【インターフォン】#6 創作大賞2026ミステリー小説部門
まだ入社して数か月の陽菜には、寝る間を削っても二日で完成させることなど到底できそうになかった。
結局、その案件は先輩の今川が引き継ぐことになった。
「先輩、すみません。本来なら私がやらなきゃいけない案件なのに……」
「大丈夫、大丈夫」
今川は苦笑しながら手を振る。
「ここだけの話、この会社とは前にもトラブルがあってさ。今回の件、半分嫌がらせみたいなものだから。そんなに落ち込まなくていいよ」
そう言った後、陽菜の気持ちに寄り添うように、今川は励ましてくれた。
「中村さんの資料、すごく良かったから相手側も下手にクレームつけられなかったんだよ。だから、“やっぱり方向性を変えたい”くらいしか言えなかったんだと思う」
そして、安心させるように笑う。
「後は俺に任せて」
今川の言葉に、少しだけ気持ちは軽くなった。
それでも、ふとした瞬間に案件のことが頭をよぎり、そのたびに胸が沈む。
その日の帰り道。
ここ最近は仕事が忙しくて来られていなかったホームセンターへ、久しぶりに立ち寄ることができた。
案件がなくなったことで、時間に余裕ができたのだ。
陽菜はいつものように、インターフォンの販売コーナーへ向かう。
だが、ボタンを押す手はいつもより重かった。
――あんなに喜んでくれたのに、がっかりさせちゃうな。
明るく、別の話をして何でもなかったみたいに、軽く話そう。
そう心に決め、陽菜はインターフォンのボタンを押した。
「ピンポーン」
『……中村さん? 久しぶりね。大丈夫?』
まだ何も話していない。
それなのに、自分の気持ちを見透かしたような言葉に、陽菜は思わず涙が込み上げた。
「あの……この前言ってたCMの案件、私、駄目でした……」
声と一緒に、堪えていた涙まで溢れ出す。
『そう』
吉村さんは柔らかい口調で言った。
『大丈夫。あなたなら大丈夫よ』
不思議だ。
ただ“大丈夫”と言われているだけなのに、胸に重くのしかかっていたものを、一つずつ取り除いてくれるような気がした。
ホームセンターからの帰り道。
吉村さんの言葉を思い返しながら、陽菜も
――私なら大丈夫だ。
そう思えるようになっていた。
仕事が少し落ち着いたある日、綾香から久しぶりに連絡がきた。
『今度休み合うんだけど、ランチ行かない?』
陽菜はすぐに返信を送る。
『行こ! お店予約しとくね。』
今回は昼過ぎの待ち合わせだったため、陽菜は前から気になっていたふわふわパンケーキで人気の店を予約した。
待ち合わせたカフェで再会した綾香は、どこか疲れた顔をしていた。
「夜勤どう?」
陽菜が聞くと、綾香は苦笑する。
「思った以上に大変。患者さんによっては夜中も何回も呼ばれるし」
そこへパンケーキが運ばれてきた。
陽菜はいちごのパンケーキ、綾香はティラミス風パンケーキを頼んでいた。
どちらも3段で今にも倒れてしまいそうなほどに積み上げられ、たっぷりのホイップクリームが添えられている。
「美味しそー!」
思わず声が弾んだ。
“映える”とはこういうことなのだろうと陽菜は初めて思った。
二人は揃ってスマホを取り出し、何枚も写真を撮った。
一口食べると、今までのパンケーキの概念が覆るほどふわふわで、口の中ですぐに溶けてしまう。
三段もあるのに、これなら一人で全部食べられそうだ。
「あー、疲れた体に沁みるー」
綾香はさっきまでの疲れた表情が嘘のように目を輝かせていた。
その姿を見て、陽菜はこの店を選んで正解だったと思った。
「やっぱり夜勤中は寝られないの?」
「全然。特に産婦人科の応援に入った時なんて大変だったよ。赤ちゃんって本当に1、2時間おきに起きるんだからね」
その言葉に、陽菜は思わず吉村さんを思い出した。
「そういえば知り合いも赤ちゃんがいるんだけど、夜も昼も授乳で大変そう。」
「そりゃそうだよ。出産したばかりなんて体もボロボロだし」
綾香は少し真面目な表情になった。
「私、看護師になるまで知らなかったんだけどさ。出産って本当に命がけなんだよ」
陽菜は少し驚く。
「そんなに?」
「うん。今は医療が発達してるけど、それでも命を落とす人はいるし。母親ってすごいなって思う」
早くもパンケーキを食べ終えた綾香は、アイスミルクティーを飲みながら続けた。
「みんな命がけで出産してるのに、自分のことより先に『赤ちゃんは大丈夫ですか?』って聞くんだよ」
陽菜は少し考えてから言った。
「赤ちゃんは可愛いけど、まだ私たちには想像できないね」
綾香は呆れたように笑う。
「まだ相手も見つけてないでしょ」
「それもそうか」
二人は顔を見合わせて笑った。
数日後の昼休み。
スマホを見ると、父から着信が入っていた。
珍しいなと思いながら折り返す。
「もしもし」
『陽菜か?』
「うん、どうしたの?」
父は少し困惑したような声で言った。
『なんか荷物届いたんだけど』
陽菜は思わず笑う。
「あ、届いた?」
『届いたけど、何だよ急に』
「別に。初任給みたいなものだし」
『初任給って二回目の給料じゃなかったか?』
「細かいことはいいの」
父は呆れたように笑った。
『まぁ、ありがとうな』
その声はどこか照れくさそうだった。
「使ってよね」
『使うよ。名前まで入ってるしな』
父は少し間を置いて続ける。
『でも、こういうのは自分のために使えよ』
「いいの。欲しかったんでしょ?」
『いや、欲しいなんて言ってない』
「コーヒー好きじゃん」
『まぁな』
電話越しに苦笑しているのが伝わってきた。
少し沈黙が流れる。
すると父が思い出したように言う。
『ちゃんと飯食ってるか?』
「食べてるよ」
『本当か?』
「本当だって」
『野菜も食べろよ』
「はいはい」
『睡眠もちゃんと取れよ』
「お父さん、お母さんみたい」
そう言うと父は少し笑った。
『父親だからな』
電話を切った後、陽菜はしばらくスマホを見つめていた。
一人暮らしを始めてから、父と話す機会は減った。
少し前まで当たり前だったやり取りが、今はどこか懐かしく感じる。
仕事は相変わらず忙しい。
それでも、不思議と少しだけ元気が出た気がした。
続く
