヨーク郊外で繰り広げられるが、ウェストエッグとイーストエッグが架空の名前。ウェストエッグはグレートネック、イーストエッグはニューヨーク市マナセットという場所がモデルとなっているそうである。
グレートネックは新興成金が住む地区で、マナセットは古い名門の住む地区である。
ここをあえて架空の名前に。しかも、ウェストエッグとイーストエッグと似た名前に、西と東で正反対にしてるのは、どのような意図があるのかを考えたい。
そもそも、西と東で住む人の層が違う時点で棲み分けがされており、両者が相容れない。
ギャツビーとデイジーの叶わぬ恋の結末を暗示しているようでもあるし、西と東で見えない壁のような、何か隔たりのようなものを表現したいのではないかとも思う。
つまり、「都市」が人を分断していることを表現しているのではと考えられる。
登場人物たちが辿った結末を暗示しているようでもあって、ウェストエッグに住むギャツビーは殺され、キャラウェイも故郷の中西部に帰るので、ふたりともニューヨークから去っていくし、イーストエッグに住むトム・ブキャナンとデイジーはこれからもニューヨークに住み続ける。
また、ニューヨークという、アメリカン・ドリームの象徴たる場所で、ギャツビーも栄光を手にするわけだが、結局、求めたのはデイジーである。
豪華絢爛で、繁栄を絵に描いたようなニューヨークという場所は、ギャツビーにとって「虚飾」であろう。
ニューヨークはアメリカン・ドリームを叶えたいという人々がきて、叶えた人が街並みを作って、叶えられなかった人が去っていく都市だと思う。
そういう場所で、ギャツビーはアメリカン・ドリームをかなえたけれども、自分の夢や望みはかなえられなかったという物語が展開されることに、ニューヨークが舞台としての役割を果たしているのかなと思った。
最後に一体、ギャツビーのどこが「グレート」なのかを表しているのかを話して終わりにしたい。
結局、デイジーとギャツビーの関係は、戦争によって宙に浮いたような感じになっていた。
そこにどういう形でもいいし、どんな結果をもたらしたとしても構わないからけじめをつけたいという想いがギャツビーにあったのではないかと思う。
ギャツビーも、最初こそデイジーを取り戻したいという気持ちはあったであろうが、5年ほど離れていればお互いを取り巻く状況が以前とは違うことは承知の上だったのかと思う。そして、デイジーが結婚している以上、何があったとしても自分に靡くことはないということもわかっていたのではないか。
ただ、結果がどうであれ、会わずにはいられなかったのではないかと思う。
一人の女性に対する真摯な姿勢、中途半端なまま終わらせたくないというギャツビーの思い、これを私は「けじめ」と解釈したが、執着と読むこともできるとは思う。
ただ、いずれにしても、ギャツビーに「逃げ」はなかったのではないか。そういう姿勢をキャラウェイは「グレート」と称したのではないかと思います。
キャラウェイが「誰も彼も、かすみたいな奴らだ。みんな合わせても、君一人の値打ちもないね」と芝生の庭越しに、ギャツビーに叫ぶシーンはその象徴となるシーンであると思う。

この小説は昨年(2025年)発刊100年を迎えた。
100年たった今でも、こうして読み継がれているのは、舞台であるニューヨークが持つ、「夢」そして「分断」という側面、一人の男が大切な女性を思う真摯な姿勢がこの作品をもっと魅力的なものにしているのではないかと思った。

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