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短編125「ビトウィーン・ザ・シーツ」 バー・ローズデヴァン#11

あらすじ
迷いを持つ者の前に現れるという「BAR Rose des vents(バー・ローズデヴァン)」。今日もまた、迷い人が来店するが、その姿は、どこか――。

 降り注ぐ雪。温かい体温。
 一ヶ月前のことを、僕は忘れられない。

 一月半ば。
 重く垂れ込めた雲から零れ落ちる雪は、まるで吸音材のように、夜の街の静寂をより深いものにしていた。僕はコートの襟を立て、街灯がぼんやりと滲む路地を進む。
 一ヶ月前のクリスマスの夜、僕たちはこの街で出会い、この道でタクシーを拾って適切な距離を保ったまま別れた。
 あの日、降りたがっていた雪が、いまさら遅れて世界を白く塗り潰している。

 あのときから僕は、自分の立っている場所が分からなくなった。
 雪が景色から輪郭を奪い、慣れ親しんだはずの路地を迷宮へと変えていく。僕は立ち止まり、肺の奥まで凍りつくような冷たい空気を吸い込んだ。

 ――あの日、踏み出せなかった一歩。その躊躇いが、いまの迷いと重なる。
 視線を落とすと、雪に埋もれかけた雑居ビルの入口に、この白い景色とは対称的な黒く重い扉がある。扉の上には雪が積もり始めたネオン管がピンク色の光を放ち、『BAR Rose des vents(バー・ローズデヴァン)』と書かれていた。

「――」
 僕は逸る気持ちを押さえながら、そして迷いなく、重い扉に手をかけた。中には地下への螺旋階段が続いている。三階ほど下りたのだろうか、木製の小さな扉があった。躊躇いなく押し開けると、からんからんと軽やかなドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 七人がけのコの字型カウンターの中から、バーテンダーの男が声をかける。それに僕は頷いて、カウンターの席についた。バーテンダーは中性的な顔つきの男性で、薄緑色の髪をアップバングにしている。無表情で冷たく見えるような冷酷さが、どこか現実感の乏しい造形美を感じさせていた。
「お客様は、迷われ続けているのですね」
「ああ、スィエルの言う通りさ」
 全てを見抜いているかのような声に、僕は照れと羞恥の混じった複雑な表情を返した。それに彼はなにも言わず、ただ静かに頷く。

 暖房の熱気と共に、僅かなシトラスと木樽の香りが鼻腔をくすぐる。それにそっと乗せるようにして、スィエルが口を開いた。
「当店のルールはご存知ですよね?」
「ああ。……未来が見えたら追い出される、座り込まない、誰かの詮索はしない」
merveilleuxメルヴィユ。それでは一杯目はどういたしましょうか?」
 満足そうで、それでいて冷たい微笑みを返すスィエルに、僕は少し考え込んでしまう。それから、やっと口を開いた。
「そうだな……『ビトウィーン・ザ・シーツ』を」
Ouiヴィ
 スィエルはシェイカーを取り出すと、コニャックを注いだ。フルーツやフローラルの円熟した香りがふわりと漂う。それからホワイト・ラムとトリプルセック、レモンジュースを注いでから、軽やかにシェイクする。それからカクテルグラスに注ぐと、僕の前にコースターを置いてからグラスを置いた。

「……美味しいな。なんだか、懐かしい味がするような気がする」
 僕は思うがままに、スィエルに話しかけるわけでもなく、ただ呟いた。
「……迷うことは、悪いことではございませんよ」
「でも僕は、あれからずっと迷ってる」
 スィエルが差し出すおしぼりを受け取りながら、僕は言う。

「……雪はすべての足跡を消してしまいますが、それは同時に新しい海図を描き直す準備が整ったということでもあります」
 言ってスィエルが指を鳴らす。店内のスクリーンに映像が映し出された。

 それはローズデヴァンの店内のカウンターで、グラスを交わす僕と、一人の女性の姿だった。
 僕はいつも通り出社用の紺のスーツにコートを羽織り、女性は黒いタイブラウスにベージュのフレアスカート。白いカシミアのコートが寒い冬を連想させていた。

 ――あのときの僕は、どうしていいか分からなかった。
 クリスマスの喧騒の中、失恋したばかりの僕はこの店にたどり着いた。
 そして偶然、彼女と出会った。名前も知らない彼女に。

「――ありがとう。そう言ってもらえると、少しだけ救われる気がするよ」

 がちゃり。
 背後で扉が開く音がした。冷たい風と共に、知っている、そして少しだけ震える声が店内に入ってくる。

「こんばんは……」

 彼女だった。

「……久しぶり、だね」
 彼女は長い黒髪を揺らし、少しだけ小首をかしげて微笑んだ。
 白いカシミアのコートの肩には、まだ溶けきらない雪の結晶が星のように光っている。
「ああ、一ヶ月ぶりかな。あの日も、こんなふうに雪を期待していたんだと思う」
 彼女は僕の隣に腰を下ろし、スィエルに小さく会釈した。

「あの夜の僕たちは、少しだけ行儀が良すぎたのかもしれないな」
 僕は言いながら、スィエルに自分のグラスを指さした。それから、彼女を指差す。それで伝わったようで、スィエルはすぐにビトウィーン・ザ・シーツを作ると、彼女の前に置いた。
「二人の境界線に乾杯」
「なにそれ」
 僕たちは笑いながら、軽くグラスをぶつけた。それから一口、軽く喉に流し込んだ。コニャックの深みとラムの奔放さがふわりと鼻をくすぐる。

「僕は、ずっと迷ってたんだ」
 素直な気持ちを口にすると、彼女は少し驚いたような顔をしてから、小さく頷いた。それは合意の頷きではなく、次の言葉を促すための頷きであることは、すぐに理解した。
「なにかの所為にして、踏み込めたはずの境界線が見えないふりをしていた」
「……そうかもね」
 僕の言葉に彼女は頷く。この頷きは合意の頷きだったと思う。

「私にも、追い風が必要だったみたい」
 言って彼女は、グラスの一杯を全て飲み干してから、スィエルに差し出した。
「強いお酒だけど、大丈夫?」
「いいの。いまの私には、それくらいで丁度」
 すぐに新しい一杯が届くと、僕のグラスに軽く当てる。チリン、という高い音が静かな店内に響き渡る。
 彼女はまた一口飲んでから、こちらに向き直った。

「このカクテル……ずいぶん大胆なお誘い。あなたの書き留めている日記に、新しいページを書き加えるための口実?」
「いや、口実じゃない。あの日、君を送り届けた後、僕は自分の弱さをよく理解したんだ」
 僕はグラスを置いて、彼女の真っ直ぐな視線を受け止めた。アルコールが全身の血を沸かせ、心の奥底に隠していた言葉を表面へと押し上げてくる。

「僕はもう、日記に書き殴るなんて作業をやめる。一人で振り返るためだけの思い出はいらない。君と現実の続きを始めたいと思っている」
「……」
 彼女は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻る。それから彼女は手を伸ばすと、カウンターの上で僕の手に重ねた。熱気を帯びた指先に、僕は心を焼き尽くされたと錯覚する。

「今日という日は、クリスマスの続きをするのに、最高の季節だと思わない?」

「――未来が見えましたね。良い旅路を、bon voyageボン・ヴォヤージュ
 彼女の言葉を遮るように、スィエルがハンドベルを鳴らす。奥から屈強な男が四人ほど飛び出してくると、二人はあっさりと抱えられてしまったが、それには動じない。
 僕は財布から千円札を四枚取り出すと、カウンターに置く。

 雪の中に放り出された僕らは、同時に立ち上がり、なんとなく笑いだしてしまった。
 それから、どちらからともなく手を繋いで、夜の街を歩き始める。

 僕たちはいま、琥珀色の余韻とともに、二人の間に存在する熱を確かめながら歩く。
 日記に記されることのない、本当の夜がいま始まろうとしていた。


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ビトゥイーン・ザ・シーツ / 及川光博

標準的なレシピ
コニャック - 30ml
ホワイト・ラム - 30ml
トリプルセック - 30ml
レモンジュース - 20ml

Wikipedia

作り方
1.材料をシェイクする。
2.カクテル・グラスに注ぐ。

Wikipedia

カクテル言葉
「あなたと夜を過ごしたい」


注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。


最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。

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