短編66「ブルームーン」 バー・ローズデヴァン#5
あらすじ
不思議なバー「BAR Rose des vents(バー・ローズデヴァン)」に迷い込んだ健人は、迷っていた。すべき選択は概ね見えていたが、それを選ぶべきかどうか……。
頭では理解している。彼女のへの愛着がないわけでもないが、それより子供の未来が心配だ。
頭の中は、まるで絡まった毛糸玉のようにぐちゃぐちゃだった。
だから僕は、迷っていた。
僕は、日笠 健人。一般的な営業職のサラリーマン、45歳。
今日も仕事帰りに馴染みの立ち呑み屋のカウンター席に座り、1人で日本酒をちびちびとやっていた。
言ってしまえば、ささやかな幸せというやつだ。
これぐらいの息抜きは許して欲しいと僕は思っている。この楽しみを取り上げられたら、僕は壊れてしまいそうだと。
「けんちゃん毎度! 良かったら魚食べるかい? 今日はいいサンマが入ってね」
「おっ、いいですね。じゃあ塩焼きで一尾もらえますか?」
「毎度あり!」
マスターの言葉に応えてから、ふう、と小さく息を吐いて、おちょこの日本酒を舐める。
美味しいサンマなんて日本酒好きからしたら最高のご褒美なのだが、素直に喜べない自分がいたのは確かだった。
僕はいま悩んでいる。家庭のことで。
「……?」
ふと見ると、壁に見慣れないものがある。黒く重厚な扉だ。その上にはピンク色のネオン管が、まるで寂れた店に狂い咲く薔薇のように、「BAR Rose des vents(バー・ローズデヴァン)」と書かれていた。
立ち飲み屋の中にバー?? 意味が分からない。
いや、こんな扉、前はなかったぞ。確か従業員専用のバックルームへの入口だったはずだ。
不気味と言われればそれまでなのだが、日本酒ですっかりできあがった僕は、それに興味を抱いてしまった。そろりと立ち上がると、近づいて、それからネオン管をもう一度見上げた。
興味に突き動かされて、扉を押して、開いてみる。
その瞬間、ごうと風が吹いて僕の背中を押した。まるで、自分の意思を奪われたかのように、そのまま前に進んでしまう。
ばたん、と後ろでドアが閉じる音がした。
「おい――」
振り返ってドアに向き直るが、ドアノブがない。開け方が分からない。
「くそっ」
僕は革靴の踵でドアをがんと蹴ってみるが、反応はない。進むしかないのか。
諦めて、ドアを背にする。地下へと階段が続いていた。
どのくらい歩いたのか分からないが、やがて入口らしきドアに到着する。押すと簡単に開いて、からんからんとどこか懐かしいドアベルが鳴った。ドアを開けると、そこは時間が止まったかのような、静寂の繭が広がっている。
「いらっしゃいませ。お客様も、迷われたのですね」
機会音声の声。
見ると、カウンターに立つバーテンダーはハンズフリーの電気式人工喉頭を首に取り付けており、そこから無機質な声が発せられているようだった。さらには頭から猫の耳みたいなものが生えており、異様な姿に視線を逸らした。
店内はこれぞ正統派バーとでも言わんばかりの、木材をふんだんに使用した店内。壁にはずらりと、様々な種類のボトルが並んでいる。
カウンター9席、テーブル2席。椅子はなくオールスタンディングだ。一番奥のカウンターに誰か座っているようだったが、照明の関係でその姿はよく見えず、黒い影のように見えた。
「バーテンダーのスィエルと申します」
名刺を差し出しながら、バーテンダーが言った。まるで精巧に作られた能面のような、美しく表情に乏しい顔つき。薄緑色の髪をアップバングにまとめていて、細い身体と整った顔つきは浮き世離れしているな、と僕は思った。
「お客様も、迷われたのですね?」
「あ、ああ……そうかもしれない」
彼の挨拶に実直に応えてしまった。僕の事情など知る由もないはずなので、いま抱えている荷物を見抜かれたのかと思ってしまう。
「当店のルールを3つ、説明いたします。ひとつ、未来が見えたら追い出します。ふたつ、座り込まないでください。みっつ、誰かの詮索はしないでください」
珍しいバーだな、と思う。
バーテンダーを通じた客同士のコミュニケーションを推奨しないバーなんて、初めて聞いた。まあ、僕以外に客は1人しかいないようなので、別に構わないだろう。
彼を見つめながら、頷いた。
「それでは一杯目は、なにになさいますか?」
「そうだな……『ブルームーン』を頼むよ」
彼は『Oui(ヴィ)』と小さく頷いてから、手慣れた手つきでシェイカーにジンを注ぐ。それからパルフェタムールとレモンジュースを注ぐと、親指と人差し指でシェイカーのトップを持ち、中指と薬指を底に当てリズミカルにシェイクする。それをカクテルグラスに注ぐと、コースターを置いてから僕の眼の前に置いた。
――手際が良いな。
素直にそんな感想を頂いて、僕は一口飲む。
「ああ、美味しいな……」
ジンの強さとニオイスミレの独特の香り。それらをレモンジュースがしっかりと手を繋いで、口の中で融合させてくれている。
きっとシェイク技術の高いバーテンダーなのだろうなと、僕は勝手に納得していた。
「もしよろしければ、なにに迷われているのか、聞いても良いでしょうか?」
「そうだね……実は離婚を考えていて。でも子供のこともあるから、なかなか決められなくてね」
「叶わぬ想いは、存じ上げております」
スィエルが指を鳴らすと、壁のスクリーンに映像が映し出された。
「おい――」
なんでこんな映像を持っているのか。僕は思わず立ち上がったが、彼は唇に指を当てて、軽くウインクしてみせるだけだ。
映されるのは僕の毎日だ。働いて、少ないお小遣いで生活して、帰ったら子供との時間を作る。それだけの毎日だった。
それでも、僕は幸せだと思う。会社では同僚に助けられているし、家庭では子供の笑顔で癒される。
「その気持ちは、彼女には伝わっていたのでしょうか?」
彼が指を鳴らすと、場面が切り替わる。僕と妻のケンカのシーンだ。激しい口論の内容は嫌な思い出を掘り返してくれて、思わず眉を潜めてしまう。
「頼むから、外に出て働いてくれないか? 子供もそれほど手がかからなくなっているし、これからかかる学費を考えたら、もっと貯金が必要だ」
「嫌よ。専業主婦になりたくて結婚したのに、なんでいまさら。給料上げてもらってきてよ」
――胃がきりきりと痛み、中のものを押し上げてくる。気分が悪い。
「離婚してくれ」
「無理よ。どうして、経済的に安定したこの生活を捨てなければいけないの?」
「――それでもなぜ、いまの関係を続けるんですか?」
「子供のためだ。16歳の息子がいて、彼は勉強ができるから、きっと社会に大きく羽ばたけるはずだ。いま僕たちが別れることは、彼の将来に暗い影を落とす。幸せな家庭というものを知らないまま育ってしまう」
僕はそこまで早口に言って、大きく息を吐いた。それからカクテルグラスを掴むと、ぐい、と一気に飲み干した。
「……もう一杯、もらえないか」
カクテルグラスをスィエルに差し出すと、彼は微笑みながら受け取った。視界が少し揺れている気がした。日本酒の後に度数が軽くはないブルームーンを飲んだのだから、当然だろう。
「それに、僕にブルームーンの美味しさを教えてくれたのは、彼女なんだ」
スィエルが完成したブルームーンが注がれたカクテルグラスを置くと、僕はそう呟いた。
「……自分の海路を、自分の海図で進むことは、いけないことですか?」
僕ははっとなって顔を上げた。スィエルのガラス玉のような瞳を見つめて、そこにある真意を見出そうとする。
「それは……」
言葉に詰まってしまう。
だって、仕方ないじゃないか。だって、子供のためだ。
だって、だって。だってが僕の中で洪水を起し、逃げ道を塞いでいく。
「あなたの未来はどこへ向かうのですか?」
思わず目を見開いてしまった。まるで心の中身を全て覗かれているような言葉に、全身が凍りついたように硬直してしまっていた。彼の無機質な言葉はガラスの破片のように冷たく、僕の心臓に突き刺さった。
ぱちん、とスィエルが指を鳴らすと、映像が変わる。
「……お父さんとお母さんがケンカしているのを見ているのは、辛いんだ」
息子の訴えかける言葉に、僕は夢から起こされたように跳ね上がる。
「もし離婚するなら、それでいい。ケンカを見続けるよりは。それより自分たちの幸せを探して欲しい」
「あなたの航海は、自分で決めてもいいのではないでしょうか?」
無機質な機械音声だからこそ、言葉は無慈悲な刃となって、ぐさり、と容赦なく胸を抉ってくるようだった。
「……僕には、なにもないんだ。夢があるわけでもなく、仕事も普通にこなしているだけ。息子の成長だけが楽しみなんだ。だから……」
そこまで搾り出してから、自分の中にわずかな灯火が芽生えたという感覚を感じる。
「航路が見えてきたのではないですか?」
……そうだ。僕にはなにもないけど、唯一誇れることは息子を大切に思っていることだ。
そして、息子が僕の幸せを願ってくれているように、僕もまた、彼の幸せだけを願いたいんだ。ならば、僕がすべきことは――。
「――分かったよ。僕が話すべき相手は、息子だ。彼の意志を尊重したい」
「未来が見えたようですね。――それでは、良い旅路をお祈りしております。bon voyage(ボン・ヴォヤージュ)」
彼がカウンター下からハンドベルを取り出してちりりんと鳴らすと、急に奥の扉が開く。強面の黒服が2人現れて、僕の両脇から抱え込んだ。
「おい――」
「お会計、2,500円になります」
拘束されたまま会計を済ませると、僕は軽々と担ぎ上げられ、黒い扉の外に放り出されてしまった。
「おい、けんちゃん。大丈夫か?」
はっ、と顔を上げる。先ほどまで立っていた、馴染みの立ち呑み屋のカウンター。そのカウンターを両手で掴みながら、僕は地面に膝をついていた。
顔を上げて周囲を見回す。見慣れた店内。厨房の中から、おやっさんが心配そうな顔で僕を見下ろしていた。
「おやっさん……僕はどのくらい、こうしてた?」
「いや、一瞬だよ。急に座ったから驚いて声をかけたんだ。……あと、サンマ焼けたけど、食べられるかい?」
僕は立ち上がりながら皿を受け取って、眼の前にサンマを置いた。焼き上げられた焦げの香りと、かすかな潮の香り。それを鼻腔に吸い込みながら、額を伝う脂汗を拭きたくて、ポケットに手を突っ込んだ。
そこには、スィエルの名刺が入っていた。名刺は、まだ温かかった。
口の中にはジンの辛さとパルフェタムールの香り、それにレモンの酸っぱさも現実の証だった。
(……夢、じゃなかったんだ……)
僕はそれを、胸の中にそっとしまい込む。あれは、確かに僕が選んだ道だった。
箸でサンマの身をほぐすと、口に運ぶ。旬のサンマは実に美味い。
一体あれはなんだったんだろうという不思議な気持ちが、少しほぐれた気がした。
壁に目をやると、先程あった黒いドアはなくなっている。
彼が言う『未来』の意味はよく理解できなかったが、すべきことは見えた気がする。
息子と、話す。ちゃんと話す。
妻とどうしたいかじゃなく、彼の意志を尊重する。
そこから始めようと、僕は考えていた。
きみを愛してるって なぜいまさら思うの
僕を暴いたブルー・ムーン 愛はとても無口
標準的なレシピ
ドライ・ジン 30ml
クレーム・ド・バイオレット 15ml
レモンジュース 15ml
作り方
1.シェイカーのボディに、大体7分目まで氷を入れる。
2.「ドライ・ジン」「クレーム・ド・バイオレット」「レモンジュース」をシェイカーに注ぐ。
3.強くシェイクし、グラスへ注ぐ。
クレーム・ド・バイオレットの代わりに、パルフェ・タムール等を用いるレシピも存在している。
カクテル言葉
「叶わぬ恋」「できない相談」
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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