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また多摩川 (^^♪

こんにちわ。愛川あかりです!
今回は、別ブログに書いたカブちゃんの記事を転記します。
多摩川つながりということで・・・
それに、note の方が見てもらえますから・・・
にひ♡



桜の花が咲くと、待ってましたとばかりに急激に暖かくなります。
どうしてなんでしょうね?
桜が咲くまでは、寒い寒いって言ってコートを着ていたのが嘘のようです。
もう少しゆっくりと春の訪れを楽しませてほしいものです。
とは言え、暖かくなるぶんには、何の文句もない私です!

こうなってくると、カブちゃんの出動回数が増えて来るのは当然なことでして・・・
またまたお出かけして来ました!


2025年4月某日

今日は田園調布へ行って来ました。
田園調布は高級住宅街として有名で、出来たのは大正時代です。
実業家の渋沢栄一さんが「農村と都市の良さを併せ持つ住宅地」を目指して開発しました。

渋沢さん、大概のことにかかわってますよね?
すごい人です。

田園調布のコンセプトは、建設当初から『都心に通う知識階級のための住宅地』を掲げており、目論見通り芸能人や俳優さん、作家や漫画家、芸術家や社長さんといったハイソな人たちが暮らす超高級住宅街になっています。

駅からして本気です。
田園調布駅は、おとぎの国のお家みたいにおしゃれでかわいい外観なんです。

駅前には小さな噴水があります。
この駅がすり鉢の底に位置していて、駅から放射状に立派なイチョウ並木が広がっています。

並木の坂を登って行きます。
大きくて、とっても立派なイチョウの木です。

並木とか、街路樹とかってすてきですよね。
あるなしで街の空気がガラッと変わります。
まして立派な家ばかりです、うららかな春の日差しと相まって、現実離れして見えて来ます。

登り詰めると今度は下りです。
車と全然出会いません。
歩いている人も見かけません。
トコトコと進んで行くカブちゃんの、か細いエンジン音でさえ憚られるほどの静けさです。

大きな家が並ぶ道を進んで行くと公園がありました。
『宝来公園』と書いてあります。

あれ、丘の斜面がそっくり公園?
とっても大きな公園で、ちょっと林みたいに見えます。

大きな池がありました。
池のほとりでひと休みしました。

ツツジの花が満開です。
水際では、陸に上がったカメさんが、気持ちよさそうに日向ぼっこしていました。

公園の道路を挟んだ反対側は小高い丘になっていて、上の方にも公園があります。

『多摩川台公園』

こちらも大きな公園です。
しかも、ただの公園ではありません。
なんとびっくり古墳なんです。
さっそく登って行きました。

「わぉ~!」
ゆったり流れる多摩川と、川崎側の住宅街がずっと向こうまで見渡せます。
あっちの方の、高いビルが集まってるところはきっと武蔵小杉です。

河川敷もとっても広いです。
川には東急東横線の鉄橋がかかっていて、あっ、また電車が渡って行きます。
道路も川を渡っています。
中原街道です。
中原街道は古代から続く街道です。
昭和の初めまで、ここには『丸子の渡し』がありました。
東海道五十三次は徳川幕府が作った道路ですから、徳川幕府を作った徳川家康さんは、この渡し場を渡って江戸へやって来たのかも知れませんね。


で、この古墳、誰がお祀りされているのか?
今となってはわかりませんが、かなり有力な地方豪族のリーダーだったんだと思います。

だって、ここから見える多摩川沿いの平らな土地には田んぼがいっぱい作れそうです。
山らしい山も特になく、ずっと平地が続いていて、遠くに富士山が見えています。
水は多摩川からいくらでも引くことが出来るので、田んぼが出来れば人が増え、人が増えれば田んぼが出来て、どんどん発展したことでしょう。

しかも、はるか昔から続く街道の渡し場という交通の要衝も押さえています。
多摩川を使った物資の輸送、 街道を使った遠隔地との交易なんかも、きっとしていたに違いありません。
それなりの支配領域があったことは明らかです。
しかも古墳は一つではありません。
多摩川台古墳群といって、いくつもの古墳がこの丘の上に作られているのです。
何代にもわたる支配一族がいたことは明らかです。

どんな人たちだったんでしょうね?
どこかから流れてきた武装集団が、「ヒャッハー! いい村だな、オレたちが支配してやるぜ!」的なことがあったんでしょうか?

きっと違うと思います。
きっと違うと思いたいです!

私の希望はこうです。
太古の昔から田園調布側の高台に狩猟採集生活を営む縄文人が住んでいました。
彼らは多摩川で魚を捕ったり、河川敷に暮らす小動物を捕ったり、田園調布から二子玉川にかけて広がる森で木の実や山菜を捕ったりして、貧しいながらも協力し合い、幸せに暮らしていました。

ある時、西方で流行っているという稲作というものを知り、ある若者がその技術と種もみを持ち帰りました。
しかし、長老たちは今までの暮らしを変えることを良しとせず、多摩川の向こう岸ならば田を作ってもよいとしぶしぶ許可を出しました。
若者は懸命に田を作りました。
何人かの若者がこれを助けました。

最初の年はボロボロでした。
でも、年を重ねるごとに収穫量は増大し、田んぼで働く村の人も増えて行きました。

水田が増えていくと、どういう順番で田に水を引くかとか、新しい用水路を作ろうとか、いろいろとやるべきことが増えて行きます。
若者はもめごとの仲裁や新規事業の計画に時間を取られるようになっていきました。
「あんたは田んぼに出んでいい。その代わり、水利の調整や土木計画に専念してくれ」
とうとうこう言われてしまいます。
若者は監督のような立場に収まりました。

「若造が、調子に乗りおって!」
面白くないのは長老たちです。
そんなことを言われては、稲作をする人たちだって黙っていません。
一触即発の不穏な空気が漂いました。

「みんな待ってくれ、オレに任せてくれないか?」
若者にはわかっていました。
コメだけでは生きていけない。
山の恵みも、川の恵みも、海の恵みも必要なんだ。
長老たちだってコメが欲しいに違いない。
我々と丘の上の長老たちが協力すれば、これらすべてが手に入るんだ!

長い交渉の末、若者は丘の上の長老たちと稲作をする人たち、両者の上に立つ調整役としての地位を手に入れます。
みんなのために公正な調整者に徹する若者に誰もが信頼を寄せ、その献身的な貢献に敬意を払いました。
豊かな食糧と様々な食材を得た村は、急速に発展していきました。


年月は矢のように過ぎ、いつか若者も年を取り、今や死の床にありました。
「わしが死んだら、誰からも見えるあの丘の上に墳墓を建てよ。ヤマト式の前方後円墳だ。そして村人に告げるのだ。前方は田を表わし、後円は山を表わすと。田んぼと山、どちらが主でも従でもない。これからもコメを作り、自然の恵みに感謝して暮らすのだと」
息子は嗚咽をこらえ、何度も何度も頷きました。
こうして最初の古墳が作られました・・・と思いたいです。

恐らく息子は「父が言ったことなんだ」「父が望んだことなんだ」そのたびに古墳を指さし、村を導いていったことでしょう。
そして村人たちもまた古墳を見上げ、「あぁ、あの人ならきっとそう言うに違いない」そう言って納得したんだと思います。
こうして縄文日本は、外来の弥生文化を吸収、同化していったんだと思います。


そんなことを思いながら富士山の向こうに沈むきれいな夕日を見つめていました。
きっとこの古墳の主も、ここから同じ夕日を眺めながら村の行く末を案じていたんだと思います。

私たちの一生は百年に満たない短いものですが、ずっとずっと昔の人も、同じ短い一生の中で、みんなのため、子孫のため、自分は何をすればいいのかを懸命に考えながら暮らしていたんだと思いました。




最後までご覧いただきありがとうございました。
『みんなのフォトギャラリー』から、赤猫福さんの画像を使わせていただきました。ありがとうございました♡


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