撮るのが楽しい日、気になる人がいた|山と温泉の物語 #07
シーズンⅡ、ここから始めます。
山に入る前、何を準備するか。

カメラ。地図。雨具。救急セット。
それから、少し浮かれた気持ち。
同じ山に行くにしても、見ているものは、人によって少し違うみたいです。
この連載について
「山と温泉の物語」は、山での小さな失敗や気づきを、サエの目線で描く連載です。
山で覚えて、温泉でほどける。
今回から、少し気になる人が現れます。
山に入る前のそれぞれの準備
登山口に着いて、準備ができて、それからもう何枚も撮っていた。

登山口の看板、木漏れ日、足元に咲いていた小さな花、
それから自分の登山靴。
もはや記録というより、浮かれた証拠集めみたいになった。
新しいカメラというのは、こわい。
目に入るものを、かたっぱしから「撮っておきたくなる」。
首から下げる一眼カメラは、まだ買ったばかり。
ボタンの位置も、ダイヤルの意味も、ほとんど分からない。
でも、シャッターを押すだけで楽しかった。
構えるだけで、今日が特別に思えてくる。
自分の車も撮っとこ。
しゃがんで、ローアングルから狙う。
青空と山を背景にすると、なかなかかっこいい構図になる。
バシャ。ふと立ち上がろうとして、隣の車が目に入った。
その脇に、女性がいた。地面にシートを広げて、ザックの中身を全部出している。水筒、レインウェア、行動食——ひとつ取り出しては手に持った紙と見比べて、またしまう。せかせかと、でも丁寧に、ひたすら繰り返していた。
……何やってんやろ、あの人。
この山は日帰りやんな。
チェックリストまで作ってるみたい。
珍しいものを見る目で、しばらく眺めてしまった。

そのうち、なんとなく自分のザックが気になった。
……自分は大丈夫かな。特に理由はなかったけど。
ただ、なんとなく。少し考えて——
あっ。
日焼け止め、車に置いてきた。
サエは踵を返して、駐車場を小走りで戻った。
日焼け止めをザックのトップポケットに押し込んで、登山口へ向かった。

登り始めると、すぐに木々の影に入った。木漏れ日が足元に落ちて、踏むたびに形が変わる。上を見ると、枝と葉っぱが空を細かく切り刻んでいた。
これも撮りたい。立ち止まって、カメラを上に向ける。ファインダーの中で、光と影がめまぐるしく動く。シャッターを切る。
少し開けた場所に出ると、遠くの稜線が見えた。薄く青く重なった山の輪郭が、朝の霞の向こうに伸びている。ズームレンズを回して、構図を作ってまた撮る。

足元を見てみると、登山道の脇に小さな花が咲いていた。白くて、米粒みたいに小さい。しゃがんで、地面すれすれから狙う。こういうのが、意外と良い感じに撮れる。

自撮りもやってみよか。
カメラを反対に向けて、液晶をパタンと自分の方へ開く。腕を目一杯伸ばして、アングルを探す。持ちにくくてまま重い。うまく自分を入れるのが難しい。何度もバシャッと押して、やり直してみた。

画面を確認すると、顔が少し切れていた。
まっ、いっか。
また歩き始める。ザックのサイドポケットに入れたモバイルバッテリーも撮った。スマホも撮った。気づいたら、まだほとんど距離を稼げていなかった。
——これは、しばらく進まないな。
分かっていた。でも、止まらなかった。
稜線の向こうから差し込む朝の光が、苔むした岩肌をちょうどよく照らしている。あと少し右に寄れば、もっと締まる。そう思いながら、気づかないうちに半歩、また半歩と体を動かしていた。
「こんにちは。」声がした。
それから、少し間を置いて、
「……足元、ちょっと危ないかもです」
と、小さな声が続いた。
反射的にファインダーから目を離した。振り向くと、ザックを背負った女性が立っていた。
——あ。駐車場のあの人や。チェックリストで確認してた、あの人だ。目が合うと、少し緊張したような顔をしている。
「あ、こんにちは〜」
サエは答えながら、もう一度ちゃんと顔を見た。カメラを体の前にぶら下げたまま、手をフリーにした。そのままふと足元に目をやる。
——あれ。
不安定な石の上に乗っていた。そのまま重心をかけていたら、斜面に向かって足を滑らせていたかもしれない。
あぶなかった。
女性はサエがこちらに気付いたのを確認すると、そのまま歩き始めた。背中のザックが、リズムよく揺れている。
あの人、気づいとったんだな___。
サエはファインダー越しの景色に夢中だった。
足下は完全にお留守になっていた。

温泉でほどける
湯船に肩まで沈んで、サエはふうと息をついた。 指先まで、じんわりと力が抜けていく。
露天の縁の向こうに、山並みが見えた。 夕暮れの光が稜線を橙色に染まって、空がだんだん、遠い紫に変わっていくところだった。湯船は一人きりでとても静かだった。水面がゆるーく揺れるたび、湯気が立ちきれて、またゆっくりと立ち上がる。
今日、どんだけ撮ったんやろ。 帰ったらパソコンの大きい画面で確認するのが楽しみ。あの雲の隙間から差し込む光の角度、ちゃんと撮れていたらいいけど。初めて使った一眼カメラは、思ったより重くて、思ったより難しくて、でも思ったより楽しかった。
そういえば。
駐車場であの人を見かけたのは、ちょうど登り始める前だった。車の横に荷物を全部広げて、紙を見ながら一つずつ確認していた。チェックリスト。日帰りでそこまでするんかな、と思った。
山の中でまた見かけた時、一瞬でわかった。あの人やと。
「こんにちは」 振り向いて、足元を見て——あ、やばかった。
確認する人に、確認されてしもた。
誰も見ていない。湯気の中で、一人で笑った。
あの人はとくには何も言わなかった。 「足元、ちょっと危ないかもしれないです」って、おそるおそる教えてくれたようで。べつに知り合いでもないのに。 言おうか迷って、でも言ってくれた感じがした。
——なんか、やさしいな。
遠くに見える山並みが、夕暮れの中にゆっくり沈んでいく。 橙色が薄れて、空の端が少しずつ、群青色に変わっていく。
サエはそのまま、口までお湯に沈んだ。
じんわりと、体の奥まで温かくなっていった。

——あの人、なんか気になる。
お湯がゆらりと揺れた。
サエのひとこと
カメラを持つと、撮りたいものが急に増える。
カメラを構えてみて、はじめて気づいた。
だけど、足元は、ずっと画角の外だった。
通りがかり、山で会った人に教えてもらったこと。
名前は、まだ知らない。
安全メモ:山で写真を撮るときは、まず足元
写真を撮るときは、必ず立ち止まってから。
構図を探して動くときは、足元を確認する
崩れやすい土、濡れた石、斜面側には無理に寄らない
カメラやスマホに夢中なときほど、周囲の確認を一度入れる
「あと半歩」は、山では意外と危ない
いい写真は、無事に帰って見返して思い出せるから、いいんです。
次回予告
一眼カメラって、山で持ち歩くのが意外と難しい。
首から下げると揺れるし、しまうと出すのが面どう。
どう持つのが正解なんやろ。
そんなことを考えながら歩いていたら、また会いました。
あの、念入りな人に。
次回、カメラの持ち方と、少しずつ見えてくるアカリのこと。
第8話公開しました↓
※シーズン2では、カメラ、膝、道迷い、水不足など、山での小さな気づきを描いていく予定です。
