短編119「明日、私はカノジョじゃなくなるの」
あらすじ
恋人の芳文に突きつけられた宣告。喜子との関係性を清算しようと思っている彼の気持ちを知って、喜子がとった行動は……。
私は、あなたのカノジョじゃなくなる。
それでいい。
私たちは、新しい道のりを歩み始めるのだから。
「喜子、明日話したいことがあるんだ」
芳文がそう切り出したのは、いつもの夜の電話でのことだった。声は普段通り優しかったが、喜子の耳にはその言葉は断罪の予告のように響く。
彼は明日、きっと私を振る。
『カノジョ』という肩書きを奪おうとしている。
電話を切った後、喜子はベッドの上に寝転がって、そっと瞳を閉じた。
予感、ではない。決定事項だ。
それは、昨日の午後に病院で耳にしてしまった、確かな事実だった。
昨日の午後、喜子は芳文が入院している病院を訪れていた。彼の個室の前でノックをしようとすると、主治医の落ち着いた、そして冷酷な声が、漏れてきた。
「芳文さん、病状の進行は早く、手の施しようがありません。余命は長くて半年でしょう」
医師の死刑宣告に芳文は戸惑い、息を大きく吸って、ゆっくりと吐いた。
「――分かりました。ただ先生、一つだけお願いがあります」
小さい声、でも冷静で落ち着いた声。芳文は続けた。
「喜子には、このことは言わないようにお願いします。明日、関係性を清算して、もうここに来る理由を無くさせます。僕の病気のせいで彼女の人生を振り回したくないんです」
その瞬間、私の世界は砕け散った。
芳文は、私を守るために離れようとしている。私から離れるという優しさは、嬉しいことじゃない。
そうじゃない。
完全に混乱した私はすぐに立ち去り、気づけば待合室でぼんやりと天井を眺めていた。
彼の病気が私と彼を分かつのではない。それは彼が私を愛しているという証明。
そう理解した瞬間、私は絶望とは違う、冷たく澄んだ覚悟に満たされた。
溢れそうになる涙を必死に飲み込む。もう泣かない。
カノジョとしての最後の一日を、彼が望んだ通り、完璧に幸せな思い出で塗りつぶすために。
明日、私は彼の罪悪感をすべて引き受ける。そして彼の優しさを受け止めるために。
私の覚悟は、とうに完了していた。
そして、今日。カノジョとしての最後の一日。
芳文は外出許可をもらっていて、予約したレストランに二人で向かった。彼の顔色は少し青白いが、私の前では笑顔を絶やすことはない。
「なあ、このパスタは評判通り美味しいね。どう思う?」
「うん、すごく美味しいと思う」
彼の言葉に私は笑顔を貼り付け、そう答えた。本当は、味なんて分からなかった。
私の意識は、芳文の笑顔、その声、手の温もりすべてを、記憶のデータベースに最高画質で焼き付ける作業に集中していた。
彼の笑顔を見るのは、カノジョとして最後。
彼の声で名前を呼ばれるのは、カノジョとして最後。
二人で手を繋いで歩くのは、カノジョとして最後。
一挙手一投足、芳文のすべての行動を、私は記憶する。
芳文が私を解放するための準備を進めている間に、私は彼を自由にするための準備を進めていた。
ディナーの後、芳文の家に行ってリビングで映画を見た。国境に阻まれるカップルの恋愛映画で、国籍を理由に阻まれる二人というのは他人事ではないと思えたが、いまの私には感動する余裕がない。
私は芳文の肩に寄りかかり、目を閉じた。彼の心臓の音、少し早くて弱い鼓動が、心の中に切なく響く。
「芳文、私ね――すごく幸せだよ」
そう呟くと、芳文はそっと、優しく、壊れ物を抱くように私の身体を抱きしめた。わずかに震える手が、心の迷いを伝えていた。
そのまま流し続けられた映画は午前二時には終わり、画面にはエンドロールが流れていた。リビングに静寂が戻って来る。窓の外はまだ、暗い。
芳文は隣に寝転がる私の横で、裸の上半身を起こした。
「――喜子、話したいことがあるんだ」
彼はいま、私から肩書きを奪って、死の苦しみから私を救うための言葉を準備している。
私は、彼に罪悪感を背負わせたくない。ずっと考えていた言葉を、改めて整理する。
「その前に、芳文」
私は微笑んで、彼の肩にそっと手を置いた。たぶん私の笑顔は悲しくて、でもどうしようもないと思っていた。
「――私ね、もう芳文のカノジョやめる」
彼の瞳は大きく見開かれ、驚きと、予期せぬ展開への戸惑いで揺れていた。
「え……?」
「いまから私たちは、カノジョとカレシじゃなくて、大切な『戦友』になるの」
芳文はなにかを言おうと口を開きかけたが、言葉にはならない嗚咽が喉に詰まった。
彼は瞬時に理解している。カノジョという関係を終わらせて戦友になることで、未来を共に生きる義務から私を解放できるということを。
私の頬を涙が一筋伝う。それでも私は話すことをやめず、穏やかに続けた。
「芳文が最後まで病気と戦えるよう、支援する。お粥の作り方、新しい治療法の情報、セカンドオピニオン……なんでも手伝う。でも、もうカノジョじゃないから、気を使わなくていいからね」
芳文は崩れ落ちると、泣いた。声を上げて、泣いていた。
時計が午前三時を指したとき、私は眠る彼の頭を撫でながら、静かに呟いた。
「さようなら、私のカレシ。ようこそ、私の戦友」
新しい一日が始まる。
私はもう、芳文のカノジョじゃない。
それでも私は、彼の人生を最後まで共に歩むことを選んだ、唯一無二の存在となったのだ。
その選択は、誰にも理解されないのかもしれない。
激しく悲痛な道のりかもしれない。
でも私は、これが最も純粋な愛の形だと、信じていた。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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