なぜ日本のサポーターは試合後にゴミを拾うのか ~世界が驚く日本の清掃文化。その原点は学校に~
はじめに
サッカーのワールドカップが行われるたびに、海外メディアで話題になる光景があります。
試合終了後、日本のサポーターがスタジアムの観客席のゴミを拾ってから帰る姿です。
さらに、日本代表チームが使用したロッカールームがきれいに整理整頓されていることも、これまで何度も報じられてきました。
そのたびに海外からは、
「なぜ日本人はこうするのだ?」
という声が上がります。
私は長年、教員として勤務してきました。だからこそ、この光景を見るたびに思うことがあります。
それは、こうした行動は試合後だけの特別なものではなく、日本の学校で日常的に行われていることの延長線上にある、ということです。
「掃除は誰かがやるもの」ではなく「自分たちでやるもの」
海外では校舎内の清掃を専門のスタッフが担当する国も少なくありません。
一方、日本の多くの学校では、子どもたち自身が教室や廊下、階段、時にはトイレまで掃除します。
毎日、日本の学校では当たり前のように行われている光景です。
もちろん、子どもたちは最初から進んで掃除をするわけではありません。
面倒だと感じる子もいますし、手を抜こうとする子もいます。
しかし、毎日続けていく中で少しずつ変化が生まれます。
床に落ちているゴミに気づくようになります。
机の並びが乱れていることに気づくようになります。
誰かが困る前に動こうとする姿も見られるようになります。
そうした小さな経験の積み重ねが、子どもたちの中に根付いていくのです。
掃除で育つのは「きれい好き」なのではありません
学校の掃除には、教室をきれいにする以上の意味があると私は考えています。
現場で多くの生徒たちを見てきて感じるのは、掃除を通して育つのは
「気づく力」
だということです。
誰も指示していないのに落ちているゴミを拾う。
次に使う人のことを考えて物を整える。
汚れている場所を見つけて行動する。
こうした力は、テストの点数では測れません。
しかし、社会に出てから非常に「大切な力になる」と私は考えています。
同じ掃除でも差は生まれます
もちろん、すべての学校やクラスで清掃活動がうまく機能しているわけではありません。
同じ時間、同じ場所を掃除していても、クラスによって大きな差が生まれることがあります。
掃除が単なる作業になってしまうクラスもあります。
一方、生徒同士が自然に声を掛け合い、自分から動くクラスもあります。
その違いは何なのでしょうか。
私は教員としての長年の経験から、掃除そのものよりも、
「掃除に向き合う空気」が大きい
と感じています。
教師の関わり方。
学級の雰囲気。
生徒同士の関係性。
そうした日々の積み重ねが、清掃活動の質を大きく左右するのです。
世界が驚く行動は、一日で生まれるものではありません
サッカーの試合後にゴミを拾う。
使った場所をきれいにして去る。
その行動だけを見ると、「特別な美談」のように映るかもしれません。
しかし、こうした行動はサッカーにだけ見られるものではありません。
アメリカのメジャーリーグで活躍する大谷翔平選手が、高校時代からゴミを拾う習慣を大切にしていたことは広く知られています。
大谷選手は「運を拾う」という考え方を語ったことでも有名ですが、その根底には、
自分が使う場所や周囲の環境を大切にする
姿勢があるように感じます。
もちろん、大谷選手個人の努力や考え方による部分は大きいでしょう。
しかし、多くの日本人がその行動に共感し、違和感なく受け入れるのは、学校生活の中で培われてきたものがあると私は考えています。
学校で毎日繰り返してきた経験。
「来たときよりも美しく」という考え方。
自分たちの場所は自分たちで整えるという意識。
こうした積み重ねが、大人になってからも自然な行動として表れているのではないでしょうか?
世界が驚く日本の清掃文化。
その原点の一つは、
間違いなく学校教育の中にある
と私は考えています。
おわりに
最近では、学校での清掃活動そのものの意義について議論されることもあります。
たしかに、効率だけを考えれば専門のスタッフに任せた方がよいという考え方もあるでしょう。
しかし私は、清掃を通して子どもたちが学ぶものは決して小さくないと感じています。
目の前の汚れに気づくこと。
誰かのためにひと手間をかけること。
使った場所を整えて次の人に渡すこと。
そうした経験の積み重ねが、世界中から賛辞を贈られる行動につながっているのかもしれません。
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