短編126「比翼のむすびめ」本のかみさまはミステリに揺蕩う#9
あらすじ
栄門町商店街に店を構える古書店『ねこのおまもり』。店長の息子である真人はいつも通り高校へと通学するが、またも予想外のミステリに巻き込まれてしまって――。
三メートル。
それは、僕たちにとっての『世界の果て』を意味していた。
ことの起こりは、よく晴れた平日の昼休みだった。
僕はいつものように、日課である図書室での時間を過ごすため、足を運んだ。日差しが埃を白く照らす静かな室内。
ふとカウンターを見ると、黒髪の一人の図書委員が眉間にしわを寄せて立っていた。図書委員長の加古 央子先輩だ。
「先輩、こんにちは。そんな険しい顔でどうしたんですか?」
「あ、山上くん。ちょうどいいところに」
彼女の穏やかな声に軽いデジャヴを覚えて、少しだけ嫌な予感がする。
「……これ、ちょっと見てくれないかな」
先輩に促されるままに続いて、日本文学の棚へと向かった。その端の本を彼女が指差す。そこに鎮座しているのは、くたびれた茶色の革張りの本だった。背表紙には消え入りそうな金の文字で『二人三脚の旅路』と記されている。作者名は記載されていない。
「この本なんだけど……整理する時に棚から移動させても、気づいたら元の場所に戻っているの。イタズラにしては地味だし迷惑しているわけじゃないんだけど、なんだか気味が悪くて……」
なるほど、と僕は頷く。原因は分からないが、単純に気持ちが悪い。
僕は何気なくその本を取ろうと、指を伸ばしたその瞬間だった。
「真人! なになに、なにしているの?」
背後から突風が吹いたような気がした。千帆が得物を見つけた子猫のような勢いで、突っ込んできたのだった。
「ちょ――」
「私もまぜて!」
彼女は強引に、僕が背表紙を掴んだ本を無理やり掴んだ。押された僕は体勢を崩して、そのまま横に倒れてしまう。勢いの止まらない千帆も、隣に倒れた。
――バチン!
空気が爆ぜたような、乾いた音だけが図書室の静寂を切り裂いた。
地面に倒れ込む衝撃が響いた、その直後だった。
僕の腹部の底に、見えない釣り糸がぐいと食い込むような奇妙な感触が走る。
「いてて……千帆、いったいどうしたの……」
起き上がろうとすると、腹部がぐい、と引っ張られるような感覚がある。
「いったあ……真人たよりなさすぎ……」
頭を抑えながら千帆が立ち上がる。同時に彼女もふっと不思議そうな真顔になってから、自分の腹部に右手を当てる。それから、僕のほうに振り向いた。
「ねえ、なんか、へんな感じしない?」
千帆はそう呟きながら左手をついて身体を起こすと、軽く頭を振った。
「ああ、僕も感じた……千帆も?」
僕も立ち上がり、棚に手をつき、千帆から離れながら立ち上がろうとした、そのとき。
僕の腹の底から感じた妙な引っ張りが、ぴん、となにかが張る感触を伝えてくる。
「ちょっと待って、なんだこれ?」
僕は驚いて千帆から後ずさる。すると、それに合わせて千帆がこちらに引きずられてくる。
「な、なにこれ……? 離れてよ!」
「いや、僕だって君から遠ざかろうとしているのに、見えないロープみたいなもので引っ張られて――」
僕たちは同時に離れようとしたが、お互いの位置は変わらない。三メートルほど離れた位置で、立ち止まった。なぜか、それ以上は離れることができない。
僕たちの間に透明な、けれど強固な「ゴム紐」のようなものが張られたのだ。
「――ちょっと、待ってくれ」
「ねえ、なんでこれ以上離れられないの?」
千帆が数歩離れようとすると、腹部の引っ張りが強くなる。そして次の瞬間、僕たちの間のゴム紐が、凄まじい勢いで収縮した。
「うわっ!」
「きゃっ!?」
僕の身体は、まるで磁石に吸い寄せられる鉄くずのように引っ張られ、千帆の華奢な背中へと激突した。鼻腔に、彼女が纏っている甘酸っぱいベリーのような香りが入り込む。
「……痛い。千帆、お願いだからじっとしていてくれ」
僕は赤い顔で離れようとするが、今度は彼女の方が僕の方に引きずられてくる。
「でも、面白いよね。三メートル以上離れるとギュン! って戻されるの。真人と私が一蓮托生になるなんて!」
ドギマギする僕をよそに、千帆はケラケラと無邪気に笑っていた。いや、冷静に考えれば考えるほど、笑っている場合なんかじゃないことなんて、僕にだって分かっていた。
「……ねえ、山上くん。一体、どうしちゃったの?」
央子先輩が不思議そうな顔で僕たちを見つめていた。周囲の人から見ても、二人の動きが普通ではないことぐらい、すぐに分かるだろう。
「すみません、先輩。どうやら、僕たちはこの呪いに巻き込まれてしまったようです。この本、借りて帰ってもいいですか?」
「そ、そうなんだ……。ごめんなさいね、面倒なことに巻き込んで。貸し出し処理はしておくから、気にしないでね」
先輩の視線が、僕と千帆の距離——強制的に保たれたその隙間に向けられ、わずかに揺れたような気がした。
それから、放課後までの時間はまさに地獄だった。
僕と千帆の席は幸いにして三メートル以内だったが、どちらかがトイレに行こうとすれば、廊下でもう一人が限界地点で踏ん張り、見えない力で引き戻されるという珍事が多発した。
「……山上、お前ら付き合ってるのか? それとも、特殊な訓練かなにかか?」
状況を知らないクラスメイトの靖隆にそう冷やかされたが、僕にはもう説明する気力も残っていなかった。
ようやく放課後を迎えて、僕は千帆を引き連れて、というより引きずられて——なんとか古本屋『ねこのおまもり』へと帰り着いた。
僕たちの姿を一目見て、カウンターの上で香箱座りをしていた黒猫のリンが、半眼の冷ややかな視線を向けてくる。
「……なにを持ち帰ってきたの?」
「面目ない。でもリン、助けてくれ。本当に困っている」
僕は情けない声を上げる。
「そうなの! 三メートル以上、離れられなくなっちゃって! あはは!」
千帆はそんなことお構いなしで、まるで不思議な出来事を見かけた通行人のように他人事で、楽しそうな口調で伝えた。
そんな僕たちの前に、本棚の最上段から、一匹の猫が飛び降りてきた。レッドブラウンでティックドタビーの毛並みを持つ、ソマリのイブキだ。本当は千帆が飼っているはずだが、前回のミステリ以降は勝手にうちにも来るようになった。
「ほう、縁の結び目が具現化したとでもいうのかの? 面白いのう。二人の呼吸が合わねば、その糸は解けぬぞえ」
「……散歩する犬の飼い主が二人いるみたいね。滑稽だわ」
イブキもリンもどこ吹く風。思い思いの感想を告げてくれた。
「でも、これもミステリね。人と繋がりたいという想いが、二人を繋げてしまったのかもね」
リンが言ってから、前足をぺろぺろと舐め始める。
「でも、二人でダンスを踊っているみたいでもあります。楽しそうですね」
幽霊の少女、未華までもが呑気な感想を述べている。
「あの……どうしてみんなそんなに他人事なの……?」
僕は思わず、素直な胸中を呟いていた。
「すまぬ。見ていると微笑ましく、楽しそうなものでな。つい」
「そうね。実害もなさそうだし」
二匹の猫にそう言われてしまって、僕はなにも言えなくなってしまった。
「『二人三脚の旅路』、ねえ……」
カウンターに座って本を差し出すと、父さんが本を受け取って検分を始める。僕から離れられない千帆も隣に座ってはいるが、未華と手遊びを始めていて緊張感がない。
「装丁は昭和初期によくあったものだが……作者の情報もISBNコードもない。自費出版なのかもしれないな。確かに、一人で読むには重すぎるほどの想いが詰まっている」
「想いの重さ、か……」
僕はなんとなく横に座る千帆に視線を移す。
結局、解決策が見つからないまま、夜が訪れてしまった。三メートルの制約は、一秒たりとも僕たちを解放してはくれない。
「……で、なんで私の家じゃなくて、真人の家なわけ?」
僕の部屋のベッドに座り、千帆が不満げに髪をいじりながら、唇を尖らせる。
「君の家はおばあさんと二人暮らしだろ。こんな夜中に男子を連れて帰ったら説明がつかないだろ?」
「……それは、そうだけどさ」
「うちの父さんなら、このミステリの事情を知っているし、納得してくれるから。消去法だよ、消去法」
床に敷いた布団の上で説明する僕の言葉に、千帆はどこか納得がいかない様子だった。まあ、確かにいきなりのことで納得がいかないのは、よく分かるし僕だって同じだ。
「……なんか、私の部屋に男の子が来るより、男の子の部屋にいる方が落ち着かないっていうか……」
千帆が顔を背ける。首筋がわずかに赤くなっているのが見えて、僕の心臓も少し嫌なリズムを刻み始めた。
リンは窓辺の月明かりの下で丸まり、イブキは本棚の一角を勝手に寝床と決めてくつろいでいる。二人きり、というにはムードもなにもあったもんじゃない。
僕はリモコンを取ると、部屋の電気を常夜灯へと切り替えた。
青白い月光が、カーテンの隙間から細い帯のように差し込む。
三メートルの糸に引かれ、僕の布団とベッドの距離は、昼間よりもずっと、密接に感じられた。時計の針がときを刻む音、窓の外を走る車の走行音。
そして、千帆の微かな寝息……ではなく、起きている人間特有の、緊張を含んだ呼吸。
静寂が部屋を満たした頃、ベッドの上から千帆の低い声が降ってきた。
「ねえ真人……アンタ、私のこと『本なんて興味なさそうな、騒がしいだけの人』だと思ってるでしょ?」
それ以外にどう見えるのか聞き返したいぐらいだったが、僕はそれをあえて飲み込む。
「……そんなことないよ。ただ、いつも元気で、僕とは正反対だな、とは思ってるけど」
「嘘つき。お昼に図書室で本とにらめっこしてたとき、『君には似合わない』って顔したもん。見逃さなかったんだから」
千帆はベッドで寝返りを打ち、僕を見下ろすような体勢になった。月光に照らされた彼女の顔は、教室で見せる天真爛漫な表情とはまったく別人のように、どこか儚げで、大人びていた。
「私さ……両親がいないんだ。小さい頃に、事故でね。引き取ってくれた祖母が、本の大好きな人なの」
もちろん初めて聞く話だった。いつも太陽のように明るい彼女の、最も深い部分に隠されていた、影。僕は言葉を失い、ただ彼女の言葉を待った。
「私のパパとママも、すっごく本が好きな人たちだったの。家の中はどこもかしこも本棚で、二人はいつも本を開いて楽しそうな顔をしてた。……子供の頃の私は、それがとっても寂しかった。本に両親を奪われたみたいで」
「……」
その言葉に僕は、なにも言えなくなっていた。なにを言っても、この暗闇の中に吸い込まれてしまうような気がしていたからだ。
「だから、わざと騒いだり、本を隠したり……嫌われるようなことばかり、してたっけ」
千帆の声から、いつもの茶目っ気が消えていく。それは、遠い日の後悔をなぞるような、静かな響きだった。
「……でもね、二人がいなくなった後に遺品を整理してたら、蔵書の中に私の成長をメモした栞がたくさん挟まってたの。私が何歳でなにができるようになったか、一枚一枚、丁寧に。二人が読んでた難しい学術書の中にも、詩集の中にも……私への手紙みたいな言葉がね、びっしりと」
千帆は自重気味に、小さく笑った。
「そのとき、気づいたんだ。二人は、本を読むことで世界を広げて、その広い世界の中で私をどう愛するかを一生懸命学んでたんだな、って。本の中の世界は、私を大切にするための知識を蓄える場所だったんだって」
ふっ、と僕たちの間に張られた見えない糸が、少しだけ緩んだ気がした。
千帆がいつも見せる、あの過剰なまでの明るさと、構ってほしいと言わんばかりの騒がしさは、隣にいる誰かが本の世界に閉じこもってしまわないように、その存在を確かめ続けたいという、切実な願いの裏返しだったのかもしれない。
「……私はね、本は嫌いじゃないよ。ただ、本の中に閉じこもって、隣にいる人を見なくなるのが……その人の体温を感じなくなるのが、少しだけ怖いってだけなの」
「……知らなかった。千帆が、そんなことを考えていたなんて」
少しだけ時間をかけて、僕は驚きを声色に乗せて、素直な気持ちを素直に伝えた。それ以上は、きっとなにも言えなかったから。
「言わないもん、普通。……でも、真人は本の中に閉じこもらないタイプでしょ? ちゃんと、こっちを見てくれてる」
「どうかな。リンにはいつも、現実逃避の手段に本を使うな、って叱られてるけど」
「ふふっ、あのかみさま、手厳しいもんね」
「手厳しいなんてもんじゃない。前足の足癖が悪い」
その言葉に二人で笑った。それにリンがうるさそうに、「にゃふぅ」と溜息のような寝息を吐く。
その夜、僕たちはそれ以上の言葉を交わさなかった。
けれど、暗闇の中に漂う空気は、昼間よりもずっと穏やかで、満たされていた。
翌朝、僕たちが「ねこのおまもり」の店内に向かうと、カウンターの上でリンが『二人三脚の旅路』を広げていた。
「おはよう。ようやくこのミステリの終演が見えてきたわよ」
言ってリンは、にゃふんと鼻を鳴らす。
「この本には、病弱で外に出られなかった作者の『一人では辿り着けない場所へ、誰かと足並みを揃えて帰りたい』という切実な願いが宿っているわ」
「足並みを揃えて、帰りたい?」
「ええ。だから、このミステリを解決する方法が見えてきたわ。二人でこの本を挟んで、完全に歩調を合わせて、図書室の元の場所まで戻ること。右足と左足、歩幅と速度。少しもズレることなく、想いをシンクロさせなさい」
それは、簡単そうでいて、実はとても難しい試練だった。
僕と千帆は、店の前で本を二人で持ち、向き合った。
「……行くよ、千帆」
「分かってる。いくよ、真人」
「右、左、右……」
「右、左、右……」
声を合わせ、呼吸を合わせる。
最初はバラバラだった二人の歩幅が次第に重なり、一つの心地よいリズムになっていく。
糸が僕たちの間をピンと張っているが、昨日まであんなに鬱陶しかった張力が、いまの僕たちの絆を支えるガイドラインのように感じられた。
学校への道のりは、普段よりずっと長く感じられた。歩道橋を渡るときも、信号を待つときも、僕たちはお互いの呼吸を感じ取り、速度を調整し合った。
図書室に到着して、央子先輩が見守る中。
「千帆、せーのでいくよ!」
「もっちろん!」
「「せーの!!」」
僕たちは同時にその本を棚の定位置に差し込んだ。
バチン。
繋がれたときと同じような音が響くと同時に、糸が弾けて消える感触があった。自由になった僕たちの身体は、もうお互いに引き戻されることはなくなっていたのだ。
「……やっと離れられたね」
「……うん。離れたね、本当に」
束縛がなくなったはずなのに、僕たちはしばらく、そのままの距離で立ち尽くしていた。三メートルの結界が解けたはずの空間が、妙に広く、寂しいと感じたのは何故だろう。
「……ふーん、真人の歩幅って意外と広いのよね。私、追いつくの大変だったんだから!」
千帆は少しだけ寂しそうに、けれど晴れやかに笑うと、「もう置いていかないでよ。私は助手なんだから!」と、僕の背中をバシッと叩いて、そのまま教室へと走って行った。
その日の放課後。
僕は校門を出て、家へと向かう道を歩いていた。
ふと、背後から軽い足音が聞こえる。
「まーさとー! 一人で帰るなんて冷たくなーい?」
千帆が僕の隣に並ぶと、ツインテールの髪の先端が彼女の方を撫でる。
僕はふと、足元を見た。僕たちの間に、もうあの透明な糸なんて存在しない。物理的な拘束はなに一つないはずだ。
それなのに——僕と彼女は、無意識のうちにあの日縛られた三メートルという世界の果ての内側を、一歩もはみ出すことなく並んで歩き続けていた。
「ねえ、明日はどんなミステリを解くの? 助手として、特別に素敵な依頼を待ってるんだけど!」
「……ええ、なにも起こらない方が幸せなんだけど……」
僕は彼女の歩幅に合わせて、少しだけ速度を落とした。
透明な糸がなくても、この距離が、いまの僕たちには一番ふさわしい気がしていたから。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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登場人物紹介(最新話を元に構成・更新しています。そのため本編のネタバレとなる場合がございますので、閲覧にはご注意ください)
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