短編130「耳は塞がない。ただ前を向いて歩く」
あらすじ
毒親からのハラスメントという深いトラウマを抱え、他人の視線や笑い声に怯えながら生きる僕。シンクで吐き出し安定剤を飲むだけの毎日に、雨の日のアクシデントが……。
駅の階段を降りる足音が、背後から追いかけてくる。
改札の手前から響く笑い声が、僕を笑っている。
——僕の歩き方がおかしいんだろうか。コートの裾が汚れているのか。
それとも、僕の存在そのものが滑稽なのだろうか。
僕の耳の奥で、かつて肉親に浴びせられた『お前は歩く恥晒しだ』という怒鳴り声が、他人の笑い声と重なって増幅していく。背筋を冷たい汗が伝った。
視界が歪み、世界が自分を指さして笑っているような錯覚に陥って、僕は耳に入れていたワイヤレスイヤホンを、もう一度、ぐい、と押し込んだ。
アパートのドアを閉め、鍵を二重にかける。
カバンを床に放り出し、僕は倒れ込むようにキッチンへ向かった。胃の底からせり上がる酸っぱい液体を、冷たいステンレスのシンクにすべて吐き出す。
「……っ、はぁ、はぁ……」
蛇口を捻り、すべてを濁流に流し去る。
鏡を見る勇気はない。きっとそこには、幼い頃に見た、殴られて腫れ上がった、情けない顔の残像が映っているはずだから。
僕は震える手で、処方されている安定剤をシートから取り出し、水を使わずに飲み込んだ。
薬が血中に溶け出すまでの数十分。僕は冷たい床に座り込み、ただ静寂を待った。
そんな僕の日常に変化が起こったのは、ひどい雨の日だった。
通りかかった車が派手に跳ね上げた泥水が、僕のベージュのコートを汚した。このコートは僕にとって、『透明になるための鎧』みたいなものだ。
汚れは、そのまま僕の心の綻びを露呈しているようで、軽いパニック症状が起こる。
目の前に飛び込んできたのは、帰り道にある古びたクリーニング店だった。思わず駆け込むと、アイロンの熱い蒸気が立ち込め、石鹸の清潔な匂いが充満している。
「……これ、落ちますか」
ぼんやりとした頭でかろうじてそう言うと、中年男性が汚れた箇所を確かめる。
「ああ、泥か。すぐやれば落ちるよ。脱ぎな」
店主と思われる男は、僕の顔を見ようともせず、無愛想に言った。その視線を合わせないという行為が、いまの僕には優しかった。きっと、ひどい顔をしていただろうから。
翌日、コートを受け取りに行くと、昨日と同じ男性はアイロンの手を止めずに、口を開いた。
「あんた、いつも耳を塞いで、地面ばっかり見て歩いてるな」
僕は思わず肩を振るわせる。慌てて、ワイヤレスイヤホンを引き抜くとポケットに放り込んだ。
「……声が、聞こえる気がするんです。みんなが僕を笑っている声が。僕が変だから親も僕を嫌ったんだって、そう言われているような気がして」
それに男性は、僕のコートを丁寧に畳みながら、小さくため息をついた。
「あんたの親がどうだったかは、知らねえ。だがな」
彼は、初めて僕の目をまっすぐに見た。その瞳は、厳しさと優しさの同居した視線で、僕は不思議と吸い込まれてしまった。
「みんな、あんたを笑うほど暇じゃねえんだよ。自分の家のローンだの、今夜の飯のおかずだの、そんなことばっかり考えて生きてる。あんたは自分に囚われすぎて、他人がただの人間だってことを忘れてる」
静かに、突き放すように現実を淡々と語るその言葉は、不思議と僕の心に、すっ、と入ってきた。嫌な気持ちにはならない。
「ほら、これ持ってけ」
不意に、彼はカウンターの下から、小さな紙袋を差し出した。茶色で無地の紙袋は、なぜか暖かさを感じさせてくれる。
「俺が趣味で焼いてるクッキーだ。形は悪いが味はいい」
「えっ……」
「いいか、なにか辛いときは、これを一枚食え。腹が空っぽだから、頭に変な声が響くんだ。腹になにか入っていりゃ、心ってのは意外と図太くなれるもんだよ」
帰宅した僕は、いつものようにシンクへ向かおうとして、ポケットの重みに気づく。
紙袋を開けると、少し焦げ目のついた、分厚いクッキーが入っていた。なんとなく彼らしいな、と思って少し笑ってしまう。僕はそれを一枚摘んで、口に運んだ。
カリッ、という硬い音が部屋に響く。噛み締めるたびに、バターの甘味と香ばしさが広がった。それは薬のような無機質な沈黙ではなく、誰かの手で作られた、確かな現実の感触だった。
翌朝。
僕はクリーニングされたコートを羽織った。
駅へ向かう道すがら、やはり話し声は聞こえてくる。僕は無意識に、ワイヤレスイヤホンを耳の奥に押し込んでから、コートのポケットの中のクッキーの袋を指先で触れた。
——きっと、あの人は晩御飯のことを考えている。
きっとあの日は、仕事の締め切りを。
……僕を笑っている人は、ここにはいない。
僕は、何年も下げ続けていた視線を、数センチだけ上げた。
世界はまだ少し眩しすぎるけれど、いつものように自分を刺し殺そうとはしていなかった。
ゆっくりと、深呼吸をした。
シンクにすべてを吐き出す夜は、またやってくるかもしれない。
けれどそのときは、彼の言葉とクッキーを思い出すのだろう。
僕はそんなことを考えながら、自分の足音を数えながら、雨上がりの街へと踏み出した。
それから僕は、そのクリーニング店に定期的に顔を出すようになった。
なにを話すまでもなく、なにかをするわけでもなく。
ただ昨日あったことを聞いてもらって、時々クッキーをもらって、僕も市販のお菓子を差し入れする。
ささやかなことから少しずつ始めて、僕は歩き出していくのだ。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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