短編137「最愛のヴィンテージ」
あらすじ
動産会社で働く奈弥にとって、夜のワインは自分を再起動させる聖域。かつて「師匠」としてワインのいろはと自分を慈しむ静寂を教えてくれた理屈っぽい男性を思い出しながら、彼女は至福の時を過ごして……。
二十三時。
奈弥は、都内のマンションのリビングで、照明を限界まで落としていた。
窓の外、新宿の高層ビル群が放つ冷たい光が、都会の静寂を逆説的に際立たせている。
日中は不動産会社のプロジェクトマネージャーとして、分刻みのスケジュールと格闘している彼女にとって、この時間は唯一自分という存在を再起動させるための聖域だった。
奈弥はキッチンのストッカーから、一本の赤ワインを取り出す。
ボルドー、サン・テステフの銘醸。カベルネ・ソーヴィニヨンを主体とした、黒系果実の凝縮感と力強いタンニンが特徴の一本だ。
今夜は、誰かに合わせるための軽いお喋りではなく、自分自身の深い場所に楔を打ち込むような、そんな重厚さが欲しかった。
使い込まれたオープナーのスクリューを、コルクの芯へ真っ直ぐにねじ込む。
——キュッ、ポン。
耳に心地よいその音が、外界との繋がりを断つシャッター音のように響いた。
ワイングラスを傾け、ワインを注ぐ。
トクトク、トクトク……。
深いガーネット色の液体が跳ね、カシスや杉の木、そして微かなグラファイトの香りが一気に立ち上がる。
奈弥はソファに深く沈み込み、最初の一口を喉に流した。
「……っはぁ……っ。赤ワインを飲むことだけが、至福の幸せだわ」
ベルベットのような滑らかさと、それでいて主張の強い渋みが体温に溶けていく。
そのときにふと、かつてこの『儀式』のいろはを自分に叩き込んだ、ある人物の横顔が脳裏に浮かんだ。
十年前の奈弥は、ワインのことなどなにも知らなかった。
「酒なんて酔えればいい」と公言し、安い居酒屋でジョッキを煽るのが常だった彼女に対して、その人は執拗なまでに『知ること』を求めてきた。
「奈弥、グラスのボウルを持つんじゃない。ワインの温度が変わってしまうだろう」
「そんなに神経質に飲んだって、味なんて変わりはしないわよ!」
代官山の小さなバーで、二人はよく言い争った。
当時の奈弥にとって、彼が語るワインの知識はただの面倒な説教にしか過ぎなかった。
産地、ヴィンテージ、葡萄の品種、抜栓してからの開き方。彼は一杯のワインを前にして、まるで一本の映画でも語るかのように、大真面目に講釈を垂れた。
「ワインを飲むということは、その土地の記憶と、作り手が費やした時間を飲むことなんだ。それを理解せずに飲むのは、物語を読まずに結末だけを聞くようなものだ」
そんなキザな台詞を鼻で笑いながらも、奈弥は彼の真剣な眼差しから目を逸らせなかった。
けれど、逃げ出したいほど打ちのめされたときは、彼はなにも聞かずに、ただ静かに一本のワインを開けてくれた。
「今夜はなにも考えなくていい。ただ、この色の深さだけを見ていなさい」
差し出されたワイングラスの中で、ワインが空気に触れて香りを変えていく。その変化に集中していると、不思議と心の中にあった棘が少しずつ丸くなっていくのが自分でも分かった。
彼が教えてくれていたのは知識だけではなく、荒れ狂う日常の中で『自分を慈しむための静寂』のつくり方だったのだ。
以来、奈弥にとってワインは、彼との対話の続きになった。
一時期、二人の道が分かれたことがあった。
彼は仕事の都合で数年間、日本を離れることになった。
奈弥は見送りには行かなかった。合理的であろうとした当時の奈弥は、『また会える』という根拠のない言葉を信じることができなかったからだ。
一人で過ごす夜が増えても、奈弥は彼に教わった通りにワインを開け続けた。
ワインオープナーを握るたび、彼の指の添え方を思い出す。
あんなに理屈っぽかった人は、いま世界のどこで、誰とワインを飲んでいるんだろう。そんな干渉さえも、ワインの渋みと一緒に飲み干してきた。
——奈弥は二杯目のワインをグラスに注ぐ。
赤ワインは、生き物だ。閉じ込められていた時間が、いま、私の前で解き放たれている。
「……本当に理屈っぽい人だったわ」
奈弥は独りごちて、ふにゃりと笑った。
『あのとき』の厳格な師匠が今の自分を見たら、なんと言うだろう。「テイスティングが雑だ」と怒るだろうか。それとも、「ようやく様になってきた」と褒めてくれるのだろうか。
奈弥は、二杯目の最後の一口を惜しむように飲み干した。
体はじんわりと温かく、一日のストレスは綺麗に濾過されている。
時計の針は二四時を回ろうとしていた。そろそろ、この至福の時間からログアウトして、眠りの底へログインしなければならない。
あんなに面倒な説教だと思っていた彼の声が、いまではなによりも心地よいBGMのように記憶に刻まれている。
彼に教わったことは、もう上書きできない私の血肉になっている。
もし、いまここで『あのとき』の彼が現れたら。私は彼になにを話せばいいんだろう。
なんて、起こるはずのないことを考えていた。もうそろそろ、眠った方が良さそうだな、と奈弥は思った。
「……奈弥? まだ起きてたのか」
リビングのドアが静かに開き、一人の男性が入ってきた。
少しだけ白髪が混じり、目尻には年月相応のシワが刻まれている。けれど、その知性的で、どこか理屈っぽそうな眼差しは、十年前と少しも変わっていない。
「はあ、またそんな重いワインを開けて……明日の朝、早いって言ってなかったか?」
彼は呆れたように笑いながら、キッチンの棚から自分用のワイングラスを取り出した。
「いいじゃない。あなたに教わった通り、一番いい状態で飲みたかったのよ」
奈弥は、ボトルを彼に手渡した。
彼は慣れた手つきでワイングラスにワインを注ぎ、まずはその色を、次に香りを、最後に味を。儀式のように確かめる。
「……悪くない。少し開き過ぎているが、いまの君には、これぐらいがちょうどいいのかもしれないな」
相変わらずの講釈に、奈弥はクスクスと笑った。
かつて、私に世界の美しさと静寂の守り方を教えてくれた厳格な師匠。
不器用な情熱で私の心を解きほぐし、数年の空白を経て、再び私の隣という定位置へと帰ってきた人。
いま、私のグラスの隣で、同じ年月を熟成させているこの人こそが。
私が人生という長い旅の途中で見つけ、生涯をかけて飲み干すと決めた、最愛のヴィンテージ。
二人の夜は、深まりながらこれからも続いていく。
明日の夜も、また新しいボトルが二人の物語を彩るはずだ。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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