おじいちゃんの硯
家の整理ダンスの引き出しに、32年前にもらった硯がある。
おじいちゃんの硯__
もらったのは、私が中学3年生の時だった。
父方の祖父は、地元の役場で働ていたそうだ。定年退職した後、習字の師範だった祖父は、木造の古い公民館を借りて習字教室をしていた。毎週日曜日の午前中、書道教室には、幼稚園児から大人まで幅広い年齢の人が習いに来ていた。孫の私も父親の車に乗せて行ってもらって、書道教室に通っていた。
古い木造の公民館の入り口を入ると、手洗い場があり、木造の長い机と椅子が二列に五組ずつ並んだ部屋で、書道教室は開かれていた。教室の前の祖父が座っていた机は、書道教室の生徒たちを見渡せるようにが逆向きに配置さていた。机の上には硯と筆が置かれていて、硯の中には赤い墨汁が入れられていた。
書道教室の生徒たちは、祖父が書いたお手本を見て、硬筆や習字を書いては机のところまで持っていき、赤い墨や赤ペンで直してもらっていた。私は、自分の文字を赤色で祖父に直されるのをじっと見るのが好きだった。
はっきりした時期を覚えていないが、書道教室に借りていた公民館が立て直されることになり、祖父は書道教室を閉めることになった。それから、私は祖父の家で書道と硬筆を教えてもらうようになった。毎週日曜日、私だけの書道教室が開かれるようになった。
幼稚園の頃からの習慣だったため、毎週日曜日に書道教室に行くのは苦ではなかった。私には妹と弟がいるが、書道教室が閉まってからも習いに行ったのは、私だけだった。
祖父の家の2階の奥に習字を書く部屋があった。床に絨毯がひかれた部屋には、大きな木造の机があった。その部屋に入ると墨の匂いがした。祖父の書道の部屋には、硯、筆、半紙が所狭しと置かれていた。
中国に祖父が旅行に行ったときに買った硯を見せてもらったこともある。祖父が大切にしている硯や筆、墨、半紙があったようだ。
朝の10時ごろから2時間ほど、書道や硬筆を書いた後、お昼ご飯を祖父の家で食べるのがお決まりだった。
祖母のご飯といえば、思い出すのが、ちらしずしや炊き込みご飯、レタス和え、らっきょう漬け、毎年お正月に食べるピーナッツやゴボウ、レンコン、こんにゃくなどが入った煮豆や煮しめもおいしかった。
夏場は、そうめんを食べることが多かった。卵焼きを自分で焼けるように練習したのも祖母とだった。焦がしたくない私は、一番弱火で作るため、時間はかかったがきれいな黄色をした卵焼きが焼けるようになった。
毎週日曜日は、習字の日だった。
平和な日曜日の記憶だ。
中学生になった私は、運動部に入った。土日の関係なく練習があったため、祖父の家に行く回数は減ったが、時間を見つけては習字を書いていた。私にとって、字を書く時間は、集中できる時間でもあり、もっとうまく書けるようになれるんじゃないかと挑戦する時間でもあった。
一つのことを集中してできるのは、習字や硬筆を習っていたからだと思う。物事をすぐにあきらめずに、どうにかならないか考えてしまうのも、少なからず影響がある気がする。
中学3年生になったある日、私は、祖父の2回目の入院のため祖父の家に来ていた。父親が祖父を病院に乗せていくため、玄関の前の道に車を止めた。私は、玄関の上り口の畳の部屋でその様子を見ていた。玄関にいた祖父が急に2階に上がっていった。
階段を降りてきた祖父は、私に自分が使っていた硯と新しい太筆と細筆を渡してきた。その時、祖父に何か言われたという記憶は特にない。玄関に父を待たしているため、慌てて降りてきて、渡したという感じだった。
もらった私は、子供ながらに違和感を感じた。
おじいちゃん、もうこの家にもどってこないかもしれない。
家の近くの総合病院に入院した祖父に祖母はずっと付き添っていた。病室で寝泊まりしていたため、母が毎日祖母のための晩御飯を作り、父が病室に届けていた。その晩ごはんは祖母のためのものだったが、いつの間にか祖父が食べるようになった。
今でも実家に行くと母は
「おじいちゃんは、入院しているときに持っていった晩ごはんをたべて、『こんなおいしいもん食べたことはないわ』といってたべてたんやで。」
と、なつかしそうに話す。
入院してばかりの祖父は食欲もあり、父が持って行った祖母用の晩御飯を食べていたそうだ。しばらくして祖父をお見舞いに行くと、透明のビニールシートで周りを囲っていたベットの上でいた。普通に祖父と話したけれど、中学生の私の頭の中に、ある病名が浮かんだ。
白血病...?
でも…
誰も何も言わないからわからない。
父は、私たち子供に祖父の病名の話はしなかった。
誰も何も言わない。
言われない病名は、言えない病名だったのかもしれない。
3月の下旬、志望していた高校に合格した私は、祖父の病室へ行って志望校に受かったことを報告した。
私の合格を喜んでくれた祖父は、
「あの学校には、I先生という習字の先生がいるから、書道部に入って習字を教えてもらったらいい。」
と話してくれた。
私の記憶の最後に残っているのは、4月10日の祖父の誕生日の記憶。
私の家は、父方の家の習慣で、必ず誕生日には尾頭つきの魚と赤飯、ケーキで祝っていた。父親と、鯛の塩焼きと赤飯をもって、祖父のお見舞いに行った。
その時の祖父は、3月に会った祖父と違って赤い色の点滴をされながら、ずっと目を閉じて眠っていた。
「おじいちゃん、誕生日おめでとう。」
私が、そう言っても目が開くことはなかった。
「何日か前に鼻血が出てから、ずっと調子が悪い。」
父親が、そう説明してくれた。
おじいちゃんは治療のせいか、頭の髪の毛も減っていたし...。
やっぱり、白血病なのかもしれない。
もう、長くないのかな...。
誕生日の日、ベットで眠っている祖父を見たのが「生きている祖父を見た」最後だった。
その6日後の4月16日。
私は、祖父の家に妹と弟と留守番させられていた。
父と母は、総合病院に行っていた。
ジリリリリリン ジリリリリリン ジリリリリリン
黒電話が鳴った。
「もしもし」
と電話に出た私に、
「もしもし、おじいちゃんがさっき亡くなった。」
「え...?」
言葉に詰まる私に、電話口の母は泣いていた。
祖父のお葬式はすごい人だった。
400人近く、参列者がいた。
喪主の挨拶の時、父はすぐに、言葉がこなかった。
その数秒間、私は悲しみでいっぱいになり、涙がこぼれた。
私は人生で初めて亡くなった人の顔を見たのが、祖父だった。
亡くなった人を見るのは、なんだか怖いような、でも顔を見るといつもの祖父だし。複雑な心境だったのを覚えている。
棺桶に入れられた祖父が、霊柩車に乗って斎場に運ばれ、焼かれて骨になるというのも、衝撃だった。人間は、最後、骨になってお墓に入るというのを現実として見せられた。
硯をもらってから、もう32年が経ちます。
祖父が亡くなった後も、私は高校で書道部に入り、習字を書いていました。
大学生になり、社会人になった私は、習字と離れてしまいました。
結婚して、長男が小学校に入学した年に近所の書道教室に行くことになり、また私も一緒に書道を始めることができました。子供に混じって、教えてもらっていました。6年ほど書道を続けていましたが、仕事が忙しくなり、続けることが難しくなりました。
私にとって、書道をする時間はとても大切でした。祖父が師範だったため、習い始めましたが、私の人生と書道はとても縁の深いものです。文字を書いていると、集中してほかの嫌なことを考えなくていい瞬間でもありました。今は、少し書道と距離ができてしまいましたが、また、いい先生に巡り合ったら、書道をしたい気持ちはあります。
32年前に祖父にもらった硯は、私が祖父の家で使っていた硯です。それを渡した祖父の気持ちは、想像でしかないけれど、自分がいなくなっても書道を続けてほしかったのかなと思います。
家の整理ダンスの引き出しには、今も32年前にもらった硯がある。
その硯のことを思い出して見るたびに、日曜日の朝の公民館や、墨の匂いのする祖父の部屋、祖母の作ってくれたご飯を思い出す。
楽しい時間をありがとう。
美味しいご飯をありがとう。
見守ってくれてありがとう。
いくら、感謝しても足りません。

いいなと思ったら応援しよう!
いつも私の記事を読んでくれてありがとうございます😊今後の活動の励みになりますので、応援していただけると嬉しいです✨