「損を避ける人」は「夢中で走る人」に勝てない
7月、「午前十時の映画祭」で映画を鑑賞した際、スタンプラリーカードを貰った。1年間で25作品を上映するらしい。スタンプを貯めると特典があるようだが、普段そういった類のものはすぐに処分してしまう。往年の名作映画を集めた映画祭のターゲットは、おそらく高齢者層。よってスタンプカードもアナログだ。紙のカードに25作品がずらりと印字されている。なんとなく気になり、捨てずにタイトルを眺めていた。
8月に入り、また古い映画が観たくなった。「カプリコン・1」。知らない映画だ。
映画『カプリコン・1』は、有人火星探査船の故障を隠すため、国家が火星着陸の映像を砂漠のセットで完全捏造したことから始まる。
真実を知ってしまった宇宙飛行士たちが暗殺の危機から決死の逃亡を図り、新聞記者が陰謀を暴こうと奔走するサスペンス映画。
私のリアル・ドタバタ劇開幕
「午前十時の映画祭」で「カプリコン・1」を鑑賞するべく、前夜にオンラインでチケットを購入した。逆算して電車の時刻も確認、万全の体制だったのに。
あろうことか、その電車に乗らず、ポッカーーンとホームで見送った私。
次の電車(上映開始の8分前着予定)に乗り込むも、なぜか私は映画館のある駅より、1駅手前で降車してしまった。
次の電車に乗るが、すでに映画は始まっている。
もつれる足で映画館に到着。
オンラインチケットの発券機の前で、「QRコードの載ったメールがない!」と顔面蒼白になった。
なぜか私の頭は「チケットは今朝買った」という記憶にすり替わってしまったのだ。
即座に、私の脳内で、決済し忘れたという事実が捏造された。ホッとする間もなく、「チケット購入終了予告」の声が掛かる。焦り震える指でようやくシニアチケットを購入できた。
映画はすでに本編が始まっていたが、ストーリーは予習済。難なくストーリーにストンと入ることができた。めでたし…。
が、しかし。
上映中、昨夜にチケットを買った記憶が蘇る。
映画を横目で見つつも、昨夜の記憶が頭を掠めて集中できない。
映画が終わってからにしよう、となんとか自分をなだめた。
それにしても、「コイツに絶対映画を見せてはならぬ」という、見えない誰かの意志が働いたとしか思えない惨劇の連続。
私の背後の幽霊たちの仕業なら許せる。
ハリウッドの無駄遣い炸裂
前回観た「A.I.」もそうだが、古いハリウッド映画は破壊シーンが派手すぎる。
「カプリコン・1」は日本では1977年公開。
CGはまだなく、本物のヘリコプターをブンブン飛ばし、広大な砂漠でド派手なヘリチェイスを繰り広げる贅沢さよ。
主役を助ける新聞記者(主役ではない)が、口封じのために車に細工をされて命を落としそうになるシーンでも、長尺のカースタントが延々続く。
金と手間を惜しみなく注ぎ込んだドタバタ感は、今のVFX全盛の映画では絶対に味わえない醍醐味だ。
複葉機での農薬散布スタントなんて、今考えると狂気の沙汰だ。
そういえば昔のハリウッド映画って、車を◯◯台潰しました!という自慢のオンパーレドだったような…。そりゃ、全米も泣くよね。
感性を鈍らせるな!
映画を観終え、出口に向かって歩いていると、客席から、
「あ〜〜最高!! おもしろかったな〜」
という、オーバー60歳と思しき男性2名の声がした。
その、心の底からの感嘆の声に、ハッとした。
いつから私は気取り屋になったんだ!
ハリウッドの無駄遣い、などと言っているが、私だって若い頃はハリウッド映画でスカッとしていたクチではなかったか。
友人に「ハリウッド映画は観ない」というインテリ系がいたが、
(まあまあ、そう固いこと言わないで)という気持ちが強かった。
「難解で芸術的な映画をほめる方がカッコいい」
「大作ハリウッド映画はベタで大衆的」
そんな映画ツウ気取りの空気がたしかにあった。
現代のVFX(CG)は、どんな映像でも作れるのだろうが、どこか画面がのっぺりしていて奥行きが感じられない。
一方、1970〜80年代の実写ハリウッドは、本物の金属がぶつかり、本物の砂埃が舞い、本物の火薬が弾けた。
命がけで撮影しているスタントマンや、ギリギリを攻めるパイロットの生々しい技術が、そのまま画面に映っている。
年齢を重ねてから観ると、若い時のように素直に「凄い!」と圧倒されるのではなく、
「いくら無駄遣いしたの?」とついつい呆れてしまう。これ、私の感性が錆びついたってこと?
場内が明るくなっても、まだ客席に座りこんでいた2名の男性は、純粋に、
「あー!面白かった!スカッとした!」
と思い、心の底から楽しみ、余韻に浸っていた。
そう思わせてくれるエンタメって、実はものすごく贅沢なものではないだろうか?
と、映画館を後にしながら思った。
無駄遣いなんて言わずに、もっと素直になってみようよ!と思った。
私も次回から、古い時代の実写の凄みをド直球で楽しもうかな。
「素直に楽しむ」ことを、思い出させてくれた同世代の男性達に感謝だ。
アメリカ国民の意欲低下
さてさて、映画本編について。
映画「カプリコン・1」のなかで「国民の意欲低下」を問題視する発言が目立った。
日本公開から遡ること2年前の1975年。
アメリカ合衆国はベトナム戦争で負けた。
この敗戦色が濃かった時代、アメリカは歴史的に打ちのめされていた時期でもあった。
私が説明するまでもないが、アメリカにとって、ベトナム戦争は、泥沼化の末に敗北し、若者の命が失われ、アメリカ国家の「正義」や「強いアメリカ」という自信が完全に崩壊した。
映画「カプリコン・1」の中で、NASA高官のケロウェイ博士が、3人の宇宙飛行士に火星着陸の捏造を迫る際、
「失敗したら予算を全部削られる!」
「国民に夢と自尊心を与えるために、このウソが必要なんだ!」
と熱弁するシーンがあった。
あのセリフは、当時のアメリカ社会が抱えていた敗北感、意欲低下、国家への不信感という生々しいリアルをそのまま反映したものだった。
そもそも宇宙開発って・・・
3人の宇宙飛行士の妻たちが、火星にいる夫たちと交信するシーンがある。
もちろん宇宙飛行士たちは、有人火星宇宙船カプリコン1号には乗っていない。
「火星」はスタジオのセットであり、宇宙飛行士たちは、家族の命と引き換えに茶番劇を演じるよう脅されていたのだ。
主人公の宇宙飛行士の妻は、幼い息子の作文を読む。
「僕のお父さんは、誰かがやらなくてはならない立派な仕事をしている」と。
宇宙開発って、誰かがやらなくてはいけないこと?と、疑問に思った瞬間、思い出した。
私が子供の頃、
「いずれ地球の人口は爆発して、人類が滅びる!」という思想があった。
1972年、ローマクラブという研究組織が、
「このまま人口が増え続ければ、100年以内に地球の資源と食糧は底をつき、人類は崩壊する」
という報告書で、世界中に大きなショックを与えたのだ。
映画『ソイレント・グリーン』(1973年)は、人口が増えすぎて食糧難になり、住む場所もなくなった絶望的な未来を描いたSF映画だ。
1976年、ジェラード・オニール博士のスペースコロニー構想。
「地球に入りきらないなら、宇宙に巨大なシリンダーを浮かべてそこに人が住めばいい」
『機動戦士ガンダム』などの世界観の元にもなっているそうだ。
また日本では、1970年代前半に連載された、楳図かずおの『漂流教室』がある。
小学生の頃、夢中になって読んだなあ。
環境汚染や文明の暴走による、人類の滅亡と警告を描いたSF漫画だ。
人口爆発や食糧難だけに特化した話ではないのだが、「地球がダメなら宇宙」じゃなくて、
「この地球でなんとか頑張ろうよ」というメッセージが込められているような気がしてならない。
「人類が増えすぎるから、生き残るために宇宙へ進出するんだ」というのが、当時、宇宙開発を正当化する最大のテーマの一つだったそうだ。
生まれたときから少子高齢化が謳われている世代には、そんな時代があったことは驚きではなかろうか。
そもそも、「人口爆発」と「人生百年時代」って、なんだか似ていませんか?
予測を現実としていつの間にかすり替えて、思い込ませるやり口…。誰が得をしているのだろうか。
人口減少、誰が予測できた?
日本や欧米では、ちょうど1970年代半ばから出生率が減り始めていたことに、今更ながら驚かされる。人口爆発を危惧しながら、人口減少が始まっていたとは…。
そして、日本が、
「これはまずいぞ!日本から人がいなくなる…!」と本格的に青ざめたのは1990年(平成2年)。
出生率の低下だけでなく、いよいよ、日本の総人口が減り始めたのが2008年。
リーマン・ショックの年だ。
なぜアメリカは人口減少に陥らなかったのか?
実は、アメリカの出生率は、日本より一足早く人口維持ライン(2.1)を割り込んでいたそうだ。
にもかかわらず、なぜアメリカは日本のように人口減少に陥らなかったのか?
それは、ご存知、移民を受け入れたから。
アメリカは1965年に移民法を改正している。
それにより、1970年代以降、ヒスパニック系やアジアから、若くて子供をたくさん産む世代の移民が爆発的に流入した。
白人層の出生率が下がっても、若い移民たちが家庭を持ち、子供を産んだことで、国全体の出生率は1980年代半ばから1990年代にかけて、ほぼ2.0前後(人口が減らない絶妙なライン)まで持ち直した。
こうしてアメリカは、自国の出生率低下を若い移民の流入で相殺し続け、人口を増やし続けることができた。
アメリカも少子化の波へ
ところが、そのアメリカも2008年の金融危機を境に、出生率は再び急降下。現在は1.6前後まで落ち込み、過去最低レベルを更新し続けている。
頼みの綱、移民はどうしたの?
かつて、子供をたくさん産んでいたヒスパニック系移民の世代交代が進み、アメリカ化(高学歴化・生活コスト上昇)したことで、移民の出生率も急低下している。
現在のアメリカでは、「移民受け入れの賛否」をめぐる政治的対立が激化しているが、移民が入ってこなくなったら、アメリカも日本と同じように急速に高齢化して縮小していく、という強い危機感を抱えているのが現状。
1970年代の人口爆発の恐怖から始まり、移民で持ちこたえたアメリカも、結局は半世紀を経て日本と同じ「少子化」という壁にぶつかっているところが興味深い。遅かれ早かれ、結末は一緒だったということか…。
日本の「実質的な移民政策」はもう始まっている
移民がいなければ、アメリカも日本と同じ道を辿っていた、ということがわかった。
そしていま、少子化という問題にも直面している。
なぜ、日本が、世界ダントツ1位で少子高齢化が突き進んでいるのか?
その最大の理由は、少子化が進む中で、アメリカや欧州のように移民を大規模に受け入れる選択をしてこなかったからだ。
最近、家の近所でも外国人ファミリーを多く見かける。昔は外国人の若者は、単身で働いたり学んだりしていた印象があった。
ファミリー層の彼らは、自国にいる家族を呼び寄せたのだろうか?
それとも、日本で世帯を持ち、日本で生まれた子供たちが大きくなった、ということなのだろうか?
日本政府は、政治的な反発を恐れて「移民政策」という言葉を頑なに使わない。
現実には、「特定技能」や「技能実習」といった制度を通じて、事実上の受け入れを大幅に拡大している。
現在、日本で働く外国人労働者は過去最高の200万人を突破しているそうだ。
コンビニ、物流、外食、農業、大企業の社食まで、彼ら・彼女らの労働力なしには日本のインフラが1日も回らないのが偽らざる現状だそうだ。
ガッツが見えにくい日本人とトランプ現象の正体
コンビニで、頭の回転が早くて、機転が利き、笑顔の素敵なアジア系外国人女性の接客を受けたことがある。
同じ店内のもう一つのレジには、おそらく日本人の若い男性がいたが、お世辞にも褒められた対応ではなかった。
とある動画で、日本の企業で働く、ガッツのある若いアジア人女性を見た。
「何としてでも技術を身につけて、良いポジションを得て稼ぐんだ!」
という、ハングリー精神をまざまざと見せつけられて、もう私などは出る幕がない。
これは、私の世代よりも上の世代、高度経済成長期の日本人が持っていた熱量そのものではないだろうか。
日本の若い世代は、深刻な人手不足のおかげで、
「必死に這い上がらなくても、そこそこの仕事が見つかる」環境にいる。
一方、東南アジアなどから来る若者は
「人生を一発逆転させる」
「母国の家族に仕送りをする」
といった、強い切迫感を持って来日しているのではないだろうか。
この、移民たちの持つハングリー精神が引き起こしている摩擦は、実は海の向こうでも大きなうねりを生んでいた。
トランプ大統領が、第1期政権で熱狂的な支持を集めた背景には、この問題があった。
「ハングリーで低賃金でも猛烈に働く移民が大量に入ってくると、特にブルーカラー層のアメリカ人の仕事が奪われ、給料が上がらなくなる」
トランプ氏は「アメリカ人の雇用と生活を守る」という名目で、国境の壁を主張し、労働者層の支持を爆発させた。
日本の現場でも、まさにいま同じ構図が起きつつある。
「日本人がやりたがらない仕事」を外国人労働者が埋めてくれている感謝がある一方で、意欲とスキルの高い彼らがどんどんステップアップし、ぬるま湯に浸かった日本人が淘汰されていく……。
簡単に想像できてしまう未来予想図、少し怖いくらいだ。
日本社会が抱える構造的な病理の核心
最近、朝の通勤電車でのアナウンスに笑った。
「具合が悪ければ、我慢をせずに電車を降りましょう。」
「万全な体調ではない日は、電車に乗るのはお控えください」
「この先、次の駅に到着するまで10分以上かかります。いま、少しでも体調がすぐれない方は、無理をせずに降りましょう」
優しいアナウンスだ。
でも、これ。
言いたいことの本質は、
『大勢に迷惑をかける前に、おまえ降りろ』だ。
それにしても、急病人発生による電車の遅延が増え続けている。
誰かが倒れ、乗客もどこか冷めた顔でそれを見送る。
自虐的に自分の事を「社畜」と笑うか、心が折れて病んでしまうか。
そんな極端な二択しかないような空気感は、本当に息が詰まる。
どうしたら日本人に「やる気」「ガッツ」が蘇るのだろうか?
「社畜と自虐する」
「病む」
「倒れる」
これらの負のループを断ち切り、人が活気を取り戻すには、どうしたらいいのだろうか。
①「減点主義」から「加点主義」への転換
日本の職場の多くは、「ミスをしないことが満点」という減点主義だ。
これでは、「怒られないように最低限の力でやり過ごす」のが最も賢い生き方になってしまい、誰もチャレンジしない。
「新しい工夫をした」
「他人のフォローをした」
といったポジティブな貢献(加点)がしっかり評価される仕組みが必要。
※加点が評価される職場で働いたことがあるが、たしかに皆異様にポジティブだったことを思い出す。
②「自己決定権」を取り戻す
人間が最もやる気を出すのは、
「自分のやり方で工夫していい」と裁量を与えられたときだそうだ。
「自発的に練習して試せる場」があれば、熱量が生まれる。
ガチガチの指示とマニュアルで縛り、数字だけで監視する環境では、どんな人でもやる気の芽が摘まれてしまう。
③「頑張ったら自分に返ってくる」実感
どれだけ効率を上げても、成果を出しても、得られる報酬や対価が何も変わらなければ、
「頑張るだけ損」になるのは当然だ。
・チームの底上げに貢献したら、インセンティブがある。
・スキルの向上に比例して待遇が上がる
という、健全な人間味のある還元が不可欠。
そもそも、
「みんなで助け合ってスキルアップしていこう」という発想は、決して甘えではなく、最も持続可能で、チーム全体の生産性を高める正攻法だと思う。
その当たり前の優しさや協調性が、効率主義という名のもとに削ぎ落とされてしまっていることこそが、日本社会が抱える構造的な病理の核心ではないだろうか。
「損をしたくない」という罠
今の社会で持て囃される「コスパ」や「タイパ」という言葉の根底にあるのは、まさに、
「絶対に損をしたくない」
「損をするくらいなら最初から頑張らない」
という強い防衛本能の表れだと思う。
一生懸命やって報われなかったら「損」
会社に尽くして買い叩かれたら「損」
バカを見て傷つくくらいなら、6割くらいの力で適当にこなすのが「賢い生き方」
いつの間にか社会全体が、
「どうやって成果を出すか」ではなく、
「どうやって損を避けるか」ばかりを競うようになってしまっている。
がむしゃらに100点を目指すより、60点を目指す人のほうが賢いとまで言われる始末…。
「損を避ける人」は、「夢中で走る人」に勝てない
母が認知症と診断されたあと、ふと、言ったのだ。
「損をしたくない。今の人ってそれだけなんでしょ」
脈絡もなく、急にそう言った。
私は、言い得て妙だな、と思った。
一生懸命働くのは損。
余力を残してそこそこ働いた方がコスパがいい。でも、口にこそ出さなかったが、
「コスパ至上主義だから仕方がない。だってもう、世界は実写からVFXなんだよ」
と内心思った。
でも、きっと「損をしないこと」を最優先にしている人は、何かを掴もうと必死に走っている人には、絶対に勝てないんだと思う。
ハングリー精神しかないアジア系女性
かつての日本を支えた世代
休まず正確に動き続けるロボット
彼らの頭の中には、
「損をしたらどうしよう」という予防線はなく、
「どうやって上手くなるか」
「どうやって成果を出すか」
という、足し算の熱量しかないはず。
「損をしない器用な生き方」を選んだ結果、気付けば情熱も技術も失い、居場所すら奪われていく。
それこそが、実は最も大きな「損」なのかもしれない。
一生懸命に汗を流し、泥臭く時代を生き抜いてきた世代の母だったからこそ、現代の冷めた「省エネ主義」の危うさがハッキリと見えていたのかもしれない。
作り置きをやめた
私自身に落とし込んだ話をしたいと思う。
「日本社会が抱える構造的な病理の核心」の①②③は、現在の職場で何度も提案をしているが、一度も意見が通ったことがない。以上。
ところで、最近私は作り置きをやめた。
やっぱり料理って、ライブだよね、熱量だよね、勢いだよねって思い直したので。
効率重視の作り置きは、頭で考えると合理的で失敗がなく、損もしない。
でも、そこに決定的に欠けているのが熱量だ。
作り置きは、あらかじめ1週間分を計算し、失敗や損のないように保存しておく。腹は満たされるし、不測の事態にも対応できる安心感はあるが、レンジで温め直した料理は、どうしても作りたての味とは違う。
対して、ライブな料理は、今ここにある食材で、強火で一気に炒める。ジュッと音が鳴って香りが立ち、焦がさないようにハラハラしながら、熱々のうちに頬張る。
その瞬間の火加減に、自分の感覚を100%没入させる快感がある。
つくりおき的な生き方とは、コスパ・効率主義。
対して、ライブな料理の生き方とは、熱量と勢い重視。
損をしないようにあらかじめ無難にパッキングされた人生を消化するより、多少油が跳ねたり焦げたりしても、熱々の勢いのままフライパンを振る人生のほうが、なんだかんだ一番おいしくて面白いと思うのだが、いかがだろうか。
