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短編129「もう、かぶれる猫が一匹もいない」

あらすじ
恋人の直人なおとに嫌われたくない一心で、美穂みほは付き合い始めてからの二年間、完璧な『理想の彼女』を演じ続けてきた。しかし、直人のあまりにも深く、逃げ場の無い愛情に追い詰められて……。

 誰にでも、人には見せたくない顔がある。
 それは深夜の鏡の中にだけ現れる、ひどく醜悪で、湿り気を帯びた自分自身の残骸だ。

 鏡の前に立つ美穂は、まるで舞台の開演を待つ役者のように、ひりつくような緊張感の中にいた。
 指先で頬をなぞり、自分の顔の感触を確かめる。
 そこには、二十四年間生きてきた自分という生身の存在があるはずなのに、いまの彼女にはそれが、どこか頼りない下地のようにしか感じられなかった。

「さて……今日はどの子で行こうかな」


 彼女の脳内には、クローゼットが存在している。
 そこには、直人という最愛の観客を喜ばせるための、多種多様な『猫』たちが並んでいた。

 一番人気の『白猫』は無垢で世間知らず、それでいて男性の後ろを一歩下がって歩くような、古風な清楚さを纏っている。
 仕事の相談に乗りたいときは、自立した大人の知性を感じさせる『ロシアンブルー』。
 彼が疲れていそうなときは、甲斐甲斐しく世話を焼き、適度に甘えて彼の自尊心をくすぐる『三毛猫』。

 美穂は、それらを状況に応じて『かぶる』ことで、二年もの間、一度も直人を失望させたことがなかった。

 何故、そんなことをするのか。
 答えは簡単だ。

 素の自分は、あまりにも美しく無いからだ。

 言葉は荒く、性格はずぼら。
 嫉妬深く、羞恥心は人一倍、そしてなにより、自分でも制御できないほどに愛が重い。
 過去の男性たちは、その本性が少しでも漏れ出すと、一様に顔を引き攣らせて去っていった。

『重すぎるんだよ、お前の愛は。息が詰まる』

「だから、猫をかぶってない私なんて、誰も欲しがらない」

 それが、美穂がこの世界を生き抜くための、悲しい処世術だった。

 今日の直人とのデートは、付き合って二周年の記念すべき日だ。美穂は迷った末に、彼が最も愛しているであろう『穏やかな三毛猫』を手に取った。
 口角の角度を数ミリ上げて、眉間の力を抜く。瞳には常に微かな潤いを蓄え、首を傾げる角度まで、すべては黄金比に従って計算されている。

 ——完成。
 鏡の中にいたのは、美穂であって美穂ではない、『理想の彼女』だった。

 直人のマンションを訪れるとき、美穂はいつも、自分が透明な防護服を着ているような感覚に陥る。
 彼は、大手メーカーの製品開発部で働くエリートだ。穏やかで、聞き上手。それでいて、こちらの小さな変化にも気づいてくれる。まさに、理想的な男性だった。
 そんな彼のことだから、住んでいるマンションも港が近い高級タワーマンション。私なんかじゃ、一生かかっても手に入れることのできない夜景を、彼は易々と手に入れていた。

「いらっしゃい、美穂。二周年だね、ありがとう」
 直人の笑顔は、いつも通り非の打ち所がなかった。彼は美穂の頭を優しく撫でて、ぽんぽんと軽く叩く。それは彼女が被っている猫だなんてことを、知る由もないはずだ。
「直人くん、ありがとう。私ね、今日という日を本当に楽しみにしていたの」
 三毛猫の声は、鈴を転がすような透明感を持っている。美穂は、彼が用意してくれたシャンパンの泡を見つめながら、内側の自分を深く、より深くに押し込めた。

 ディナーは直人の手作りだった。本格的なペペロンチーネと、彩り豊かなサラダ。しかし、ペペロンチーネの中央には、美穂が最も忌み嫌う食材——ピーマンが、見事な千切りになって鎮座していた。
 美穂は、ピーマンが嫌いだ。
 あの青臭い苦味を感じるだけで、嘔吐しそうになる。けれど、『穏やかな三毛猫』は好き嫌いのない健気な女性であるはずだったと、美穂は自分に言い聞かせていた。

「美味しそう! 直人くんの料理は、本当にプロ級だよね」
 美穂は微笑みを絶やさず、フォークを伸ばした。ピーマンを他の具材に紛れ込ませ、咀嚼を最小限にして飲み込む。喉を通るとき、僅かに食道が痙攣した。胃の底からせり上がってくる不快感を、シャンパンで無理やり流し込む。

 直人の瞳は、じっと美穂を見つめていた。
 その視線は、単なる視線というよりは、顕微鏡で微生物を観察するような、無機質な鋭利さと孕んでいるように感じられた。
 最近、この視線が美穂の防護服を透過してくるな、と少し感じていた。

「ねえ、美穂。君ってさ、いつも俺の好みに合わせてくれてるよね」
直人はワイングラスを傾けながら、穏やかに笑った。
「うん……だって、直人くんが喜んでくれるのが一番嬉しいから」
 美穂は即答する。
「直人くんと一緒にいられることが、私の人生で一番の幸せだわ」
 彼女の言葉には嘘偽りなどは一切存在しない。ただ、穏やかな三毛猫ならそう答えるというだけだ。

「そうか。でもね……僕は最近、少しだけ不安になるんだ」
 直人はワイングラスを回しながら、淡々と続けた。
「俺が『何でもいいよ』って言ったとき、本当は何が食べたい?」
 美穂のフォークが一瞬止まる。
「……えっと、なんでもいいよ? 直人くんの作ってくれたものが一番だから」
 直人は小さく笑って、それ以上は追及しなかった。
 ただ、その笑顔の奥に、ほんの一瞬だけ、何かを計るような冷たい光が走ったのを、美穂は見逃さなかった。
 三毛猫の皮が、内側から引き裂かれそうになる。美穂は慌てて、さらに強い粘着剤で仮面を貼り直すイメージを描いた。

「直人くん、少し疲れてない……? 私、そんな野獣なんて飼ってないわよ……?」
「そうかなあ……まあ、それなら、それでいいんだけど」
 彼はそれ以上は追求しなかった。だが、その夜の空気は、重油のようにどろりと重く、美穂の皮膚を圧迫し続けていた。

 食後のコーヒータイムになる頃には、窓の外では冷たい雨が降り始めていた。
 美穂は、精神的な疲労の限界に達していた。三毛猫を維持する精神力が、底を突きかけているのだ。
 トイレに立つと告げて、鏡の前で必死に自分を鼓舞した。

(ダメ、ダメよ……まだ夜は長いわ。三毛猫が無理なら、次はロシアンブルーに……いえ、記念日なんだから、白猫に戻すべき?)

 脳内クローゼットの中を掻き回すが、不思議なことにどの猫もひどくボロボロに見えた。
「かぶれる猫が……いない……」
 どの皮を手に取っても、指の間から砂のように崩れ落ちていく。白猫の耳は片方欠け、三毛猫の尻尾は千切れ、ロシアンブルーの瞳は剥げ落ちて空洞になっている。
 完璧だと思っていた彼女の武装は、もう限界だった。
 あるいは、直人の観察という名の酸に晒され続けて、化けの皮が溶け始めてしまったのか。

 リビングに戻ると、直人は照明を落としキャンドルの灯りだけが優しく点る中で、私を待っていた。
「美穂、こっちにおいで」
 彼の声はこれまでにないほど深く、抗いがたい重力を持っていた。その声に吸い寄せられるように、美穂は彼女の隣に座る。

「君との二年間は、僕にとって特別な時間だった。君は完璧だった。僕が望む言葉を、僕が望むタイミングで、僕が望む表情で、いつも与えてくれた」
「直人くん……」
「でもね、美穂。僕は理想の彼女が欲しかったわけじゃないんだ」
 直人の手が、美穂の首筋に触れた。その指は氷のように冷たく、美穂の心臓を直接握りつぶした。

「僕は、君の『嘘』が好きなんだ。僕に嫌われないために必死に自分を殺し、猫を被って、毎日鏡の前で表情を作る——その歪な努力が、たまらなく愛おしかったんだよ」
 美穂の全身から、血の気が引いた。
「……一体なにを言っているの?」
「君が被っていた猫たち。……全部、名前をつけて分類して、ノートに記録してある。君がどの猫を被っているときに、どの指が震えるのか、どの言葉に詰まるのか。僕は二年間、君をずっと観察して、愛してきたんだ」
 直人は一冊の手帳を取り出した。そこには、美穂が完璧だと思っていた二年間が、無機質な観察記録としてびっしりと書き込まれていた。

 1月15日:『三毛猫』。パスタのピーマンを飲み込む際、喉が三回痙攣。
 1月20日:『ロシアンブルー』。仕事の相談を受けている際、爪が手のひらに食い込んでいる。
 1月28日:『白猫』。映画の感想を述べる際、瞳孔がわずかに散大。

 ——頭の中が、真っ白になっていく。
 脳内クローゼットが、音を立てて崩壊していく。
 隠していたはずの、汚い自分。剥き出しの本音。
 それらが全て、直人の前では最初から見抜かれていたのだ——。

「やめて……見ないで……!」
「どうして? 僕はこれが見たかったんだ。君が、もうなにも被れなくなって、ただの一人の女として絶望する瞬間を。……さあ、美穂。クローゼットはもう空だろう? 次はどんな猫を被るつもりだい?」
 直人の瞳は、歓喜に揺れていた。
 美穂は必死に、最後のストックを探す。けれど、そこにはもう、被れる猫なんて居なかった。彼女の中にあった偽りの自分は、直人のあまりにも巨大で歪な愛に食い尽くされてしまったのだ。

「……最悪っ」
 美穂の口から、掠れた声が漏れた。
 それは、鈴の音でも、清楚な囁きでもない。池を這うような、濁った本物の声だった。
「本当に気持ち悪い! なにがノートよ。なにが観察よ。二年間もずっと、毎日毎日嫌われないように神経すり減らして、ピーマンなんて不味いものを笑顔で食べて……。私、あんたの理想になりたかっただけなのに! なんで、それを壊すよの!」

 美穂は床にへたり込み、髪を振り乱して叫んだ。
 表情は怒りと悲しみで酷く歪み、化粧は涙で崩れ、かつての美しさは微塵もなかった。
 彼女が二年間、命懸けで隠し続けてきた「醜い自分」が、ついに白日の元に晒された。

「ああ、もう死にたい。あんたなんて大嫌い! 消えてよ、いますぐ私の前から!」
 美穂は狂ったように叫んで、直人の肩をバシバシと殴りつけた。
 これで、すべてが終わる。きっと彼は軽蔑した目で美穂を見て、この部屋から追い出すはずだ。

 ……だが。
 直人は、その荒れ狂う美穂の手を強く掴むと、そのまま彼女をソファに押し倒す。
「……最高だ。これだ、これなんだよ。僕が二年間、どれだけ時間をかけてでも手に入れたかったのは、この、泥沼みたいな君の生身だ」

 彼の瞳には、これまで見たこともない、熱狂が宿っていた。

「美穂、もう猫被りはいらない。二度と、君はそんな安っぽい毛皮を触らなくていい。これからは、その醜い本音だけで僕を満たして。僕の人生のすべてをかけて、君の闇を飼い慣らしてあげるから」
 美穂は、ぽかんとした顔で真人を間近で見つめた。

 そこにいたのは、穏やかな恋人ではない。
 自分よりも遥かに深く、遥かに暗い、支配という名の愛に取り憑かれた怪物だった。

 美穂は悟った。
 自分は嫌われないために猫を被っていたつもりだったが、彼は、その皮を一枚ずつ剥ぎ取っていく過程を愉しむために、自分を囲い込んでいたのだ。

「……逃げられないのね」
「当たり前だろう。君のクローゼットを空にしたのは、僕だ。もう君には、僕の腕の中で、僕に毒を吐き続ける以外の生き方はないんだ」

 直人の唇が、美穂の耳元を掠める。
「愛しているよ、美穂。明日の朝食も、君の嫌いなピーマンをたっぷり入れてあげる。それを、精一杯の憎しみを込めた顔で、僕の前で食べておくれ」

 美穂は、全身の力が抜けていくのを感じた。
 もう、被れる猫はいない。

 彼女は、自分を縛り付ける直人の腕の中に、二年間で初めて、嘘のない自分の重みを預けた。
 それは、究極の絶望でありながら、救済に近い安堵でもあった。

 でも、なぜか——
 この腕の中は、以前よりずっと狭く、熱く、逃げ場のない檻のようにも、初めての安らぎのようにも感じられた。
 どちらなのかは、まだわからない。

 夜の帳が下りる中、マンションの一室。
 猫を失った女と、その中身を永遠に幽閉した男の、世界でいちばん歪で、そして純粋な、新しい愛の儀式が始まろうとしていた。


注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。


最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。

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