短編136「新しい世界を待ちながら」
あらすじ
合理性を重んじ、かつて恋人の雪子が語った感性をノイズだと切り捨てた亘。数年後、雪の予感を感じると、閉ざした記憶が蘇って……。
——都内の空は、いつも狭くて、暗い。
新宿の高層ビル群が、天を突く剃刀の刃のように冷たく、鋭くそびえ立っている。
仕事帰りの西口通り。アスファルトを叩く革靴の音は、寒さのせいかどこか硬く、乾いた響きを帯びていた。私は足を止め、マフラーに顔を埋めながら、分厚い灰色の雲に覆われた空を見上げる。
「……雪が降りそうだ」
独り言が真っ白な息となって吐き出されて、夕暮れの空に吸い込まれて消えた。
都内の冬は、芯まで凍えるように寒い。雪が降りそうな寒さは、いつぶりだろうか。
オフィスビルから溢れ出してきた人々は、誰もがスマートフォンに目を落とし、首をすくめて足早に駅の改札へと吸い込まれていく。きっと彼らにとって、雪は交通機関を麻痺させる障害でしかなく、面倒な足枷にしか過ぎなかった。
数年前までの私も、そうだった。
IT企業でプロジェクトマネージャーを務める私の日常は、効率と合理性、そして予実管理という名の数字によって支配されていた。一分の遅れも許されないタイムラインの中で、情緒や感傷といったものは、真っ先に削ぎ落とされるべきノイズだった。
けれど、この雪が降りそうな空気の匂いが鼻腔をくすぐると、そのノイズが猛烈な勢いで心の内側に溢れ出してくる。
閉じ込められていた記憶の蓋が、寒さで脆くなった隙間から、音を立ててこじ開けられてきた。
雪子のことを思い出していた。
その名に違わず、彼女は雪が降りそうになると、まるで世界で最初の贈り物を見つける子どものような瞳で空を仰ぐ人だった。
『ねえ、亘くん。空の色、見て! もうすぐ世界が新しくなるよ』
数年前、同じこの道で、彼女はそう言って私の腕を引いた。長い黒髪を揺らしながら見せる、楽しそうな笑顔が忘れられない。
当時の私は、締め切り間近の案件を抱え、彼女の手を優しく握り返す余裕さえなかった。
「世界が白くなっても、明朝の山手線が止まるだけだ。雪子、もっと現実を見なよ」
冷たく放った言葉は、いまでも自分の胸を刺す。
雪子は悲しそうに笑うわけでもなく、ただ不思議そうな顔で私を見つめていた。
彼女が見ている世界と私が見ている世界は、同じ場所にいながらまったく違う座標に存在していたのだ。
そんな彼女だったから、別れも突然だった。
今日のような、雪が降りそうなほど冷え込んだ冬の夜。夜の喫茶店で、彼女は静かに、しかし決然とした口調で切り出した。
『亘くん、私、やりたいことができたんだ』
彼女が差し出したのは、海外の小さな村で子どもたちに絵を教えるボランティアのパンフレットだった。安定した仕事を捨てて、言葉も通じない土地へ一人で行くのだという。
「どうしていまなんだ? ここで私と一緒にいることが、不満なのか?」
「不満じゃないよ。でもね、私、ずっと誰かの色に染まって生きてきた気がするの。一度、全部真っ白な場所へ行って、自分の筆で自分の色を描いてみたいの」
雪子はいつもの穏やかな口調だったが、その決意が硬いことはひしひしと伝わってくる。
「——雪が降った後の、あのまっさらな道みたいに」
結局、私は彼女を引き止めることはできなかった。
空港への見送りは行かなかったし、こちらから連絡を取ることもしなかった。
しばらくして「スマホ変えなくちゃいけない。番号が変わるから」とショートメールが来た。
私はその返事をすぐに返すことはできず、三日間、合理的な言い訳を考えては消した。
そして、三日後に返信したメールは誰のところへも届かなかった。
合理的であるはずの私の頭脳は、彼女の情熱という名の意志を非論理的だと決めつけ、解析することができなかった。
彼女の瞳の中にあった、自分には届かない場所を見つめる光。それが、私と彼女の間の、決定的な距離だった。
私は駅へ向かう人の流れを外れ、中央公園の隅にある小さなベンチに腰を下ろした。
座面は氷のように冷たく、コート越しに体温が奪われていくのが分かる。指先の感覚は次第に消え、肺の奥がツンとするような冷気が入ってくる。
けれど、その痛みが心地良かった。
温かいオフィスや満員電車の中で、麻痺しきっていた私の皮膚が、ようやく『いま、ここにいる』という感覚を取り戻そうとしている。
都心の喧騒が、寒さのせいで遠くへ吸い込まれていく。
見上げた空はすでに陽が落ちて、さっきよりも低く、暗くなっているように見えた。
——雪が降りそうな寒さは、いつぶりだろうか。
それは、雪子がいなくなってから、私が初めて自分自身の心に問いかけた言葉だった。
「……雪子。君はいま、何色を見ている?」
声にならない呟きが、白く濁って闇に消える。
彼女が去ったあの日、東京には結局、雪は降らなかった。
中途半端に冷え込んだまま、空は重たい雲を抱えたまま、ただ朝を迎えた。
不意に、視界の端を白いものが掠めた。
一粒。
それは街灯のオレンジ色の光に照らされて、ゆらゆらと、しかし確かな意志を持って落ちてきた。
次に、また一粒。
それは私の頬に触れ、一瞬の冷たさを残して、体温によって静かに溶けた。
「……あ」
予報には無かった雪だった。
大粒ではない。粉のような、繊細な雪。
ビル風に煽られ、不規則な軌道を描きながら、都会のコンクリートを白く染めようと舞い降りてくる。
私はベンチから立ち上がり、思わず空を仰いだ。
雪子がいつもやっていたように、口を開けて、その冷たさを全身で受け止める。
睫毛に雪が乗り、視界が白く滲む。
ふと、その瞬間、耳の奥で彼女の声が鮮やかに再生された。
『雪はね、世界を新しくするために降るんだよ』
降り積もる雪が誰の足跡もない道を一時的に作り出すように、彼女は自分の道を歩いた。
古い感情や、凝り固まった常識や、そんな汚れを覆い隠し、ただの自分として一歩を踏み出すための、潔白な余白。
彼女は、その余白を自らの手で掴み取るために、新しい道を選んだのだろうと、いまならそう思える。
この雪は、明日の朝には消えているだろう。けれど、私の心に落ちたこの一粒の冷たさだけは、上書きできない鮮やかな色として残るはずだ。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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