短編135「ログインが剥がされる」
あらすじ
役に「ログイン」することで全能感を得る俳優のサキ。舞台後の「ログアウト」で空っぽな自分に戻る恐怖に怯えるが……。
舞台袖の空気は、いつも少しだけ鉄の味がする。
使い古された暗幕の埃と、誰かの緊張が揮発した汗、そして舞台装置の骨組みである鉄骨が混ざり合った、この場所特有の匂い。私はその闇の中で、何度も深く、浅く、呼吸を繰り返す。
客席のざわめきが、厚いカーテン越しに遠くの波音のように聞こえる。私の手足は氷のように冷たい。
心臓は肋骨を内側から叩き壊さんばかりに暴れている。
これが私、サキだ。
冴えなくて、臆病で、自意識の化け物に飲み込まれそうになっている、二十三歳の、何者でもない私。
けれど、ブザーが鳴り、照明が落ちるその瞬間。
私はサキという個人をシステムから強制的にシャットダウンする。
意識の深淵にあるスイッチを切り替える。
カタカタと音を立てて、脳内に新しいデータが流し込まれていく。
名前、生い立ち、大切な人の名前、嫌いな食べ物、昨日の夜に流した涙の理由。
それらが一つに溶け合い、私という肉体に同期する。
私は、私を脱ぎ捨てる。
そして、用意された役にログインする。
ライトが点灯し、舞台が白日の元に晒される。一歩、足を踏み出したとき、私はもうサキではない。
十八世紀のフランスで革命に身を投じる貴族の娘であり、あるいは、近未来の廃墟で最後のアンドロイドを看取る科学者だ。
ログイン中の視界は、現実よりもずっと穏やかだ。
台詞の一言一言が、自分の意思とは無関係に、しかし必然性を持って口から滑り出していく。
指先の動き一つ、視線の配り方一つに、完璧な理由が宿る。現実の私なら、カフェで注文するだけで言葉を噛んでしまうのに、舞台上の私は、何千人もの前で愛を叫び、絶望を演じ、誰かの人生を鮮やかに塗り替えてみせる。
このときだけ、私は全能になれる。
私という不完全な存在に、完璧に設計されたプログラムが上書きされている状態。
客席からの熱を帯びた視線が、私というデバイスに充電されていく感覚が心地よい。
このまま、ずっとログインしたままでいたい。ログインしたまま、バグだらけの現実に帰らなくて済めばいいのに。
けれど、物語には必ず終わりがある。
クライマックスの劇伴が鳴り響き、最後の台詞を吐き出す。
照明がゆっくりと暗転していくその瞬間、私はいつも背筋に走る言いようのない寒気を感じる。
それは、ログインの膜が剥がれ始める予兆だ。
「お疲れ様でしたー!」
鳴り止まない拍手の残響を背に、舞台袖へ戻る。
スタッフの声、機材を撤収する音。それらすべてが、さっきまでの物語を偽物へと引き戻していく。
楽屋の鏡台の前に座ると、そこにはまだ、劇中のメイクを施した華やかな私がいる。けれど、その輪郭はすでに揺らぎ始めている。
私はクレンジングオイルを手に取る。
液体を顔に広げ、指先でゆっくりと馴染ませていく。
これは、私にとって最も残酷な儀式だ。
オイルがファンデーションを溶かしていくたび、鮮やかな役が指先から剥がれ落ちていく。
情熱的な眼差しを縁取っていたアイラインが黒い滲み隣、高潔な唇を彩っていた紅が、無機質なティッシュに吸い取られていく。
鏡の中には先ほどまでいたはずの姿が、ずるずると、無様に、溶けて消えていく。
「……っ」
手が止まる。
メイクを落とした顔は、あまりにも醜い。
何者かでありたいという執着と、何者にも慣れていない空虚さが混ざり合い、マーブル模様のように顔に張り付いている。
衣服を脱ぎ捨てる。重厚なドレスや、鋭い軍服。それらをハンガーに掛けるとき、私の肩から重みが消える。それは身軽さではなく、存在の希薄さだ。
私服の色褪せたデニムと、量産型のカットソーに袖を通す。
その瞬間、ログアウトが完了する。
そこに残されたのは、ただのサキだ。
特筆すべき才能もなく、舞台が終われば次のオーディションに怯え、生活費のために深夜のバイトへ向かう、空っぽな二十三歳。
ログインを剥がされた跡は、いつもヒリヒリと痛む。
まるで、日焼けした皮膚を無理やり剥いたときのような、剥き出しの、無防備な痛み。
私は、この剥がされた状態が、怖くてたまらなかった。
「サキ、まだ居たのか」
背後から声をかけられ、私は肩を跳ねさせた。
劇団の演出家、野上だった。
彼は煙草の匂いを隠そうともせず漂わせながら、パイプ椅子に腰掛けて私を見ていた。
「野上さん……」
「ひどい顔だな。幽霊にでも取り憑かれたか?」
「……そうかもしれません。ログインが剥がされると、いつも自分が幽霊になったみたいに感じるんです」
私は鏡に映る、平坦な自分の顔を見つめたまま言った。
「舞台の上にいるときは、あんなに自分が生きているって感じられるのに。違う自分で自分を上書きしている時だけは、才能があるような気がするんです。でも、こうしていつもの自分に戻ると、自分の中になにも残ってないことに気づく。私には、本当はなにも……一ミリの才能もないんじゃないかって」
声が震えた。
数えきれないほど投稿されるお題のような役割に、必死にしがみついてきた。けれど、それらはすべて借り物だ。私自身の言葉ではない。
私は空っぽの器に過ぎない。
野上はフッと鼻で笑い、灰皿に視線を落とした。
「……サキ。お前は役に入ることを、ただの着せ替えだと思っているのか?」
「え……?」
「そうじゃない。役に入るということは、自分の一部を差し出す行為だ。お前が役を吸い込んでいるんじゃない。お前の空っぽな部分が、役を呼び寄せているんだ」
彼は立ち上がり、私の隣の鏡を指で叩いた。
「剥がされた跡がヒリヒリするのはな、古い皮膚が落ちて新しい素肌が露出しているからだ。剥がされるたびに、お前は一度死んで、また新しくなる。その空っぽこそが最大の才能なんだ。なにもないからこそ、なんにでもなれる。満たされている奴に、他人の人生なんて入れるもんか」
彼は言いたいことだけを言って、私の頭を乱暴に撫でると、「風邪ひくなよ」と言い残して楽屋を出て行った。
静まり返った楽屋で、私はもう一度鏡を見た。
メイクを完全に落とし切った顔。目の下には少しクマがあり、頬が少しこけている。
確かに、そこにはなんの色もない。
役という膜を剥がした後の、この無防備な素肌。
世界中の感情を吸い込むために、あえて剥き出しにされた、まっさらな私。
私は、自分の指先をじっと見つめる。
まだ震えている。
けれど、それは恐怖の震えではなく、次に来るなにかを待つ、期待の震えに変わっていた。
カバンを持ち、劇場の出口へ向かう。
重い扉を押し開けると、夜の街の喧騒が私を包み込んだ。
街灯の光、行き交う人々の話し声、遠くで鳴るクラクション。
さっきまでの舞台よりもずっと雑多で、不親切な現実。
私は歩き出す。
いまはまだ、誰でもない。
ただのサキとして、この冷たい夜風を全身に受けている。
けれど、私は知っている。
この『剥がされた』瞬間にしか見えない景色があることを。
そして、明日になればまた、新しいお題がやってくることを。
次のログインのために、私はこのヒリヒリとした痛みを、大切に抱えて歩いていく。
いつか、剥がされることさえも愛せるようになるまで。
私は一歩、強く地面を蹴った。
夜の闇に、私自身の足音が、確かに響いていた。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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