エルダーの庭~ローズマリー一家~ 第六話 猫の手
6 猫の手
翌日も杏樹はいつもと同じ時間に、笑顔で手を振って家を出た。
何度か父と母がそろっている席で、自分の出生について尋ねようとしてみた。
だが「わたしは二人の子どもではないの?」という言葉は、喉の奥で凍りついて出てこようとしなかった。
今日も母に、紙袋に入れた玄米粉のパウンドケーキを持たされていた。
「これ、結さんと拓人さんへのお礼にしようかな」
わたしはただ逃げているんじゃない。
昨日のお礼をするためにエルダーの庭に行こうとしているだけ。
学校に行かない罪悪感にいいわけを見つけ、杏樹はエルダーの庭への道を歩いていた。
エルダーの庭は、知る人でなければたどり着けないような山道の果てにあった。
人がいる場所にたどり着けるのかと不安になるような、山道を進んでいく。
道は坂道から次第に平坦な大地となり、森のような木々の間を抜けると、突然楽園のようなハーブガーデンが出現するのだ。
昨日は気づかなかったその美しい景色に、杏樹は感嘆のため息をもらした。
一面の緑の中で、白や紫の小花が風に揺れていた。
背の高い赤い花をつけた植物には添え木がされ、まるでキャンドルのような長い花穂をつけている黄色い花も咲いている。
かつて父のお話の中で旅した、夢の国が現実になったような景色だった。
ハーブガーデンの奥には畑もあるようで、カゴいっぱいのトマトを手に歩いてくる拓人の姿があった。
「拓人さん、昨日はありがとうございました」
杏樹は拓人に走り寄り、勢いよく頭を下げた。
「杏樹ちゃん、いらっしゃい。よく来たね」
笑顔で迎えられ、杏樹も照れ笑いを返す。
「今野菜の収穫をしていたんだよ。今日はランチにトマトとナスのパスタを出そうって決めててね」
「採れたてトマトのパスタ! おいしそうです!」
「うん。うちの結シェフのお得意料理でファンが多いんだ」
「だったら、そのトマト、わたしが結さんのところまで運んでいきます」
「ありがとう。だったら俺は、引き続きナスの収穫に行ってくるわ」
両手にずっしりとくるトマトのカゴを受け取り、杏樹はカフェへと急いだ。
カフェに着くと、昨日と違ってすでに店内には何組かの来客がある。
結は忙しそうにハーブティーの用意をしていた。
「結さん、こんにちは。昨日はありがとうございました」
「杏樹ちゃん。来てくれて嬉しい」
お茶にお湯を注ぎながら言う結は、杏樹の手にあるトマトを見て笑う。
「さっそく拓人さんに助っ人として使われちゃってるじゃん」
「いえ、わたしから志願したんです。やることがない方が辛いので、お仕事させてください」
杏樹自身もそのつもりで来たので、エプロンも持参してきたのだ。
「すごい、行動力! じゃあ、お言葉に甘えてお願いしちゃおうかな」
こうして杏樹のエルダーの庭での一日が始まった。
「今日はトマトとナスのパスタをメインに、ハーブサラダとレモンバームのパンナコッタをつけようと思うの」
説明しながら、様々なビンからハーブをティーポットにはかり入れ、魔法のようにいい香りのハーブティーを作り上げていく結は魔女のようだった。
ハーブの種類ごとの効果の説明を聞き、ゆっくり蒸らした後で淹れた一杯を口元に近づけた時、どのお客もうっとりと目を閉じる。
結さんはみんなに幸せの時間をプレゼントしているんだ。
杏樹はなんて素敵なお仕事なんだろうと思いながら、その仕事ぶりを見ていた。
その間も、杏樹は結にお願いされた仕事をこなしていく。
ニンニクをみじん切りにして、ランチに備えてタッパにつめていく。
サラダ用のハーブは水洗いしたあと、氷水でしめて水切りする。
すでに冷蔵庫に待機しているパンナコッタには、生クリームを絞って、その上に砕いたピスタチオとミント、白い小さなレモンバームの花を添える。
あまりに熱中して仕事に取り組んでいた杏樹は、すぐ後ろに結が立っていることにも気づかず、声をかけられびっくりして飛び上がった。
「杏樹ちゃん、なんてパーフェクトなお仕事ぶりなの? 本当に高校生? すぐにわたしの右腕にしたい!」
びっくりして固まったままの杏樹を、結がギュッと抱きしめる。
「前途ある若者の未来を、勝手に自分のために決めるなよ」
たくさんのお野菜をコンテナに詰めてやって来た拓人が、杏樹に抱きついている結を困ったやつだと見下ろしている。
「だって、杏樹ちゃん、本当に才能あるんだもん。わたしが人様にお出しできるようなお料理を作れるようになるのに、どれだけ時間がかかったか知ってるでしょう!」
「そりゃ、もちろん知ってるさ。俺が実験台だったんだから」
過去の失敗作を目の前に差し出されたときの再現か、拓人がうげっ!という顔をしてみせる。
「酷い! でも、ここまでになったのは努力あってのことなんだからね」
「俺の胃袋も努力してました」
二人の漫才のような掛け合いに、杏樹は思わず笑い声を上げた。
杏樹が助っ人に入ったその日、エルダーの庭は過去最高の来客数を記録した。
結は止まることなくパスタを作り続け、拓人がサラダの盛り付けやカトラリーの準備に追われていた。
杏樹はお客の注文を受けたり、外で待つお客にサービスのハーブティーをお出ししたりと大忙しの二時間を過ごしたのだった。
最後のお客が帰ったときには、三人とも顔を見合わせて「よくこの危機を乗り切った!」と目で語り合った。
「すごい数のお客様だったね。これって杏樹ちゃん効果じゃない?招き猫ならぬ招き女子高生」
「わたしにそんな力ないですよ。今日いたのもたまたまだし」
「でも杏樹ちゃんがいてくれて、本当に助かったよ。お客様の満足度も高かったはず」
結と拓人に褒められると、杏樹も素直に嬉しかった。
「杏樹ちゃんもお腹すいたでしょう! わたしたちもお昼にしましょう」
「どうせだったら、ガーデンのテーブルで食べるか」
お客様が待ち時間にガーデンを散歩する姿を見ていた時から気になっていたのだ。
ハーブガーデンの中央にある木のテーブルとイス。
きっとあそこに座ったら、ハーブの香りのただ中でご飯が食べられるんだろうなと想像していたのだ。
どうやらそれが今すぐに叶うらしい。
「わたし、さっきからあのテーブルが気になっていたんです!」
「だったら、決まり! 三人でランチしましょう!」
今日のランチのレモンバームのパンナコッタは売り切れていたけれど、代わりに母のお手製玄米粉のパウンドケーキを添えたランチプレートが完成した。
まるでピクニックみたいだと思いながら、テーブルにランチョンマットを広げ、パスタとサラダ、デザートと黄金色のハーブティーを並べていく。
「見ているだけでも幸せかも」
杏樹の言葉に、結がさぁ食べようと誘うように、イスに座ってフォークを掲げる。
「だったらおいしいパスタとサラダで天国直行だ!」
「俺の作ったサラダに毒は入ってないから、死んで天国行きはないから安心してくれ」
結の作ったパスタは本当においしかった。
ニンニクの香りが鼻にぬけて止まらない食欲を増進し、香り高いハーブのサラダが心も体もすっきりとデトックスしてくれる。
「ハーブティーにレモングラスが入っているから、消化を助けてくれるよ。胃腸にも優しいごはんを目指してます」
確かにハーブティーは、酸っぱくないのにレモンの風味がしておいしかった。
食事の間も、とても昨日知り合ったばかりだとは思えないほど、三人の会話は弾んだ。
このハーブガーデンは、三年前までただの荒れた畑だったこと。
結がおじいさんからこの土地を相続して、一念発起でガーデンを作り始めたこと。
何度も植物を枯らして、自分にはガーデン作りなんて無理なんだと思っていたときに、拓人と知り合って一緒に仕事を始めたこと。
拓人も日本中を旅するかたわら、様々な地方で農家のお手伝いをして植物を育てる方法を学んできたこと。
食の大切さをもっと体験して多くの人に学んで欲しいこと。
二人のおもしろい語りと滲んでくる情熱に、杏樹も心が刺激されて、一緒に三年間を駆け抜けてきたようなわくわくした気持ちを味わっていた。
この美しい庭は、二人の情熱と努力の成果なんだ。
そう思って改めて庭を見回した杏樹は、ふとすぐそばにある植物が一部、いびつな形をしていることに気づいた。
「このハーブはなんて言うんですか?」
「それはローズマリー。小さいけど、れっきとした木なんだよ」
確かに根元は木の枝のようにゴツゴツしていた。
「この三つあるローズマリーの真ん中の子だけがスクスク育って大きくて、右側の子はちょっと形が違いますね」
不思議に思って尋ねた杏樹に、拓人がローズマリーの植え込みに近づいた。
「実はこの真ん中の子が、去年植えた子どものローズマリーなんだ」
「でも、この子が一番大きいんですね」
「そうなんだ。この隣りのローズマリーが、冬の間、身を挺してこの子を守ったからなんだよ」
「きっと、お父さんローズマリーだったのね」
後を継いだ結の話は、とても感動的なものだった。
