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短編78「ギムレット」 バー・ローズデヴァン#6

あらすじ
全財産を詐欺で失い、自己嫌悪に沈む野口菜見子は、深夜の歩道に現れた「BAR Rose des vents(バー・ローズデヴァン)」に吸い込まれて……。

 ふらふら、ふらふら。
 野口 菜見子のぐち なみこは、深夜の歩道をふらつきながら歩いていた。
 車道を走る車の群れに、思わず飛び込みそうになりながら。ふらふら。

 信じていた元同僚の言葉。

「良い投資先があるのよ」

 そんな言葉に乗せられ、よく分からない暗号通貨に投資をした。結局それはポンジスキームで、私の財産はすべて消えてしまった。
 もうすぐ40代を迎えるというのに、いままで貯めたお金をすべて詐欺師に奪われてしまった私は、毎晩酒に頼る毎日を過ごしていた。
 アルコールの酩酊と湧き上がる自己嫌悪だけが脳を鈍く覆う。気を抜くと、ふらふらと車道に向かって飛び込みたくなってしまう衝動だけが皮肉にも、かろうじて生に対しての執着となっていた。

「……?」
 ふと見下ろすと、歩道の地面にドアがある。
 いや、そもそも意味が分からないのだが、歩道の足元に黒く重厚なドアがある。
 路地の地面に亀裂が入ったように存在するその扉の上には、ピンク色のネオン管が薔薇を連想させるようで「BAR Rose des vents(バー・ローズデヴァン)」と書かれて光っていた。
 すべてがどうでもよくなっている菜見子は、非日常的な誘いに抗うことなく重い扉を引き開いて、地下へと続く階段を降り始めた。

 ぐるぐると螺旋階段が続く。何階降りたか分からないほど下ると、ドアがある。開くとからんからんとドアベルが鳴った。
 ドアを開けると木の素材を活かしたバーが広がっている。壁にはたくさんのボトルが並んでいて、客席はカウンターが9席ほど。一番奥のカウンターに誰か座っているようだったが、薄暗い照明のせいで黒い影にしか見えない。

「いらっしゃいませ。お客様も、迷われたのですね。バーテンダーのスィエルと申します」
 菜見子が手近なカウンター席に座ると、カウンターの中からバーテンダーが名刺を両手で差し出しつつ言った。受け取った名刺はどこか冷たく、店名とスィエルの名前が入っている。
 彼女はまるで、精巧に作られた石膏像のような造形美。美しいが表情は作り物のようでぎこちない。緑色の髪を後頭部でまとめて、どこか肉感の乏しい体型はその神秘性を高めていた。
「初めてのご来店でしょうか?」
 菜見子は無気力に頷く。
「それでは、当店のルールを説明いたします。ひとつ、未来が見えたら追い出します。ふたつ、座り込まないでください。みっつ、誰かの詮索はしないでください」
 スィエルの言葉は菜見子の心には届かない。なんとなく曖昧に、ただ頷いた。

「ありがとうございます。それでは一杯目は、なにを飲まれますか?」
「じゃあ……『ギムレット』にします」
 菜見子の言葉にスィエルは『Oui(ヴィ)』と小さく頷くと、シェイカーにジンとライムジュースを注ぐ。軽快にシェイクしてから、カクテルグラスに注いだ。
「お待たせいたしました」
 眼の前にコースターを置くと、カクテルグラスを置く。菜見子はグラスを持つと、一口含んだ。
 ――ジンの鋭さと、ライムの鋭さ。質の違うふたつが口の中で混ざり合い、冷たい辛さが舌をぴりりと刺激する。それは意識がぼんやりし始めていた菜見子の頭を、少しだけすっきりとしてくれた。

「もしよろしければ、なにに迷われているのか、聞いても良いでしょうか?」
 不意に、スィエルが切り出した。
「え、えっと……実は詐欺に全財産を騙し取られてしまって。すべてを失い、生きていることが辛いんです。毎日、毎晩、ずっと自分の判断を呪い続けていて、この苦しみから目を逸らしたくて……」
 その吐露に対してスィエルは、表情ひとつ変えず見守っている。それから静かに口を開いて、
「人を騙すような者は、裁かれて欲しいですよねえ」
 と、抑揚のない声で同調した。

 そこで奥の影が手を上げる。スィエルは「失礼」とだけ言って、そちらへ向かう。そしてすぐに、注文されたなにかのカクテルを差し出した。
「あ�がとう。今夜は祝杯�」
 彼の表情は見えないが、その声はどこか嬉しそうだ。言葉の一部は途切れていて、本当に同じ世界にいるのかと疑ってしまうような、そんな気がしていた。
「お�様で、また『元本保証�安心です」という言葉を信じてくれた方がい�したよ。意気込んで全財産を渡し�くれて、本当�良い顔をしていましたね。は�はっ」

 菜見子は無意識に、その影を睨んでいた。
 ――彼の言葉は、元同僚が紹介してくれた詐欺師が言っていた内容と似ている――。

 そんな彼女の思惑に関係なく、影はカクテルをぐい、と飲んだ。
「う、う�っ」
 不意に、影は呻いた。
 ばん、と両手をカウンターにつく。そこに体重を預けて上体を起こそうとするが、起き上がれない。手が滑って、椅子から派手に転げ落ちた。

「お客様、いけません。座り込まないでください、と説明したはずです」
 それを見下しながら、スィエルは静かに言った。影は右手で喉を押さえながら、左手を伸ばす。だがその手はスィエルにも、椅子にも届かない。
 その光景を気にせず、スィエルは菜見子の前にやってくる。それから、
「広い海は、常に沈没のリスクを伴います」
 と、菜見子に言った。だが菜見子はなにが起こっているのか分からない。ただ見つめるしかなかった。

「わ、悪�のは俺じゃ�いぞ!! こ�な話を信用す�バ�が悪い�だろ! 金な�てもう無――」

 ――どぷん。

 彼の足元に漆黒の穴が、まるでオイルのようにぬるりと開く。影はそのまま穴に吸い込まれて、水に落ちたような重く不快な水音だけを残した。それから穴は、何事もなかったように消えてしまう。

「……!」
 菜見子は動けなかった。なにが起こったのか分からない。
 眼の前で人が消えた? そんな超常的な現象なんて起こるもの?
 なにが起こったのか理解できず、激しい戸惑いが身体を襲う。わずかに鼓動が高まり、酸素が薄いと感じてしまう。

 先程のスィエルのセリフを思い出す。

『裁かれて欲しいですよねえ』

 確かに先ほど、彼女はそう言っていなかっただろうか?
(いや、まさか……)
 菜見子にはなにが起こったのか分からない。
 でもただ、妙な納得感が生まれたのも事実だった。

「人を騙すような者は、裁きを受けるものですよねえ」

 スィエルが静かに言った。
 菜見子は思わず、反射的に、彼女の顔を見つめた。その表情は先程と変わらず抑揚がなく、なにを考えているかなんて読み取れない。
 自分の感情がぐるぐると回っていると錯覚する。死の衝動と自己嫌悪に包まれていた自分は脇に置かれて、ただ眼の前で起こった出来事を処理することができずにいた。

 でも――正直、スッキリした。
 詐欺師と思われる影の末路に。

 戸惑う。自分の中にそんな感情があったなんて。誰かが消える超常現象を見て、自分の心が解き放たれるなんて。

 それは、人として正しい感情なのだろうか。
 私にはもう、分からない――。

「未来が見えたようですね。それでは、良い旅路をお祈りしております。bon voyage(ボン・ヴォヤージュ)」
 彼女がハンドベルを取り出してちりりんと鳴らすと、奥の扉が開いて黒服に身を包んだ強面が2人、こちらに近づいてくる。
「ひ……!」
 彼らは菜見子を抱え上げ、スィエルはそれを冷静に見ながら、
「お会計、1,500円になります」
 と、静かに言った。
「は、払います! 払いますからあ!」
 拘束されながらもお金を渡すと、スィエルは静かに「1,500円ちょうど、いただきます」と微笑んでみせた。

 ぽい。そのまま外に放り出されてしまった。
 先程地面にあった扉はなく、入った扉があったはずの歩道で、菜見子は座り込んでいた。

 ……いったい、なに? なんなの?

 菜見子はガードレールに捕まって、なんとか立ち上がる。
 口の中にはギムレットの辛さが残っている。ポケットにはもらった名刺が残っている。
 ぼんやりと立ち尽くしていると、涼しい夜風が彼女の身体を舐めていく。

「……」
 理由はよく分からない。でもいまの彼女は、少しだけ、前向きになれた気がしていた。
 色々な感情とお別れしたような、そんな気持ち。

「……帰ろう」
 菜見子は顔をあげて、ゆっくりと歩き出した。
 そう。前に歩くしか、ないのだから。


幾度も夜が空ければ 酸味薄れゆくギムレット
強いお酒は得意じゃないけど 甘いだけじゃ生きられない
ギムレット/みいめた

標準的なレシピ
ジン (全量の)3/4
ライム・ジュース (全量の)1/4

Wikipedia

作り方
1.シェイカーに材料を全て入れる。
2.シェイクし、カクテル・グラスに注ぐ。

Wikipedia

カクテル言葉
「長いお別れ」


注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。


最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。

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