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短編114「キティ」 バー・ローズデヴァン#10

あらすじ
迷った人の前に現れるという「BAR Rose des vents(バー・ローズデヴァン)」。今夜もまた、人生に迷っている女性が迷い込んで……。

 桃原 香代子とうばる かよこは、夜の雑踏から逃れるように歩く。
 私の心は、プロデビューの誘いと、自己否定によって深く引き裂かれていた。

 私は、『香夜帳かよとばる』という筆名で、SNSで熱狂的なファンを持つ官能小説の作者だ。その創作は女性読者の秘密の愛や甘い誘惑に応えるものであり、読者からの声は家庭で満たされない私の自尊心を満たしていた。
 けれども人気が出れば出るほど、私の心は引き裂かれていく。プロとして活躍したいという気持ちと、官能小説は「本物の文学ではなく公言するのは恥ずかしいもの」という世間の常識が私を縛っていた。
 プロになれば、私は自分の低俗な内面を社会に晒すことになる。そういった思いが私を迷わせていた。

 家までの通り道に、閉店したペットショップが見えた。ガラス張りの奥に見える檻は、日中は可愛い犬や猫が並んでいるがどれも空で、普段の賑やかさが想像できないほどに暗く狭い世界だった。

「……?」
 不意に、不思議な光景が視界に入った。ペットショップの壁に、艷やかに光るピンク色のネオン管が見えた。『BAR Rose des vents(バー・ローズデヴァン)』と書かれたその下に、黒く大きな扉が見える。

 ペットショップにバーが併設……?

 冷静に考えたらおかしな話だ。
 でも、不安定ないまの私は、なぜか魅力を感じてしまった。ドアの前に立って、ネオンを見上げる。ピンク色をメインに、水色と黄色のネオンが彩りを添える。鮮やかな色合いは、どこか妖艶な雰囲気をまとって私を誘い出そうとしているように見えた。

 ぐい、と重い扉を押し開ける。中に入ると、地下への螺旋階段が続いていた。しばらく下りると、木製の小さな扉が見えてくる。扉の下には小さなペットドアがついているが、ペットがここから出てしまったら外に出てしまうのではないだろうか?
 小さな矛盾を感じながらも、私はドアを押し開ける。からんからんと軽やかなドアベルが鳴った。

 店内は七人がけのコの字型カウンターがあり、奥の席に一人の先客がいるようだった。木材で統一された店内の雰囲気は、老舗のバーのような雰囲気を感じさせる。
 不思議なのは、店内のあちこちに猫グッズがあることだ。高さ二メートルほどのキャットタワー、段ボールの爪とぎ、床には猫じゃらしが転がっている。
 私は猫がいるのかな、と思って店内を見回しながら、正面の席に腰を下ろした。

「ふわぁ……いらっしゃいませ。お客様も、迷われたのですね?」
 奥から声をかけられて、私は思わず目を見開いてしまった。
 カウンター内には何故かソファがあり、その上で丸まっていたバーテンダーらしき男性が、艷やかな視線をこちらに向けていた。
「バーテンダーのスィエルです。当店にはルールが三つございます。ひとつ、未来が見えたら追い出します。ふたつ、座り込まないでください。みっつ、誰かの詮索はしないでください」
 彼は丸まった身体を起こしながら両手をぐいと上げて、伸びをしながら言った。薄緑色の髪をアップバングにしており、そこには大きな猫耳が一対生えている。こちらを見る瞳は瞳孔は細まり、鋭い視線をこちらに向けていた。

「あ、はい、分かりました……」
 私は雰囲気に飲まれて、それだけ言った。
「それでは、一杯目はどういたしますか?」
「じゃ、じゃあ……『キティ』をお願いします」
 彼は『Ouiヴィ』と小さく答えて、よく冷えたゴブレットを取り出す。氷を何個か入れてから赤ワインを注ぎ、最後にジンジャーエールを注いだ。赤ワインの重厚な色と、ジンジャーエールの淡い金色は、私の中のふたつの葛藤を象徴していた。
「お待たせいたしました」
 彼はコースターを置いて、その上にゴブレットを置いた。

 私は手に取ってから一口飲んで、ゆっくりと息を吐く。
「……美味しい」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
 言って彼は両手で持った名刺を差し出す。指を丸めて猫手で差し出すその姿は、異様に思える。受け取って表面を見ると、『バー・ローズデヴァン』の店名と『スィエル』の名前だけが書かれていた。

「なにに迷っているのか、聞いても構いませんか?」
「私は……私を肯定できないんです。自分の創作を低俗なものとして、プロになることから逃げようとしていて。公言するのが恥ずかしいという常識が、自分を否定していて……」
 私は素直な心境を言葉にする。それにスィエルはなにも答えなかった。そのかわり、ぱちんと指を鳴らす。店内のスクリーンに、映像が映し出され始めた。

『は、初めて書き上げた作品……!』
 パソコンの文書ソフトには、『蜜月の鎖みつげつのくさり』というタイトルが書かれている。
 愛のない結婚生活に閉じ込められた女性・シオリが、匿名チャットで知り合った『鍵を持つ男』とのスリリングな関係にのめり込むという話だった。
 SNSで発表したその作品は、驚くほどに拡散されて、次回作を求められるようになる。歓喜に満ちた表情、熱狂的な読者たちの切実なコメントが、電子の光と共に流れていく様子だった。

「貴女は低俗だと申しますが、その中に本当の貴女の心が映っていませんか?」
 スィエルの言葉に、私はびくり、と身体を震わせた。当然、それに反論することもできない。自分が書きたいと思って書いた作品が、官能小説だったのだから。
「……薄々、気づいてはいたの。私は、いまの自分のままでいいって。私には読者の甘い誘惑に応える力がある。私が描く世界に、多くの人が夢中になっている。それを否定するのは、もうやめる……それが私の文学だから……」
 言って私は、ゴブレットのキティを、ぐい、と飲み干した。

 その瞬間、バーの店内が物理的に変貌した。
 店内の照明は濃いマゼンタとアンバーの光に染まり、カウンターの木目が光沢のある熱っぽい人間の肌のようなテクスチャに変化した。それは、彼女の小説にある愛欲の過剰さそのものだった。
 古びた木の香りは消え失せ、濃厚な香水と熱を帯びた生体反応のような匂いが充満した。静寂だった店内に無数の囁き、電子的な『LIKE!』の通知音が不規則なノイズとして溢れ出す。それは、満たしても尽きることのない、大衆の渇望だった。

「――未来が見えましたね。貴女が身を置くべき真の創作の檻が。良い旅路を。bon voyageボン・ヴォヤージュ
 奥の扉から二人の屈強な男が現れると、私は両脇からあっさりと抱え込まれてしまった。
「お会計、1,500円になります」
「は、はい……」
 会計を済ませた私は軽々と担ぎ上げられ、店の外へ放り出されてしまっていた。

 ――なにもない。
 先程まであったはずのドアは見当たらず、いつもの営業を終えたペットショップの壁だった。
 でも、口の中にはキティの味が残っているし、手にはもらった名刺がある。あれは、夢などではなかった。現実だった。

 私は立ち上がるしかない。進むしかない。
 いまの自分を肯定して、『甘い誘惑』という名の業を背負って生きることを、覚悟した。


逃れることと、眼を逸らすこと、
何方どちらに価値が有るだろう?

キティ/25時、ナイトコードで。

標準的なレシピ
・赤ワイン
・ジンジャー・エール
これらを、等量ずつ用いる。

Wikipedia

作り方
氷(クラッシュドアイスではない)を入れたゴブレット(容量300ml程度)に、まず赤ワイン、次にジンジャー・エールを注いで、ストローを添えれば完成である。

Wikipedia

カクテル言葉
「甘い誘惑」「小悪魔」(※諸説あります)


注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。


最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。

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