短編134「スカイ・ダイビング」 バー・ローズデヴァン#12
あらすじ
迷いを持つ者の前に現れるという「BAR Rose des vents(バー・ローズデヴァン)」。全てを手に入れ、人生の「天国」に飽き果てた初老の男。不思議なバーの店主スィエルが差し出す青いカクテルは、完璧な檻からの脱出を促して……。
男の足取りに迷いはない。
だが、その瞳には光がなかった。
すべてをやり尽くし、手に入れるべきものをすべて掌に収めた者の、空虚な瞳だ。
雪が止んだ後の夜は、世界から色が抜き去られたように白い。一月の冷気は、地表のあらゆる熱を奪い去り、音さえも凍りつかせる。
街灯の下、舞い落ちる結晶がダイヤモンドのように輝く路地を、一人の男が歩いていた。
初老の男性は白い頭髪と長い髭を蓄えて、仕立てのいいスーツに高級なコートを羽織っている。
男性は、雪に半分埋もれた雑居ビルの壁の前に立つ。
そこにあるはずのない、黒い扉。扉の上にはピンク色のネオンが頼りなげに、しかし確かな意志を持って『BAR Rose des vents(バー・ローズデヴァン)』という文字を浮かび上がらせている。
彼は、運命に導かれるようにその扉を開けた。
扉を開くと、地下へと続く螺旋階段がどこまでも深く続いているように見えた。三階分ほど下りた場所にある、年季の入った木製の扉。それを押し開けると、からんからんと、場違いなほど軽やかなドアベルが鳴り響いた。
「いらっしゃいませ。お客様も、迷われたのですね」
コの字型のカウンターの中から、バーテンダーの男が声をかける。濃緑色の髪をアップバングにして、中性的な顔立ちをした男が、無表情のまま一礼した。その冷静なまでの造形美は、この場所が現実の延長線上にある場所ではないことを教えてくれる。
「……マスター。ここはどこだ?」
それにバーテンダーは答えない。グラスを磨きながら、ただ無機質な微笑みを返した。それから、ゆっくりと口を開く。
「当店はバー・ローズデヴァン。私はバーテンダーのスィエルと申します」
言ってスィエルは名刺を差し出す。男はそれを受け取って眺めると、胸ポケットに差し込んだ。
「当店にはルールが三つございます。ひとつ、未来が見えたら追い出します。ふたつ、座り込まないでください。みっつ、誰かの詮索はしないでください」
「……構わんよ」
男はそう答えて、カウンター席に腰を下ろした。
店内を一通り見回した後、視線を自分に戻して、自分の仕立ての良いスーツを見下ろした。
「……私は、もう迷うこともできないんだ。欲しいものはすべて手に入り、悩みも、争いも、不満もない。もはや人生に『不足する』という概念を失ってしまった。まるで、死ぬ前に『天国』へ辿り着いてしまったかのような気分だ」
スィエルは、磨き上げたばかりのカクテルグラスを光にかざし、微塵の曇りもないことを確認してから、静かに口を開いた。
「……一杯目は、なにになさいますか?」
「……そうだな。『スカイ・ダイビング』をもらおうか」
彼は『Oui』と小さく答え、シェイカーを手に取った。ジガーカップで測って注がれるホワイトラムの透明な滴。それからブルーキュラソーとライムジュースが注がれると、シェイカーの中には濃紺の空が生まれていく。マドラーでステアしてから氷を入れて、手際よくシェイカーを振った。
「お待たせしました、『スカイ・ダイビング』です」
差し出された一杯は、吸い込まれるほどに純粋な、一点の濁りもない青色をしていた。
「……綺麗な色だ。天国の空の色かな」
男がグラスを手に取り、その冷たさを確かめるように呟く。
「このカクテルが意味するのは、『尊敬』そして『崇高』。……お客様のように、誰も仰ぎ見る高みに到達した方にこそ、相応しい一杯です」
「尊敬……か。皮肉だな。私はその崇高な孤独に、喉が焼けるほど乾いているんだ」
男が一口、カクテルを喉に流し込む。ライムの鋭い酸味とラムの力強さ、そしてブルー・キュラソーの甘味が、男の感覚を麻痺させていた脳に小さな火を灯す。
「マスター。君は、この『空』という箱の中で、永遠にこうしているのか? 誰かを導き、誰かを見送り、自分自身はどこへも行かずに」
スィエルはそれに動きを止め、男の瞳を真っ直ぐに見つめた。その瞳は深海のように静かで、なにも映していないようでいて、すべてを見通している。
「ええ。私はこの羅針盤に固定された装置に過ぎません。空は、鳥が羽ばたくためにあるのであって、空自体が羽ばたくことはありません。私はここに留まり、『天国』に飽き果てた方々が、再び重力のある地上へと『墜落』していくことを見届けるのも、私の役目です」
スィエルが指を鳴らすと、店内のスクリーンに映像が映し出された。
それは、男が若かりし頃の映像。泥にまみれ、歯を食いしばってなにかを追いかけていた時代の姿だった。金も名声もなく、ただ明日を掴むために必死だった男の顔には、今の彼が失った、剥き出しの生の輝きがあった。
「本当の尊敬に値するこういとは、天国に留まることではないことに気づき始めておられるのではないですか?」
スィエルの声が、静かな店内に響く。
「その高潔な場所を自ら捨て、重力のある地上へと身を投じる——欠落も、痛みも、正解のない混迷も……」
男はスクリーンに映る自分の姿を凝視した。
完璧さは、死と同じだ。なにも変わらず、なにも失わない代わりに、なにも生み出さない。
「……そうか。私は、この崇高という名の檻から、飛び降りる場所を探していたんだな。マスター、この青い空は、墜落するための入口だったのかもしれんな」
彼は最後の一滴まで、青い液体を飲み干した。
心臓の鼓動が、かつてないほど激しく刻まれる。アルコールが全身の血を沸かせ、魂を『ここではないどこか』へと押し上げようとしていた。
「未来が見えましたね」
スィエルが満足そうに、しかしいつものように冷たい表情で、僅かに微笑んだ。
「――良い墜落を(Bon voyage)」
チリン、とスィエルがハンドベルを鳴らす。次の瞬間、店内の空気が一変した。奥の扉から屈強な男たちが二人現れ、抗う間も無く男を抱えあげる。
「おい、なんだ!?」
「当店のルールです。未来が見えたら、ご退店を願います。……これより先は、お客様ご自身の重力でお進みいただきたく思います」
男は螺旋階段を逆行して、地上へと放り出される。がちゃり、と扉が閉まる音。それと同時に、扉はすうっと壁に溶け込むようにして、消えてしまった。
雪の上に投げ出された男は、氷のような冷たさを全身に感じながら、思わず笑い出した。肺の奥が焼けるように冷たい。
指先が、痛みを感じるほどに冷え始める。
だが、その痛みこそが、自分がいま、この重力のある世界で生きているという、確かな証明だった。
彼は立ち上がり、ふらつく足取りで光の消えかけた夜の街へと歩き出す。
もう、進むべき方角を示す羅針盤は必要ない。
どこへ辿り着くか分からないという恐怖こそが、いまの彼にとっての希望だったから。
店内ではスィエルが一人、静かにカクテルグラスを磨き直している。
スクリーンに映し出された映像は消えて、また元の静寂が戻っていた。
人々に墜落という名の再生を促しながら、自らは一度も風に乗ることのない、孤独な天国であり続けるために。
「次は……誰が空の入り口を叩くのでしょうか?」
無表情なスィエルの呟きは、誰に届くこともなく、琥珀色の空間へと溶けて、消えた。
君にスカイダイブ
僕は飛んでみたんだ
真っ逆さま 落ちて行くよ
標準的なレシピ
ホワイト・ラム:ブルー・キュラソー:ライム・ジュース(コーディアル) = 3:2:1
作り方
1.上記材料をシェークする。
2.カクテル・グラス(容量75〜90ml程度)に注ぐ。
カクテル言葉
「尊敬」「崇高」「頼られていることを知ると華麗に輝く人」
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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