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短編63「最期の声」

あらすじ
突然の事故でパートナーを亡くした私は、留守番電話の声に囚われた3年間を過ごしていた。しかし、彼の最期の行動を知って……。

 絶望の鎖は透明だ。私の全身は縛られ続けていた。
 重く、冷たく、逃れられない。
 そんな私を救ってくれる唯一の光は、たった一言の彼の声――。

「俺です。今日は少し遅くなります。先に休んでいてくださいね」

 スマートフォンの留守番電話に残された、パートナーだった・・・忠文ただふみからの言葉。

 これが、私が最後に聞いた彼の言葉になった。
 そして私は、その声に囚われ続けた。まるで、時が止まったままの世界に、1人で置き去りにされたかのように。彼の声は透明のアンカーとなって心に留まり、私を救いながらも過去に繋ぎ止めている。

 ――スマートフォンの声は本人の声ではなく、よく似た合成音声が使われていると聞いたことがある。
 もしそうだとしたら、私が3年間すがりついていたあの優しい声は、一体誰のものなのだろう?

 会社からの帰宅途中、交通事故に巻き込まれた彼が逝ってしまって、もう3年が経つ。長いようで短い時間。あのときの私はまだ30代だったが、いまはもう40代になっていた。
 毎日は変わらないルーティン。1人の部屋で寝て、起きて、仕事に行って、帰ってくる。同じことが繰り返される日々だったが、いまの私には、なにかを変えようとは思えなかった。
 一人暮らしの部屋はまるで、深海に沈んだ巨大な美術館。美しく静かだが、激しく動くことは決して許されない。そんな空間で何度もリピート再生される生活が、ただ続いていた。

 そして、今年もまた事故の日がやってきた。
 事故現場は商店街の入口近くで、町内会が毎年献花台を用意してくれていた。町の賑わいとは裏腹に、そこだけ時間の流れから取り残されたように静まり返っている。
 夕方の買い物の時間だったこともあり、多数の子どもも巻き込まれたと聞いている。たくさんの献花だけでなく、子どもたちが書いた安全への願いなども置かれていた。
 それらはまるで、私たちの失われた日常たちの、小さな無数の残骸のようにも見えた。この残骸の向こう側にはなにがあるのか。私には分からなかった。

 私は花を置いて、手を合わせた。ふと見ると、隣で高齢女性が手を合わせていた。なんとなく目が合って、会釈する。
「お婆さんも、事故に……?」
「ええ、うちは孫が巻き込まれてしまって……悲惨な事件を思い出すと、いまでも心が痛みます」
 その沈痛な声に私は深く頷いた。確か、事故は操作ミスによるものだと結論づけられたと記憶している。運転手はハンズフリーで通話をしていたらしく、注意力が低下して事故を起こしてしまったらしかった。
「――お孫さんのこと、お悔やみ申し上げます」
「あ、ごめんなさいね、そう聞こえちゃうわよね。孫は無事だったのよ。30代ぐらいの男性が、咄嗟に庇ってくれたらしくて」

 ……え?

 彼女の言葉が、鉄の杭のように耳に突き刺さった。世界から音が消え、ただ『30代ぐらいの男性が、咄嗟に庇ってくれた』という一言だけが、私の頭の中に激しく鳴り響いてこだました。
 私は、必死に記憶の引き出しを探る。30代男性の被害者は、忠文しかいなかったはずだ。

「その男性が身を挺して、孫を助けてくれたそうで。彼にお礼を言いたかったのですけど、事故で亡くなられてしまったと聞いて……そんな立派な方が亡くなられるなんて、とても残念で寂しくて」
「……その男性、俣野またの 忠文って名前ではなかったですか? 彼は――私の夫でした」
 私がなるべく冷静さを装って言うと、お婆さんは驚いた表情を見せる。
「確かにその方です……そうですか、あなたが……。まさか、彼の縁者とお会いできるとは、有り難いことです」
「……私も驚きました。彼も、きっと報われると思います」
「有難や、有難や」
 お婆さんの瞳から一筋の涙がこぼれる。それにつられて、私も泣き出してしまっていた。まるで心のダムが決壊したように、涙がとめどなく溢れ出していく。3年分の錆びついた感情を洗い流す、浄化の洪水。

「私、ずっと彼がいなくなって、辛かったんです。急に1人になってしまって。でも、彼は正しく、懸命に、前向きに生きた。その証が残っているなんて、本当に嬉しくて、でも悲しくて」
 涙が止まらない。ぼろぼろとこぼれる涙を、お婆さんがハンカチで拭ってくれた。
「そんな彼が好きだったんでしょう? だから、それを誇りとして、歩むのがいいと思うわ」
 お婆さんはにっこりと微笑んで、笑い皺を作った顔で、私の頬を拭う。それに私は、しばらく泣き続けていた。

 しばらくして落ち着いた私は、帰宅してからもう一度、留守電を聞いてみることにした。

「俺です。今日は少し遅くなります。先に休んでいてくださいね」

 彼の声。彼の声。間違いない、彼の声だ。
 優しい声。ずうっと一緒にいるはずだった声。彼の声は、置き換えられたイミテーションなんかじゃない。彼の声だったんだ。私が愛し、そして誰かを救った彼の声だったんだ。

 私は、笑いながら泣いていた。彼は、私が愛した彼だったんだ。ずっと。
 絶望に、身を挺して立ち向かってくれた彼。その声は、私を過去の絶望に縛り付ける鎖ではなく、未来へと踏み出すための最初の音だったのだ。

 私はもう迷わない。そう決めた。悲しみを燃料にして、失われた時間を取り戻すために。
 悲しみは、決して無意味ではなかったから。それは、誰かの命の土台となり、そして未来へのメッセージとなるのだから。
 この深海から飛び出して新しい世界のドアをノックしようと、私は静かな決意を胸にいだいた。


注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。


最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。

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