短編109「カレーライスは人生の黄金比」
あらすじ
激務で疲弊した夜、牧 典秀はカレー店で生ビールと福神漬けの儀式を始める。それは、明日の戦場に戻るための魂の安息を得る、重要な通過儀礼だった。やがて運ばれてきたのは……。
オフィスビルを出たのは、夜二十二時を過ぎたところだった。突然のトラブルに急遽残業となり対応にあたったが、本日中には解決できないと判断した。明朝が必ず来るという既定事実に、僕、牧 典秀は少しの抵抗と諦観を覚えていた。
ビルの冷たい照明から離れ、深夜の繁華街の雑踏に流れ着くと、黄色地に茶色の文字が書かれた、カレー専門店の看板が視界に入る。疲れ切った身体は食欲など忘れていたのに、心は素直に反応する。栄養補給のための食事ではなく、疲れた魂への高濃度な救命食が必要だと本能が叫んでいた。
(魂の安息地だ……)
僕はカウンター席に座ると、まずは生ビールを注文した。小皿に福神漬けを盛り付ける。
冷えたジョッキが置かれる。それを両手で包み込み、冷たさと重さを確認する。一日の疲労が蓄積した指先が、冷気でわずかに痺れる。
ゆっくりと持ち上げると、勝利の水を喉の奥へと一気に流し込んだ。
「くぅーッ!」
解放という名の勝利を掴み取った喉が、素直な勝ち鬨をあげる。業務終了の鐘が脳内でがらんがらんと鳴り響いていた。
それは同時に、周囲の喧騒を遮断し内省の世界へと入るための合図でもあった。
小さな皿に盛られた、茶色の福神漬け。
ビール一杯分を目処に盛りつけられたそれは、ちょうどいい調和の量だ。
口に含んでポリポリと咀嚼すると、世界が広くなったという錯覚が起こる。濃厚なメインディッシュへ向かうための思考の道筋がクリアになる。福神漬けは、その道筋を照らす補助灯だ。
「お待たせいたしました。ビーフカレーのハンバーグトッピングです」
店員の声と共に、目の前に皿が置かれる。ついに王様の登場だ。僕は一瞬瞳を閉じて、湯気と共に広がる芳醇なスパイスの香りを全身で受け止めていた。この芳醇なスパイスの複合臭こそ、知恵と情熱が複雑に絡み合った嗅覚の銀河だ。この香りを吸い込むだけで、疲弊した脳がフル稼働を始める。
白い皿に盛られたライスの上に、焦げ目のついた肉厚なハンバーグが堂々と鎮座している。その周囲を、とろみと光沢をたたえた濃褐色のカレールゥが、静かに、しかし威厳を持って満たしていた。
「これこそが、人生の黄金比――!」
僕はスプーンを握りしめて、感動に打ちひしがれていた。
この一皿は、単なる食事ではない。現実社会では手に入れられない、完璧な『黄金比』を体現した小さな宇宙だ。
まずはスプーンでハンバーグを半分に割る。微かな抵抗と共に、熱を封じ込めていた肉汁が小さな噴水のように溢れ出す。それは、ルゥという深海に肉の大陸の情熱が融け出す、奇跡の瞬間だ。この肉厚でジューシーなハンバーグという自己主張は、個の情熱だ。それが皿という社会に溶け出すことで、全体の旨味を高める。孤立していた個が、調和を生み出す瞬間の具現化。
スプーンに一口大にしたハンバーグとライスを乗せて、ルゥをくぐらせてから口に運ぶ。舌の先で辛さが爆発し、遅れてハンバーグの甘い旨味がそれを包み込み、最後にライスがすべての興奮を中和して飲み下させる。辛味、旨味、甘味の三層構造が、一瞬の完璧な解決を生む。
ビールを一口飲んで、また福神漬けに登場していただく。
洗い流された喉に福神漬けの甘酸っぱい酸味。濃厚な味わいで飽和し始めている舌をリセットしてくれた。
一口一口、その黄金比の崩壊と再構築を何度も繰り返す。この一皿を食べ尽くすことで、世界を、そして自己肯定感を再構築しているのだ。
そしてフィナーレの時がやってくる。皿の上のすべてを平らげた後、冷たいジョッキの表面に残る水滴を指でなぞり、僕は最後の一口を静かに流し込んだ。
「はぁ……」
溜息にも似た吐息が思わず漏れ出てしまう。全身の力が抜け、魂が脱力するほどの深い満足感が包み込んでくれる。
カレーによって豊かになった心、そして人生。この後も続いていく。
明日また、過酷な戦場に戻るためのエネルギーを、この一皿から確かに受け取ったのだった。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
作者のひとこと
カレーが食べたいです。
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