エルダーの庭~ローズマリー一家~ 第三話 なにものでもない私
3 なにものでもない私
杏樹が生まれ育った東京を離れたのは、祖母のケガが原因だった。
長野で一人暮らしをする祖母が、今後車いすを必要とする後遺症を負ってしまったのだ。
そこで家族で長野に移り住むことを決め、高校から新たな地での生活が始まることになったのだ。
「お友達もたくさんいただろうに、ばあばのせいで辛い思いをさせて悪かったね」
祖母はそう言って、杏樹の手をなでた。
だが杏樹はその祖母の手の上に、自分の手を重ねた。
「ううん。わたしはおばあちゃんのそばで暮らせて嬉しい。それに、東京の友達だけじゃなくて、ここで友達を作れば知り合いが倍増だもん。ラッキーだよ」
実際、緊張の中で通い始めた高校だったが、友達はすぐにできた。
というよりも、東京からやってきたという少女に、同級生たちの関心が高かったのだ。
持ち物一つとっても、「かわいい!」と歓声をあげてくれる。
「そのリップ、めっちゃ、かわいい! どこで買ったの?」
「杏樹って、やっぱオシャレだよね」
東京で友達としてきたような、メイクの話のできる友達もできた。
放課後に一緒に図書館で勉強しようと誘ってくれる友達もできた。
学校帰りにカフェに行く友達もできた。
だれもが杏樹を褒めてくれた。
でもそれがかえって、自分と彼女たちとの間に壁があるのを感じさせた。
同じ立ち位置に立ってくれない。
すごいと褒め称えられると、本当の自分ではいられない気がしてならなかった。
すごいと思ってもらえる自分を見せ続けなければ、なんだこんなもんだったのかと、飽きられて見捨てられるのではないか。
素直な自分の気持ちを言ってはならない。
杏樹は常に笑顔を絶やさず、優しい物わかりのいいお姉さんを演じ続ける自分に違和感を感じ始めていたのだった。
「ただいま」
家に帰ると、いつも通り、玄関には来客を示す多数の靴が並んでいた。
「紀子先生。娘さんが帰ってこられましたよ」
ダイニングのテーブルには、杏樹の母、紀子が開催している料理教室の生徒さんたちがいた。
東京でも料理教室を開いていた母だったが、今やSNSでつながる世界。
長野に引っ越してきても、以前の生徒さんたちや、新たに縁でつながった生徒さんたちが大勢通ってきているのだ。
「杏樹ちゃん、今日もお母さんの料理教室は最高に楽しかったわよ」
「いつもおいしい食事が食べられて幸せね」
みんなが口々に母のことを褒めてくれる。
彼女たちは、心底母のことを尊敬して、好きでいてくれることが伝わってくる。
そんな母が自分の母親だということは自慢だし、嬉しいことだった。
でも同時に、うらやましくもあった。
誰からも好かれて、心からつながり合える人たちに囲まれている母。
そしてその人たちを信頼して、ありのままの自分の気持ちを素直に表現できる母。
それに心の底から大好きだからこそ、夢中になって取り組めるものを持っている。
いつも楽しさ全開で料理教室を営んでいるが、その実、毎晩新たなメニューを考えるために、勉強したり試作したりと努力も怠らない。
生きがいと手を取り合う仲間。
わたしには、どちらもない。
そう思ったときに、母がキッチンから顔を覗かせた。
「あ、杏樹ちゃん。おかえりなさい。今日ね、すっごいおいしいハンバーグができたの! 夕飯楽しみにしててね。みんなで焼いたクッキーもあるから、明日学校に持って行ってお友達と食べてもいいわよ」
「うん。ありがとう。夕飯まで勉強してくるね」
杏樹は母に笑顔を向け、楽しそうに談笑する生徒さんたちにも会釈をした。
「紀子先生。素敵な娘さんがいて羨ましい」
そんな言葉を背中で聞きながら、自分の部屋のある二階に向かう。
だが、聞こえてきた言葉には続きがあった。
「でも紀子先生と娘さんって、あまり似てないですね。二人とも美人だけど」
二階には、すでに帰宅していた父もいた。
父は高校で国語を教える教師だ。
「杏樹、おかえり」
読んでいた本から目を上げ、眼鏡の隙間からこちらを見てくる。
だが、その目が赤くなって潤んでいることが明らかだった。
「お父さん、また感動して泣いてたの?」
「ははは、バレたか。どうやら年をとると涙腺がゆるくなるってのは本当らしい」
父は照れながら、ティッシュを手にして鼻をかんでいる。
どうやらかなりの感動作だったらしい。
きっと夕食の席で、父の読書感想発表を聞けるだろう。
動物の話や、小さな子が頑張る姿を見るとすぐに涙を浮かべる父は、本当に心に繊細な琴線を持っているのだろう。
子供のころは、眠る前に父が作ったお話を聞くのが大好きだった。
想像の中で、父と一緒にいろいろな場所へ冒険に出かけたものだ。
綿あめでできた虹色の国を歩いたり、心の声を教えてくれる魔法の卵を探す旅にも出た。
父は今も昔も変わらずに想像力豊かな世界に住んでいる。
でも、わたしは大人に向かう途中で、その想像力よりも現実を見る目を成長させてしまった。
想像の世界を心から楽しめなくなってしまった。
あんなに楽しかったのに。
「杏樹、ミーちゃんがお姉ちゃんが帰ってこないって、さっきから鳴いているから、早く行ってあげなさい」
「うん。お父さん、ミーちゃんとお話できるんだね」
「そうだよ。だってお父さんだからね」
父自身も自分の豊かな想像力を自負しているようだ。
部屋に入ると、父の言葉通りに、小さな白い子猫が「ナーナー」と甘えた声を上げて走り寄ってくる。
「ミーちゃん、ただいま! いい子にしていた?」
杏樹は胸にぎゅっと子猫を抱きしめた。
すぐに全身でグルグルと音を立てて、杏樹に顔をこすりつける子猫のミー。
毛糸玉のようにふっくらとした子猫だった。
でも、ほんの2週間前には、今にも命の灯が消え失せそうな姿だったのだ。
家族で買い物に行ったスーパーの駐車場で、「助けて!」と大きな鳴き声を段ボールの中で上げていた子猫。
一目見て、自分が助ける運命の子猫だと確信した杏樹は、両親に自分が世話をすると約束して飼うことに決めたのだ。
やせっぽちで、足も不自由そうに引きずっていたミー。
でも、3時間おきにミルクをあげ、ひとりぼっちでないことを伝えるために、家にいるときにはいつでも胸に抱いていた。
そのおかげで、ミーは危機を脱して元気な子猫に大変身したのだ。
「本当にかわいいね。ミーは。わたしの大切な友達だよ」
杏樹はミーの頬にキスをすると、ミーもお返しというように、杏樹の鼻をなめるのだった。
