短編138「新しいタイムライン」
あらすじ
優衣は、底抜けに優しいが「今」しか生きられない恋人・大樹との未来に限界を感じていた。彼の無責任な優しさに期待し、傷つき続ける自分を救うため、彼女は……。
深夜二時。
青白いスマートフォンの光が、優衣の泣き腫らした目を刺す。
画面の中では、大樹が仲間たちと肩を組み、空になったジョッキを掲げて笑っている。
『今夜も最高! 一生このメンツで飲んでたいわ(笑)』
三時間前の投稿。
背景に写り込んでいる時計は、彼が「もうすぐ帰る」とLINEをよこした時間をとっくに過ぎていた。
……いま隣で眠る大樹は、驚くほど無防備な寝顔を晒している。
優衣は、彼が脱ぎ散らかしたままのジャケットを拾い上げ、そっとハンガーにかけた。ポケットから転がり落ちたのは、くしゃくしゃになった居酒屋の領収書。
「……バカだなぁ、本当に」
優衣は独りごちて、彼の頬をそっと撫でた。
指先に伝わる体温は、温かい。嫌いになれたら、どんなに楽だっただろう。
彼は優しかった。底抜けに、ずるいほどに。
けれどその優しさは、優衣が望む未来という名の足場を、確かに、確実に、腐らせていた。
……かつて、二人の時間はもっと輝いていた気がする。
付き合って、二年目の記念日。
貯金が全然ないからと言って、大樹は夜景の綺麗なレストランを予約する代わりに、部屋中を百均のキャンドルで埋め尽くしてくれたことがあった。
『優衣、高い肉は買えないけど、世界で一番美味いソースを作ったよ』
照れくさそうに笑いながら彼が用意してくれたのは、不恰好なハンバーグ。
けれど、二人でそれを味わいながら、安いワインを分け合って飲んだあの夜、優衣は間違いなく『この人と一生一緒にいるんだなあ』と微塵も疑いを持っていなかった。
一昨年の彼のSNSには、優衣がプレゼントしたマフラーを巻き、真っ赤な鼻をして笑う彼の写真が載っている。
『これ、一生宝物にする。優衣、愛してるよ』
その言葉を、優衣はずっと信じている。彼は嘘を吐いてはいない。その瞬間、確かに一生を誓っていたのだ。
けれど、大樹の一生は、いつも数時間で更新されてしまう。
彼はいつも『いま、目の前の誰かを笑顔にすること』に全力で、その代償として『明日、隣にいる人を守ること』を忘れてしまう人だった。
去年の秋、優衣は意を決してウェディングフェアのパンフレットをテーブルに置いた。
二十代の終わりが見え始め、周囲が次々と家庭という安定した船に乗り換えていく中で、優衣だけが泥舟を漕いでいるような焦燥感があった。
「大樹、そろそろちゃんと、将来のこと考えない?」
彼はパンフレットを一瞬だけ見て、いつものように優しく優衣を抱きしめた。
「分かってるよ、優衣を幸せにするのは俺だって決めてる。でも、いまはまだ仕事がバタバタしてるから……もう少しだけ待って。ちゃんと貯金も始めるから」
だが三ヶ月後、大樹は趣味のカメラレンズを衝動買いして帰ってきた。賞与の大部分を注ぎ込んだその行為に、優衣は流石に怒った。
すると翌日、彼は花束を買って帰ってきた。
「ごめん。優衣が悲しむ顔は見たくないんだ。これで許して?」
花は美しかった。
けれど、優衣が欲しかったのは枯れない花ではなく、二人で住むための部屋の契約書であり、老後のために積み立てる通帳の数字だった。
彼の優しさは、優衣にとって毒だった。
優しくされる旅に彼女の決意は揺らぎ、また彼を信じてしまう。
その繰り返しが、五年の歳月を空っぽなものに変えてしまった。
優衣は、スマートフォンの画面を再びスクロールさせる。
大樹のプロフィール画面。これを見ている限り、彼の楽しそうないまに触れている限り、私はまた期待してしまう。
明日には彼が改心して、スーツをビシッと着こなして、真面目に貯金を始めて、私にプロポーズしてくれるんじゃないか。
そんな、起こりもしない奇跡を。
期待は、人を最も残酷に傷つける刃だ。
いまの私は、大樹に傷つけられているんじゃない。
彼に期待し続ける私自身に、毎日切り刻まれているのだ。
震える指が、青い『フォロー中』のボタンの上に重なる。これを外せば、彼の食事も、笑顔も、誰とどこでなにをしたかも、私の視界からは消える。
これから始まるストーリーのための、最初の、そして最大の儀式。
「……ごめんね」
大好きだった。世界で一番、この人の隣が居心地が良かった。
でも、その居心地の良さは、私を微睡ませる甘い麻薬であったのもまた、事実だった。
——タップ。
その瞬間、画面から大樹の顔が消えた。
タイムラインには、知らない誰かの料理写真や、ニュースのヘッドラインだけが流れる。
彼という鮮やかなノイズが消えたタイムラインは、驚くほど静かで、白く、冷たかった。
翌朝、優衣はいつもより早く起きた。
まだ眠っている大樹の枕元に、預かっていた合鍵と、一枚のメモを置いた。
メモには『嫌いになったんじゃないよ。ありがとう』とだけ書いた。
駅のホーム。
電車を待つ間、いつもの癖でスマートフォンを取り出す。それからSNSを開く。そこには、大樹の姿がないことに気づいて、ああ、そうか、昨晩消しちゃったんだっけ、と思い出す。
それからスマートフォンをポケットに押し込んだ。
視界から彼を消すことは、彼を忘れることではない。
『あなたがいなくても、私は大丈夫です』という、自分への誓いだ。
電車のドアが開く。
優衣は一歩、社内へと足を踏み出す。
窓に映る自分の瞳は、どこか晴れやかで明るい光をたたえているように見えた。
大樹のタイムラインを追っていたときよりも、ずっと真っ直ぐに明日を見据えていた。
電車が動き出す。
彼女の指先は、もう誰かを追いかける鎖ではなく、自分だけの新しい地図を描くための筆へと変わっていた。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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