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膝が笑うって、こういうこと!?|山と温泉の物語 #09

現場事務所の朝は、外の音から始まる。
少しぼんやりした頭で、その音を毎朝ここで聞いている。

窓の向こうでは、朝礼広場に作業員さんたちが集まっていた。
ラジオ体操の音楽が流れ、マイク越しに今日の作業内容と安全注意が聞こえてくる。

「手元足元注意でお願いします」
「今日は鉄筋の材料搬入があります」
「このあと、各業者さんでKYミーティングをしてください」
その声を窓を隔てて遠くに聞きながら、私はCADの画面に向かっていた。

事務所の中では、キーボードの音。
マウスを動かす音。図面をめくる紙の音。
少し冷めたコーヒーの匂い。

「サエさん、このサッシ枠って、こっちの廊下側に合わせるんですか?」
隣の席から、夏希がノートを持ってのぞき込んできた。

夏希は、同じ施工図担当の後輩だ。
まだ二年目だけど、わからないことをよく聞いてくる。

私は画面上の壁面を指さした。
「うん。ここの枠は廊下側に合わせた方が納まるね。ただ、壁面の枠ちり寸法と、巾木の厚みも見るんだよ」

「厚み……あ、そっか。壁線だけ見てたら、そこ抜けちゃいますね」
夏希は、すぐにノートへ小さくスケッチを描いた。

「図面って、線を引くだけじゃなくて、出来上がったときの納まりを想像するんですね」

「そうそう。先を読んでおく感じかな」
そう言いながら、少し微笑んだ。

図面では、数ミリのズレも気になる。
「この枠、あと3ミリずらしたら納まりがいいね」
そんなことを言っていた私が、
数時間後、自分の膝の限界は雑に見積もることになる。

図面には細かい。膝には大ざっぱ。
…それ、いちばん危ないやつだった。

そして、次の休み。
モニターから解放されて、くじゅうの入口、牧ノ戸峠に立っていた。


登り始めたら、もう絶景

牧ノ戸峠の朝は、よく晴れていた。
靴ひもを締め直して、ザックを背負う。
空は青く、白い雲が少しだけ流れている。

牧ノ戸峠登山口からは、コンクリートの段々の道を登っていく。
息が少し上がり始めたころ、第一展望台のあたりで景色が開けた。

眼下に、やまなみハイウェイが細く伸びている。その先に長者原とタデ原湿原が広がり、さらに遠くには由布岳がその威容を見せている。

第一展望台からタデ原湿原を一望

山頂で、ちょっとはしゃいだ

途中、小ピークの沓掛山を越えると、道は歩きやすく穏やかになる。

星生山を横に見ながら、高原の中を歩くような道が続く。
風がシャツの袖を揺らし、靴の裏で小さな石が鳴る。
歩いていると、胸の奥が軽くなっていく。

避難小屋を過ぎ、ざれた斜面を登る。
石に足を置くたびに、ザリッと音がする。

ザレ場を登り切ると、ようやく久住の山頂に立った。
景色が、全方位に一気に開ける。

九重高原が広がり、その向こうに阿蘇の山なみ。
さらに遠くに、祖母山の影がうっすら見えた。
「あそこにも、登ったんだよな」(第4話だよ)

近くにいた登山者の方にお願いして、記念写真を撮ってもらう。
山頂標識の横に立って、片手を添える。
片手だけの小さなガッツポーズ。
……のつもりだったけれど、あとで写真を見ると、
顔が完全に「やったー!」だった。

大人っぽく山を楽しむ予定だったのに、
山頂では小学生に若返る。

撮ってもらう手間、控えめにしてガマンしている。

ちょっとはしゃいだかな。
風で髪が揺れる。
足元の岩がごつごつする。
それでも、この場所に立っていることが、ただうれしかった。

そのあと、岩に腰を下ろしてお昼にした。
風に少し冷まされたおにぎりが、妙においしい。
山頂で食べるごはんは、なぜにおいしく感じるんだろう。

山頂下の御池に寄ってみた

最初は、牧ノ戸峠へピストンで戻るつもりだった。
でも、少し山頂から下った先に大きな御池がある。

御池に来てみると、そこは静かだった。
水面の向こうに、中岳が見える。
ごつごつした山肌と、青い空と、白い雲。

風が弱まると、水面が落ち着いていく。

立って撮る。しゃがんで撮る。
少し横にずれて撮る。

水面の反射が難しい。
「もうちょっと右かな」そう思って一歩動く。

「いや、左かな」また戻る。
池のまわりで、ひとりで反復横跳びみたいになっていた。

写真はたくさん撮れた。
そして時間も、しっかり取られていた。

九重連山の最高峰中岳にも行ってみたかった。
でも、時間を考えると、今日はここまでかな。

最高峰は、次の楽しみに残すことにした。
問題は、そのあとにあった。

帰りは急げると思っていた

御池から引き返して、久住分かれへ向かう。

時計を見て、少し焦った。御池の水面がきれいで、ついカメラを向けすぎた。空の色も、さっきより少し濃くなっている。

——あんまり遅くなりたくない。早めに牧ノ戸峠まで戻ろう。
足が、自然と速くなった。

石の多い道を、下っていく。
ざれ場は、土の道とは勝手が違う。
大きめの石がごろごろしていて、足の置き場が定まらない。
一歩ごとに、靴底から硬い感触が、まっすぐ返ってくる。

ザッ。ザッ。ザザッ。
石を蹴る音が、だんだん大きくなる。

下りは楽なはずなのに、一歩ごと、前に出した足だけで体重を受けている。膝をあまり曲げずに着地すると、その衝撃が、膝のお皿の奥に、ことん、ことん、と溜まっていく。

そのときは、まだ調子がよかった。
なので、気持ちよくテンポが上がってしまった。
早いとこ戻ろう。その気持ちが、歩幅を一回り大きくする。

石に足を置く。すぐ次の足を出す。
前の足に、体重をどん、と預ける。
膝で受け止める。

——今思えば、あれがよくなかった。
そのときは、大丈夫なつもりだった。

膝の奥が、変だった

久住分かれを過ぎ、避難小屋のあたりを通る。平らな道に出ると、ほっとして、またスピードが乗ってきた。

それから小ピークの沓掛山を過ぎたあたりだった。
膝の奥が、変だった。

お皿の奥に、じんとした痛みがある。表面がすりむけたような痛みじゃない。膝の、もっと内側。鈍い熱が、芯にこもっているような感じだった。

途中で止まって、膝に手をあてる。お皿のまわりを、軽く押してみる。ぐりぐりと回してみる。痛いような、痛くないような。

「……まあ、なんとかなるかな」
声に出してみると、少し安心した。そう思って、また歩き出す。

数分後だった。
膝が、小さく、ふるっと震えた。

一歩出す。痛い。もう一歩。
膝が、かくん、と抜けるように揺れる。

——え、なにこれ。
全力で階段を駆け上がって、立ち上がろうとして太ももがぷるぷるする、あの感じ。あれの、もっと強いやつ。それで立っていると、ずっと止まらない。

脚に力を入れているのに、膝が勝手に”かくん”と折れる。自分の脚なのに、自分の言うことを聞いてくれない。こんなの、初めてだった。頭は前に進みたいのに、膝だけが、置いていかれている。

笑っていたのは、膝だった

あと少しで、登山口。
その「あと少し」が、やけに遠い。

最後の下りは、コンクリートの舗装路。土の上なら、衝撃は少しは逃がせる。でもコンクリートは、一歩ごとに、感覚がダイレクトに跳ね返ってくる。膝の奥に、ガツン、と響く。

正面を向いて下れなくなって、横向きになった。カニみたいに、片足ずつ、そろそろと下ろしていく。向きを変えてみる。斜めにしてみる。それでも、痛い。膝はぶるぶると震えている

後ろから、登山者が次々と下りてくる。
「お先に失礼します」
「あ、どうぞ……」

何度、道を譲っただろう。みんな、さっさっさっと、軽い足取りで抜けていく。自分は、のっそり、のっそり。

なんか、変に見られている気がした。
本当は、誰も気にしていなかったと思う。でも、自分だけがものすごく遅くて、ものすごく情けなくて、隠れてしまいたい気持ちだった。

膝が笑うって、こういうことか。
笑っているのは膝だけで、気持ちはとても笑えなかった。

ようやく登山口に戻ったとき、ベンチにどしっと腰掛けて、やっと深く息を吐いた。でも、膝の震えは、止まってくれなかった。

湯気の中で、やっと反省した

車にたどり着いて、シートに座り込むと、どっと力が抜けた。じわっと足を伸ばしてみると、お皿の奥に、じんとした痛みが、まだ居座っている。

——これは、やってしまったかも。
なおのこと、湯気の中で一息つきたかった。
治るかどうかはわからないけど、この足を休ませたかった。

脱衣所までの廊下で、膝がまたぷるぷるした
「ひざ、笑いすぎ」頭の中で、ぐっとつっこむ。

ここまで来たらしょうがない。
今日はこの膝を、お湯でなだめることにする。

片足ずつ、のっしりと湯に入れる。そのまま肩まで沈むと、湯気が、ふわっと顔にかかった。膝に、お湯のあたたかさが、じんわり染みていく。

「はぁ……」
自分でも驚くくらい、深い声がもれた。

熱すぎないお湯が、疲れた足を覆ってくれる。痛む膝を、お湯の中で、そっと手のひらで包んでみる。

山頂までは、あんなに軽かった足。下りだから楽。
少し急いでも大丈夫。そう思っていた。

でも下りでは、よけいに足を使っていた。石の上に足を置くたび、膝に体重が乗っていた。前足にどんと体重を預けて、膝を伸ばし気味になっていて、衝撃を逃がせていなかった。

山は、登っただけでなく、自分の足で無事に下りてくるところまでが、山。その当たり前を、今日、膝で覚えた。

温泉から上がっても、膝の違和感は残っていた。震えは、その後三日続いた。痛みがすっきり抜けるまでには、結局、二週間ほどかかった。

翌週の山は、休んだ。残念だったけど、無理もできなかった。次は低い山で下り方を、一度試してみよう。

そう思いながら、いつもの倍くらい慎重に服を着た。
膝は痛い。でも、また山に行くことは、もう決めていた。


サエのひとこと

「膝が笑う」の意味を、今日、膝で覚えました。
……もう二度と、笑わせたくないです。


安全メモ

「膝が笑う」とは、長い下りなどで膝まわりの筋肉が疲れきって、自分の意思とは関係なく膝がガクガク震え、力が入らなくなる状態のこと。一度なると、その場ではなかなか止まりません。

  • 下りは「楽」に見えて、登り以上に膝へ負担がかかります。

  • 歩幅を小さく、膝を軽く曲げて着地すると、衝撃がやわらぎます。

  • 膝に違和感が出たら、早めに休むか、ペースを落とします。

  • トレッキングポールを使うと、膝への負担を減らせます。

  • 「膝が笑う」状態になると、回復に時間がかかることがあります。無理は禁物です。

下りの歩き方と膝のケアは、"増補版"で取り上げる予定です。
※公開後、リンクを貼ります。


次回10話予告

山の上で、水が足りなくなりました。
「水場、あるって書いてたのに……」
そんなときに私を救ってくれたのは、あの予備食でした。

前回のお話はこちらです。↓



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