俺は、妻を愛していたのか?(4)
第4話
俺と香織は、ビジネスホテルをチェックアウトし、今は、秋吉台の“洞窟”・・・『秋芳洞』の入り口にいる
山口県美祢市に広がる秋吉台は、日本最大規模のカルスト台地だ
北東に約一六キロ、北西に約六キロ台地上の総面積だけで五四平方キロメートル、地下の石灰岩層を含めると九三平方キロメートルにも及ぶ広大な大地である
この台地の石灰岩は、約三億五千万年前、南方の温かい海で珊瑚礁として誕生したそれが気の遠くなるような年月をかけて、プレート運動で北西に運ばれ、最終的にユーラシア大陸の縁に付加して、今の場所に隆起した
人類の歴史など、この大地の時間の前では、瞬きにすら満たない
秋芳洞は、その台地の地下一〇〇メートルに開いた、日本屈指の大鍾乳洞だ総延長は約一〇・七キロメートルそのうちおよそ一キロメートルが観光コースとして公開されている
洞口は高さ二〇メートル、幅八メートル大きく口を開けた岩肌から、透き通った地下水が滝のように流れ出している
洞内の気温は、年間を通じて一七度で一定外が真夏でも真冬でも、中は同じ温度だひやりと、涼しいいや、真夏の残暑の肌には、冷たいと言っていい
「ここも、伴憲さんと聡子さんの“想い出”の場所なんだね」
香織は、俺の腕を掴み、自身の身体を密着させていた
俺は、そんな香織に・・・困った面持ちで、
「済まんが・・・少し、俺から離れてくれないか?・・・君とはそんなに親しくないぞ」
と、窘めた
普段なら、もう少し柔らかく言えたはずだ
だが、この日の俺は、普段より少しだけ、言葉が硬かった
宮島からの夜、自分の中で
(香織は俺の疑念を引きずり出してくれる存在なのかもしれない)
と気付いてしまった事が、逆に、俺を身構えさせていた
気付いてしまった以上、もう、無自覚に一緒にいるわけにはいかない
聡子に、顔向けが出来なくなる気がした
香織、怪訝そうに
「えっ?・・・あたし、“聡子さん”の代わりだよ・・・伴憲さん、承諾してくれたじゃん」
と、言って来たので、俺は、少し怒りを表し
「いくら何でも、やり過ぎだ!!・・・これ以上、聡子に申し訳が立たない」
強いトーンで咎めた
香織、悲しそうな眼で、
「ご、ごめんなさい・・・」
と、口ずさんで、顔を下に向けていた
・・・言い過ぎたか
俺は、香織を怒鳴ってしまった事に、気を揉んでしまった
背負っているリュックの中の“聡子”に
(聡子、済まない・・・俺はどうすれば良かったのだろうか?)
と、心の中で謝罪と問いかけをしながら・・・
一緒に“洞窟”の中に入ると、湿った岩の匂いと、水の音が、一気に五感を占領した
照明に照らされた石灰岩の天井から、無数のつらら石が垂れ下がる「傘づくし」と呼ばれる千畳敷の天井の景観だ幅八〇メートル、長さ一七五メートルもの巨大な空間が、地下に広がっている
水滴が、ぽたり、ぽたりと、岩の上に落ちるその一滴の中に含まれる微量の炭酸カルシウムが、何万年もかけて固まって、鍾乳石になる鍾乳石の一センチが成長するのに、約一〇〇年かかると言われている
秋芳洞のシンボル「黄金柱」は、高さ一五メートル、直径四メートルの巨大な石灰華柱地下神殿を支える柱のように、しん、と立っている
地面に落ちた一滴、一滴が、何十万年もかけて積み上がって、この柱になった
「凄く幻想的だね~~」
香織は楽しみながら“洞窟”を見て回っていた・・・声に、さっきの沈んだ響きが、まだ少し残っていた
「何か寒くなってきちゃった~~」
香織は、俺に密着しようとしたが・・・
「あっ・・・ごめんなさい」
直ぐに、俺から距離を置いた
その瞬間、俺の腕が、微かに、動きそうになった
自然に、香織の肩に手を回してやろうとした、そういう動き方だった
慌てて、その動きを止めた・・・何をしようとしたんだ・・・俺は・・・
後頭部が、冷や汗で、湿った
その後は、お違いに何も話さず、ただ“洞窟”を歩いていただけであった
黄金柱の前で、俺は立ち止まった
何十万年分の、水の一滴一滴が、積み上がってこの柱になった
聡子と過ごした十数年も、多分、似たようなものだったのだろう
毎日の、取るに足らない一滴一滴
朝の味噌汁夜のドライブドライブ先の「道の駅」で買ったキュウリ一本
積み重なって、気付いた時には、もう、動かせない柱になっていた
それが、聡子と俺の、夫婦という形だった・・・
香織と俺の間にある「何か」は、そういう柱ではない・・・
まだ、一滴目の水が落ちたばかりだ・・・落ち始めたばかりの水を、柱にしてはいけない・・・この旅が終われば、蒸発する筈の・・・ただの水だ
・・・そう、俺は自分に言い聞かせた
流石に、香織と距離を置いてしまったのがいけなかったのか
この日の“思い出”の場所である、秋吉台での散策
香織の事が一杯で、聡子の事を思い出す事が出来なかった・・・

地上に戻り、カルスト展望台から、台地を見渡した
羊の群れのように、無数の石灰岩が、緑の草原の上に転がっている八月の残り暑さの中で、石灰岩の白だけが、やけに鮮明に目に刺さる
聡子と来た時は、秋だった草紅葉と呼ばれる、赤く染まったチガヤの群落が、夕日に光っていた
今日は、ちぐはぐだった
夏の秋吉台は、俺の記憶の中の秋吉台ではなかった・・・
聡子が
『綺麗ね』
と言ってくれないと、この風景は、俺の中で完成しないのだった
仕方がない・・・一刻も早く、香織を“長崎”の実家に送り届け、独り・・・いや“聡子と一緒”に“思い出の場所”を巡って行こう
その後、博多へ向かい、そこで宿を取った
秋吉台から博多まで、中国自動車道から関門橋を渡り、九州自動車道を経て、約三時間
お互いに、終始無言だった・・・
バックミラーに映る香織は、窓の外を見ていた
何度か、何か言おうとして、口を開きかけて、また閉じた
下を向いて、落ち込んでいる香織を見ると・・・贖罪感一杯だった
一緒に夕食を取る為に、香織の部屋を訪ね、扉をノックして、
「香織・・・一緒に、飯を食べに行こう」
と、誘ったが、扉を少し開き、香織が顔を出してきて、
「・・・いらない」
と、小声で言った後、扉を閉めた
扉が閉まった瞬間、俺は、その場でしばらく動けなかった
自分の部屋に戻って、机の上のダウンジャケットを見下ろした
「聡子・・・俺、あの娘、怒らせたよ」
つい、声に出して言ってしまった
「お前がいたら、多分、こんな風にはならなかったよな」
「お前、あの娘の事、どう思ってたかな」
骨壺は、黙っていた
相当、俺が距離を置いた事に、余程ショックを受けているのだな
仕方なく、独りで博多の繁華街に赴き、夕食を取った
中洲の屋台で、豚骨ラーメンの湯気を眺めながら、俺はビールを飲んだ
隣の屋台では、若いカップルが、もつ煮をつつき合って、笑っていた
聡子なら、こういう屋台でも、小さな声で
『美味しいわね』
と言ってくれただろう・・・ビールは、味がしなかった

次の朝、朝食がてらにチェックアウトした時、受付の人から、“一通のメモ”が渡されたのである
「あの馬鹿・・・一体何を考えてるんだ」
香織は、俺に何の連絡もせず“メモ”だけ残して、先にチェックアウトして、何処かに行ってしまったのである
メモには、乱暴な字で、こう書かれていた
《いままでありがとうあとは自分で行きます探さないで香織》
俺は、その場で、メモを握りつぶしそうになった
握りつぶして、手のひらが震えた
・・・香織
あの「道の駅」で、柄の悪い男に連れ去られそうになっていた・・・この娘
自殺する勇気がなかったから、そのまま生きている、と言った・・・この娘
一人で、九州の国道に立つつもりか
俺は、その香織の後を追い、受付から“香織に行き先”を聞いた
博多から長崎寄りで近い「道の駅」を目指し、車を走らせていた
助手席のダウンジャケットに、話しかける余裕もなかった
カーナビの画面を睨み、赤信号のたびに、爪がハンドルを噛んだ
あの「道の駅」みたいに、洒落にならない相手に捕まると、どうなる事くらい分かるだろ
・・・何とか間に合ってくれ!!
最初の「道の駅」を見つけたのが、俺で良かった
次の「道の駅」で、香織を見つけるのが、俺以外の誰かだったら・・・そう考えただけで、胃の奥が冷えた
・・・・・
やっと、その「道の駅」に着いた時、ちょうど、“長崎まで”のプラカードを持って、ヒッチハイクをしていた香織の姿が見えた
遠目から、その小さな背中を見た瞬間、俺は、不意に、あの最初の「道の駅」の光景が重なった
同じプラカード同じリュック同じ、背中を丸めた小さなシルエット
けれど、決定的に違うものがあった
最初の「道の駅」では、香織は、俺の知らない他人だった・・・
今、目の前にいる香織は、もう他人ではない
俺は、急いで駐車場に車を留めた
エンジンを切るのももどかしく、車を降りた
「香織!!何を勝手に出ていったんだ」
と、叫びながら、ヒッチハイクをしている香織の元へ駆けつけた
香織、俺の姿を見て驚いていたが、直ぐに怒りを表し、
「メモに“探さないで”って書いてあったのに、何であたしを探したの」
と、怒鳴られたので、俺も、怒りながら、
「君に何かあったらどうするんだ!!心配で堪らなかったぞ」
と、叱りつけた
心配で堪らなかった、と、俺は口にした・・・
口にしてから、はっとした
これは、聡子に対してしか使った事のない種類の言葉だった・・・
香織は、怒りと悲しみに似た面持ちで
「もう・・・ほっといてよ!!・・・あたしでは“聡子さん”の代わりにならなかったんでしょ!!」
と、叫ばれた
「・・・」
俺は、何も言えなかった
最初は、性格や姿の違いで、意識出来なかったものの、徐々に香織を“聡子”と意識でき、より鮮明に“思い出す”ことが出来た
『秋吉台』の時、香織との距離を置いた事により、それが“確実”だったことが分かった
香織が、俺の腕から離れただけで、俺は、聡子の事を思い出せなくなった
そのくらい、俺は、香織を媒介にして、聡子を呼び戻していた
それに気付いたのは、今、この瞬間だった・・・
それに、自ら志願し、俺の為に尽くしてくれた香織の気持ちを足蹴にしてしまったのである
俺は、香織に頭を下げ・・・
「香織!!俺が悪かった・・・“聡子”の代わりになる事を承諾しながら、君を無碍にしてしまった・・・本当に申し訳の無い事をしてしまった」
と、自分の過失を心の底から認め謝罪した
その後、もう叶わないとは分かっているが
「俺が頼める立場では無いが、もう一度、“聡子”の代わりになって欲しい・・・君と一緒に“思い出の場所”に行くと鮮明に“聡子との思い出”が現れるんだ」
と、今度は、俺から“聡子の代わり”を懇願した
頭を下げながら、俺は、気付いていた
これは、“聡子の代わり”を頼んでいるようで、そうではない・・・“香織”を、手放さない為の、口実だった
香織は、俺の頼みにキョトンとした後
「ふん!!」
と、鼻で笑い、
「やっぱり、あたしがいないと“聡子さんとの思い出”出来ないのね・・・分かったわ、“長崎の実家”まで、“聡子さんの代わり”になったあげるよ」
と、大きな態度で承諾しよった
・・・やっぱり香織の事、心配と懇願をしない方が良かったのか、悩んでしまった
いや、違う
悩んでいないなら、最初から、博多で見捨てていただろう・・・
だから、俺は、見捨てなかった・・・あの時、香織を置いて去るという選択肢は、俺の中には無かった・・・それが、答えだった

その後、聡子とよく行っていた、大分県の『湯布院温泉』へと走らせていった
福岡から大分へ・・・九州の山地を横断する、大分自動車道
窓の外の景色が、博多の都市から、少しずつ山深い田園に変わっていく
別府湾を過ぎ、湯布院ICを降りると、正面に、雄大な双耳峰が姿を現す由布岳・・・標高一五八四メートルふたつの頂を持つその美しい姿から「豊後富士」と呼ばれ、『古事記』や『万葉集』にもその名が記される信仰の山だ
湯布院温泉は、湧出量全国二位、源泉数およそ九〇〇と、別府に次ぐ規模を誇る九州屈指の温泉地でありながら、歓楽街の無い静かな温泉地として知られる
昭和四十年代から、町ぐるみで歓楽色を排し、「女性が訪れたくなる温泉地」を目指して整備されてきた
目抜き通りの「湯の坪街道」は、由布岳を正面に望みながら、八〇〇メートルほどのなだらかな道に、土産物屋とカフェと工房が並ぶその通りを抜けると、金鱗湖
湖底から清水と温泉が湧き出ているため、年中水温が高く、秋から冬の早朝には、湖面から白い湯気が立ち上る朝霧の名所でもある
・・・・・
『湯布院温泉』への道中、俺の車の車内で、香織は後部座席から、運転席と助手席の間の空間に、身を乗り出し、
「あたし・・・聡子さんの“生い立ち”聞きたいなあ~~」
と、話しかけて来た
「それ、言いたくはないと、前に言っただろ」
と、断ると、香織の奴、口を尖らせながら、
「それだと、あたし“聡子さん”になりきれないよ~~」
と、言い返してきた
ここで、“聡子の生い立ち”の話を断ると、折角、香織が俺の為に“聡子の代わり”になってくれたことに泥を塗る事になる
俺は、助手席の“聡子の骨壺”に手を置き、
(聡子、悪い・・・香織の気持ちを壊すわけには行かない・・・許してくれ)
心の中で“聡子”に謝罪した後、聡子の生い立ちについて、香織に語っていった
「聡子は、優しくて、ほわっとした雰囲気の持った、あまり欲の無い静かな女性だった
聡子は、長崎市の○○山の視える処の家で誕生したんだ・・・しかも、ある金持ちの愛人の子供としてな・・・
相手が金持ちのお陰か、金銭的な苦労は無かったみたいだが、家に帰ると母親から折檻と家事でこき使われ、学校へ行くと同級生たちに、愛人の子供と言う事で“いじめ”られてたんだ
それでも、聡子は、それらをものともせず、自分なりに誠実な行動を貫いてたんだ
そんな生い立ちを、聡子から聞いた時は、俺・・・孤児だったが、それなりに幸せだったんだなと感じたよ
それから、大阪の大学に進学したと同時に、家を出て行き自立を始めたんだ
大学時代は、地味で勉学とアルバイトに励んでいた為、大した友達も作らなかったそうだ
その勉学が功を奏したのか、一流企業に就職し、地道にキャリアを積み、若くして同期の中で一番早く出世したんだ
聡子にとっては一番ノリに乗った時期だっただろうな・・・本人曰く“私はそんなに望んでなかったのに”と言ってたな
俺以外にそれを言うと“嫌味”としか聞こえないが、あまり欲の無い聡子にしてみれば、有難迷惑だろう
そんな時、取引先の企業の御曹司から、結婚前提の交際を申し込まれて、その御曹司が“誠実”な男性と周りの評判が良いと聞いたので、承諾し付き合い始めた
そこからだ・・・聡子が自殺しようとした切っ掛けとなったのは・・・
その御曹司・・・初めの頃は“誠実”な態度で接してくれたが、徐々に高圧的な態度になって行き、何か過失を見つけては、ネチネチと責めたてマウントをとっていた
仕舞いには、聡子自身“何をやっても駄目な人間なんだ”、“相手の言う事には間違いない”と思わされる程、モラハラを喰らってたんだ
もう、その御曹司に暴言を吐かれては我慢し、無茶な要望にも無理に対応してしまう毎日を送っていた
神経が参っていたのだろう・・・その御曹司の言われた言葉を直ぐに忘れる為、“メモ”や“ボイスレコーダ”に記録をしていたんだ・・・それが後に役にたったのだがな
そんな時、聡子自身が自殺を決定つける出来事が起こったんだ
その御曹司、事もあろうか・・・自分の元請け会社の経営者の令嬢と結婚すると告白をしてきたんだ
そんな事は、聡子にとってはどうでも良かった・・・そのモラハラ男と別れて、やっと解放出来ると思ったみたいだ
そしたら・・・何と“俺の愛人”になれと言い出したんだよ
自分の母親も“愛人”だった・・・今度は、自分自身が“愛人”になれだと
冗談ではない!!これほどの屈辱はない!!自分の存在を否定された位だ!!
自分の存在を否定するなら、一層、死のうと、何時のまにか、縄を用意して、自分の部屋で自殺を図ろうとしたんだ
そんな時に、呑気に酔っていた俺が部屋を間違えたお陰で、自殺を止めたって訳だ・・・
俺に自殺を止められ、暫く放心状態だったが、大分落ち着いたのか・・・
『私は・・・今まで一体何をしたかったの・・・あんな奴の為に自殺だなんて馬鹿じゃない』
と、今までの自分自身が情けなくなって、自分の事、笑ってたんだそうだ
自殺を止めた次の朝、勤務先で、その御曹司に会って、決別の意思を伝えたようだ
自殺を止めてくれた見ず知らずの男性に、お礼をしたいが、何とか探し出せないか模索しながら帰宅したら、自分の部屋の前に俺がいて、“お礼に食事を・・・”と言おうとしたら
俺の方から先に謝られて、食事の誘いを受けたので、そのまま承諾し一緒に食事をしたんだ
あとは、前に話した通りだ・・・」
と、粗方、香織に語りかけていた
語りながら、俺は、聡子の母親について、ふと思い出していた・・・
母親も、“愛人”だったと聞いた時、聡子は、どんな顔をして、長崎の家を出たのだろう
多分、泣かなかっただろう聡子は、一番辛い時ほど、泣かない人だった・・・
聡子にとっての故郷は、愛情の源ではなく、傷の源だったのかもしれない・・・
その長崎に、俺は今、聡子の骨を納めに行こうとしている・・・本当に、これで良いのか?
疑問は、再び、俺の胸の奥で小さく芽生えた・・・
今まで、神妙に聞いていた、香織は、急に泣き出し
「聡子さん・・・辛かったね~~~でも、強く生きてくれて良かったね~~」
と、これでもかって位“わんわん”泣いていた
これだけ、同情してくれていたら、聡子も“納得”してくれるだろうと思い、泣きじゃくる香織を放置し、そのまま『湯布院温泉』へと向かった

やっと、『湯布院温泉』に着いた
湯の坪街道には、平日の夕方にも関わらず、観光客の姿が多かった
由布岳の輪郭が、夏の夕日に赤く染まって、湯の坪街道の向こうに浮かんでいる
聡子と来た時は、冬だった由布岳の頂は、白い雪を被っていて、その麓の町だけが、朝霧にすっぽりと包まれていた
あの朝霧の中を、聡子と二人、白い息を吐きながら歩いた
『まるで、雲の中にいるみたいね』
そう言って、聡子は、嬉しそうに、手袋をした手で俺の袖を掴んだ
ビジネスホテルばかり宿泊をしていたので、今度は“温泉旅館”に泊まってゆっくりしようと思い
泊まれる“温泉旅館”を探していたが、人気の温泉街の為か、平日にも関わらず、何処も“満員”だった
由布岳の見える宿、朝霧の見える宿、露天風呂付きの離れ・・・選りすぐりの湯布院の宿は、軒並み断られた
最後に、ただ一つ泊まれる“温泉旅館”を見つけたが・・・部屋が一つしかなかった
「これでは、香織と一緒の部屋になってしまう・・・」
別に、“温泉旅館”に泊まらなくても、“温泉”に入れるので、ビジネスホテルの方を探そうとしたら
「あたし、伴憲さんと一緒の部屋がいいな~~~」
と、香織が口惜しそうに、宣ってきよった
「あの~~~俺ら“恋人”どうしでは無いのだけど」
と、言い返したら
「そうなの?・・・あたし、貴方の妻の“聡子”だよ」
と、痛い所を突かれたため、諦めて、その一つの部屋を取る事にした
・・・本当に、部屋が一つしかなかったのか
俺は、フロントに立ちながら、自問した・・・
もっと粘れば、離れた温泉街で、ビジネスホテルを見つけられたはずだ
なのに・・・俺は、香織の
「あたし、貴方の妻の“聡子”だよ」
という一言で、簡単に折れた
多分、俺は、折れたかったのだ・・・
聡子ではない娘と、同じ部屋に泊まる、という“理由”が欲しかった
自分では認めたくなかったが、認めざるを得ない事だった
和式の部屋へと案内されると、畳の上に、布団を並べて敷くための広い空間が広がっていた
窓の外には、庭の小さな池と、その向こうに、由布岳の裾野の緑が見えた
夕暮れの残りの光が、畳に斜めに差し込み、部屋全体が、柔らかい橙色に染まっていた
香織は、はしゃぎながら
「わ~~いいね~~温泉街って、情緒があって~」
旅館の窓から見える、温泉街の様子を見ていた
俺は、そのまま、浴衣とタオルを持ち、
「先に、温泉に入っとくよ」
部屋を出ようとしたら、
「あ~~あたしも一緒に行く」
急いで、身支度をし、俺と一緒に、温泉の方へと向かった
温泉街を歩く、俺と香織・・・流石にリュックがあっても“聡子の骨壺”を持ち歩けないため、本当に“二人”だけの散策となった
夕方の湯の坪街道は、昼間とは違う表情を見せる
観光客が一段落し、石畳の道に、灯籠の明かりが灯り始める
どこかの旅館の厨房から、焼き魚の匂いが流れてきた
香織の奴、俺の腕に自分の胸を押し付けるくらい、俺に密着し、鼻歌を歌いながら歩いていた
「密着し過ぎだ・・・もうちょっと控えてくれないか」
と、宥めると、香織、にこっとしながら、
「聡子さんもこれくらい、密着してたでしょ~」
俺をからかう様に、余計に胸を押し付けて来やがった
このやろ・・・調子に乗りやがって・・・と、怒りながらも・・・
聡子と、この温泉街を散策していた事を懐かしんでいた
聡子は、冬の湯布院で、俺の腕にしがみついて
『寒いわ・・・』
と言いながら、本当は、寒さだけが理由ではなかった事を・・・俺は思い出していた
共同湯の隣を通り抜け、金鱗湖のほとりまで歩いた
湖の水は、暗い青色に沈み、鯉が時折、水面を揺らす
聡子と、ここのベンチに並んで座ったのを覚えている
あの時、聡子は
『ここが、私の一番好きな場所』
と、静かに言った・・・理由は、聞かなかった
今となっては、聞いておけば良かったと思った・・・
その後、泊まる部屋で、この地域の名産の豪華な料理に舌鼓を打った
大分名物の豊後牛、由布院の野菜、別府湾の鯛・・・一つ一つの小鉢が、丁寧に整えられている料理を運んでくれた仲居さんは、少し方言の混じった言葉で
「ごゆっくりなさってください」
と微笑んで下がった
久しぶりに、窓の側にある椅子に座り景色を見ながら、ゆったりと寛いだ
夜の由布岳は、闇の中に、黒い影として聳えている
星が、一つ、二つと、山の稜線の上に出始めていた
夜遅く、俺と香織は、布団は二つだが、一つの部屋で寝る事となった
香織の布団と、俺の布団の間には、畳一畳分の隙間があった
それが、俺たちに許された、最後の距離だった
暫くしてから眠っていると、香織が、俺の布団に入って来て
「聡子さんと思って、あたしを抱いて・・・」
と、顔を赤らめながら、俺の身体に纏わりついてきた
俺は、一瞬何が起こったのか分からず、フリーズしていた

第4話へ・・・
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