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短編128「ゆれる、ともしび」保護猫カフェバー Il Gatto Errante 〜二重唱編〜 #10

あらすじ
栄門町さかえもんちょうで保護猫を導く保護猫カフェ『Il Gatto Errante(イルガットエランテ)』。自分たちの方向性を示した彼女たちは、ライバル店への潜入を決めて……。

 私たちは、生きている。
 生かされているんじゃなく、自分の意志で生きている。
 それがどれほど大切なことなのかを、私たちは考えている。

 深夜の『Il Gatto Errante(イルガットエランテ)』。閉店後の静まり返った店内で、サヤカが書き上げたガイドラインが壁に貼られて、カウンターの柔らかな灯りに照らされていた。

「——これが、私たちの『けじめ』だ」
 レオンがその文字を指先でなぞる。そこには、猫の尊厳を守るための三つの条項が、迷いのない筆致で示されていた。その言葉に、聞いていたココとメイが深く頷いた。
「……あのう、レオンさん。でもこれを守り抜くってことは、向こうからの反発も考えられないですかぁ……?」
 メイが不安げに尋ねる。彼女の脳裏には、SNSで『やる気のない猫』と遠回しに攻撃してくる猫カフェ、『Le Chat Étoile(ル・シャ・エトワール)』の華やかな見せ方が浮かんでいた。

「相手をしている暇なんてない。このガイドラインを掲げる以上、私たちは『何故このルールが必要なのか』を、言葉ではなく存在そのもので証明し続けなければならないんだ」
 レオンは静かに視線を上げ、メイとココを交互に見つめた。その瞳には、かつて救えなかった生命への後悔と、二度と同じ過ちを繰り返さないという静かな決意が宿っている。
「江森先生のところで、私はル・シャ・エトワールの看板猫……ディアマンを診た。あの子の身体は悲鳴をあげていたよ。だが、彼らはそれを『プロ意識』という言葉で美化しているのも理解している。しかし、もし私たちが、彼らの手法をただの悪だと決めつけるのなら、それは自分たちの正義に酔っているのと同じだ」
 彼女は一度言葉を切り、深く息を吐いた。それからもう一度口を開いた。
「彼らがなにを愛と呼び、客がなにを求めて熱狂しているのか。その最前線を、一人の客としてその肌で感じてきて欲しい。それは、このガイドラインを単なる理想論に終わらせないために、私たちができることだ。……メイ、ココ。視察を頼めるか?」
 レオンの言葉には、リーダーとしての命令以上の重みがあった。自分たちの居場所を守るための、避けては通れない通過儀礼。メイは唇を噛み締め、覚悟を決めたように頷いた。
「……分かりました。私たちが、向こうの光の正体を、見てきます」

 翌日の夕方。店の一角で、メイによる準備が始まった。ココはよく分からないままに鏡台の前に座らされて、ヘアバンドで前髪を上げている。
「ねえメイさん、これって……」
「視察に行くなら、変装をしないとねえ」
 不安そうなココの言葉に、メイはイタズラを思いついた子どものような笑顔を見せる。向こうのキャストである真理夫は普通に来店しているというのに、何故そこまでやるのか、ココには理解できなかった。
「いい、ココ。向こうは光と音の暴力みたいな世界よ。そこで目立たないように、周囲のノイズに溶け込む背景みたいにならなきゃ。そうしないと、向こうの世界に入り込むことはできない」
 メイはいつもの明るい笑顔を封印して、真剣な眼差しでココの顔と向き合っていた。
「背景、ですか……」
「そう。猫を推すことに疲れた、あるいは自分を消して猫を眺めていたい、どこにでもいる観客の一人。その暗さが私たちを守る鎧となり、店に馴染んで本当の楽しさを受け止められるの」

 メイの手が動く。ココの透明感のある肌を厚めのファンデーションで塗り潰して、マットな質感に変えていく。ボルドーとダークブラウンのアイシャドウを深く入れて、目元に影を落とす。それは美しく見せるためのメイクではなく、個性を殺して溶け込むための塗り絵だった。
「……これ、本当に私……?」
 鏡を覗き込んだココが息を呑む。そこにいたのは、いつもの快活な少女ではなく、夜の街の隅で息を潜めているような、無機質な影となっていた。
「次は私ね」
 言ってメイは、慣れた手つきで自分の顔にも影を縫っていく。ベージュのリップで唇の赤みを消し、重めのアイラインで視線を伏せがちに見せる。
 完成した二人の姿は、賑やかな繁華街のネオンに吸い込まれれば、瞬時に誰からの記憶から消えてしまうような、空虚な観客そのものだった。
「……メイさんって、やっぱり、すごい……です」
 ココが心の声を素直に発すると、メイはおどけて舌を出して、いつもの笑顔で笑っていた。

 ル・シャ・エトワール。
 繁華街の一等地に備えられたその店は、入り口からして異様だった。
 黒塗りの重厚な門構えには、黄金に輝く『星を冠した猫』のエンブレム。両脇にはクリスタルを散りばめた猫の石像が鎮座し、足元からは紫色のスポットライトが夜空を突き刺すように伸びている。
 重厚な扉を開けると、そこはもはやカフェという概念を超えた『劇場』だった。天井からは無数のシャンデリアが滴り落ちるように輝き、壁一面が鏡張りになっているため、店内の奥行きは無限に広がる万華鏡のように錯覚させる。
 フロアの中央には円形のステージがせり出し、その周囲を低音の効いたジャズ音楽が、客の鼓動を煽るように満たしていた。
 照明は意図的に落とされ、光を放つのは猫たちが首につけたLED内蔵のチョーカーと、ステージを照らす煌々としたネオンだけだ。浮遊する埃さえも演出の一部のよう。そこには柔らかな木漏れ日はなく、ただ人工的なスタアの輝きだけが支配していた。

「……すごい」
 その光景にココは完全に飲まれて、その一言を言うだけで精一杯だった。隣に立つメイも、口をぽかんと開けて静かに周囲を見回している。
「さあ、ディアマン。皆さんに最高の輝きを!」
 ステージ上から、マイクの音声が鳴り響く。見上げると、執事のように洗練された衣装の一人の男性が、スタア猫・ディアマンを先導していた。
 彼が指を鳴らすと、ディアマンは背筋を伸ばして、カメラに向かって完璧なポーズを決める。客席から歓声が上がり、おひねり替わりのおやつ交換チケットが次々と投げ入れられた。

「……ディアマンの耳の角度、あれは集中じゃない。諦めだわ……瞬きの回数も多すぎる。心の栄養が、全然足りてない……」
 ぼそり、とメイが呟く。ココは思わず彼女に振り返る。メイは、ステージ上を悲痛な表情で見上げたままだ。

 だが、執事役の男性の瞳は、純粋な情熱に燃えていた。
 彼は本気で信じているのだ。猫に王冠を被せ、喝采を浴びせることが、その生命をもっとも輝かせる方法なのだと。

 サヤカが書いたガイドラインにあった、居場所の尊厳も遊びの自由も、ここでは一欠片も存在していない。猫は生命ではなく、完成された作品として、彼らの美学の中に閉じ込められていた。

「……きっと彼も、あの子を愛している。でも……あの愛は熱すぎて、猫の毛並みを焼き切ってしまう……」
 メイの呟きは、音楽の波にかき消された。

「——そんな暗い顔して酒飲んでも、うまないやろ? なあ、メイ」
 背後からかけられた、聞き覚えのある関西弁。メイとココの背中に冷たい汗が流れる。
 ゆっくりと振り返ると、そこには執事の衣装でカウンターに肘をつき、不敵に笑う真理夫がいた。
 ココは慌てて視線を伏せ、背景に徹しようとする。しかし、真理夫の目は迷いなくメイとココを射抜いていた。

「隠してるつもりやろうけどな、あんたの持ってる輝きまでは消せてへんで。ま、さすがはわいのライバルやな、と言っておくわ」
 真理夫は歩み寄り、メイの耳元で囁くように続けた。
「ココちゃんを連れて、なにしに来たんや? わいらの純粋さに当てられに来たんか?」
 メイは低く、抑えた声で返した。擬態のメイクが、マリオの鋭い観察眼の前でボロボロと剥がれ落ちていくような感覚。

「……あいつはな」
 言って真理夫はステージ上の男性を顎で指し示す。
「猫をスタアにすることが最高の救いやと信じとる。あんたらどんだけ『健康がどう』『自由がどう』とか言うたところで、あいつの正義は折れへん。あんたらの理想とやらは、あいつの純粋さを殺せるほど強いんか?」
 鋭い針のようにメイの胸を突き刺す、真理夫の言葉。それにメイは一瞬真顔で彼を見つめて、それから視線を逸らす。
「……そんなことはしないわ。私たちは、ただ守るだけ」
 メイは真理夫を真っ直ぐに見返した。彼はそれに動じない。表情ひとつ変えずに、それを正面から受け止めていた。
「メイさん……もう、帰りましょう」
 ココは慌てて彼女の腕を両手で掴む。メイはその暖かさに気づいてその手を見下すと、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうね。じゃあ、真理夫もまたねえ」
 最後の言葉は複雑な色をしていたが、いつものメイに戻っていた。

 夜になって店に戻った二人は、洗面台の前にいた。
 クレンジングをコットンに浸し、顔を擦る。暗いアイシャドウ、厚いファンデーション。
 水と共に流れていく擬態の跡。鏡の中に、赤みを帯びた二人の本当の肌が戻ってくる。

「メイさん……」
「大丈夫よ、ココ。……怖かったねえ」
 不安げなココの言葉に、メイはいつもの笑顔で微笑んで、静かに言った。
「彼らの愛情は、確かにあの子たちを輝かせていた。でも、それは生命を削って発する輝きよ。あんなの、長くは続かない。……だから、私たちは私たちのやり方が、間違っていないということを証明しなきゃいけない」
 メイは呟くようにそう言うと、タオルで顔を拭いた。

 静かになったフロアには、静かに動く猫の気配と、照明の落ちた店内が不思議な空間を形作っていた。
 壁には、サヤカが考えてくれたガイドラインがある。
 暗い店内で、その文字だけが確かな意志を持って浮かび上がって見えた。

「おかえり」
 レオンが医務室から出てきて、二人に温かいミルクティーを差し出す。
「……なにか得られたか?」
「はい。守らなきゃいけないものが、もっとはっきりしました」
 レオンの問いにメイは即答して、ココもそれに続いて頷く。

 たとえ外の世界がどれほど華やかで、自分たちの静かな愛が怠惰だと蔑まれようとも。
 この扉の中だけは、猫たちがただの猫として、安全に、自由に、生命を全うできる場所であり続ける。
 それが、イルガットエランテが選んだ、誰にも譲れない『けじめ』だった。

「……そうか。明日も早い、今日はゆっくり休むんだよ」
 なにかを察したのか、レオンはそれ以上なにも言わず、医務室へと戻っていく。
 ソファで眠るモカが、短く「にゃ」と応えた。
 それはスタアの鳴き声ではなく、ただ愛されている一匹の猫の、安らかな寝言だった。


注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する実在の地名や場所は物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。


 最後までお読みいただきありがとうございました。 もし気に入っていただけましたら、スキやチップの応援を頂けると励みになります。 また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。

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登場人物紹介(最新話を元に構成・更新しています。そのため本編のネタバレとなる場合がございますので、閲覧にはご注意ください)



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