伴田家 大田区の華麗なる実業家一族 (六郷特別出張所) #23
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・六之助の四男 伴田四郎「花卉市場の父」
伴田農園園主。温室メロン生産と花卉流通の先駆者。
1893年 (明治26年) 11月
日本橋に生まれる。
1915年 (大正4年)
東京帝国大学農学部農業実科を卒業
1923年 (大正12年) 12月20日
日本初のセリ取引市場の誕生
花卉市場の需要と供給の
円滑と品質の高揚を図るため
東京温室組合を母体として、
日比谷の震災の焼け跡の一角に、
日本初の
競り制度による生花市場、
高級園芸市場を設立、
初代理事長を務める。
創立メンバーは、
伴田農園の四郎
東京農産商会の湯浅四郎
富士見農園の田中四郎
『温室組合の三人の四郎』
が中心となった。
有力な農場として、
品川の烏丸農園
六郷の伴田農園
等々力の富士見農園
有楽町の東京農産商会らが
名を連ねました。
その後も、
花卉市場の発展に寄与するため、
荏原園芸組合副組合長、
大日本園芸組合副組合長、
東京府園芸組合連合会副会長などの
要職に就き活躍しました。
現在12月20日は、
花市場記念日となっています。
※玉川温室村
1924年 (大正13年)
園芸家荒木石次郎が開設
現在の大田区と世田谷区の
境界部に存在しました。
昭和初期における
東京近郊最大の
花卉温室園芸集積地となりました。

出典 あわひなる「花屋全史」手稿 [¹]

世田谷区玉堤1-15-30
壁の一部になってしまっている
・六之助の二男 伴田二郎(養鶏・家禽協会の理事)
1888年 (明治21年) 8月生
伴田養鶏場場主
中央家禽協會理事を務めた。
伴田家から分家した
1926年 (大正15年) に創刊された
『実際園芸』に
養鶏に関する記事を2回寄せている。
あわひなる「花屋全史」手稿 [¹]より
【伴田養鶏場】(雑色)
現在の東六郷1‐25付近
(開園時期や閉園時期は不明)


元伴田養鶏場と思われる場所
【伴田農園】(六郷土手)
六郷村975
(現在の仲六郷4‐3‐16 パークハイツ多摩川あたり)
シクラメンを中心に花の栽培が行われていたか?
「品川郷土の会会報 139号」[³] による


元伴田農園と思われる場所
養鶏場・農園共に
開始時期や閉園時期の記述はなく、
その後の土地利用についても不明。
【伴田(ともだ)一族 華麗なる実業家としての経歴】

・祖父 伴田六三郎
米穀商として
大阪で成功を収めたのち、
日本橋へと進出した実業家
(東京進出の理由は不明)
・六三郎の長男 六之助(証券会社 不動産会社)
1863年 (文久3年) 5月5日生~没年不明
丸六商店 (株屋) や
伴田土地合資会社を経営。
伴田土地合資会社は、
麹町區五番町9にあったとされる。
『人事興信録』データベース [⁴]
※1896年 (明治27年) ~
原村立春梅園を一時所有。
出典 [⁵]
矢口町誌 矢口町役場
1932年(昭和7年)9月28日発行
・六三郎の次男 大澤幸次郎 (六之助の弟) (植物園)
1868年 (明治元年) 7月19日生~没年不明
絶家を再興する為、
大澤家を引き継ぎ、
東京証券取引所や
米穀取引所仲介人として活躍。
現在も残る
横浜ガーデンの開設・経営を行い、
主に証券業で大成した資産家。
出典 [⁴]
※横浜ガーデンは、
大きな植物園で
最新の花の種苗を販売し、
遊園地も併設していました。
息子の幸雄は、
日本ダリヤ会員、
また、石井勇義らとともに
園芸文化協会の設立にも尽力した。
横浜の「ガーデン山」にその名を残す
出典 [¹]
・六之助の長男 伴田六郞(繊維業)
1886年 (明治19年) 5月生
東洋協會專門學校 (拓殖大学) を卒業
※台湾協会学校を発祥とし、
台湾協会専門学校→東洋協會專門學校→
東洋協会植民専門学校→拓殖大学[⁶])
高田商会 [⁷](兵器機械商社) に入社、
倫敦支店に勤務。
※高田商會は、
高田慎蔵によって創業。
1894年 (明治27年)
日清戦争で巨額の利益を上げる。
当時は、
兵器機械商社として
大倉組 (大倉財閥) と並んで
三井物産をも凌駕していた。
1914年 (大正3年)
伴田土地開発合資会社に入社。
1919年 (大正8年)
繊維染物を中心とした、
日本繊維化工株式會社を
滝野川區に設立した。
出典 [⁸]
1928年 (昭和3年)
家督を相続
出典 [⁴]

・六之助の三男 三郎
1891年 (明治24年) 7月生
早世のため記録は少ないが、
分家としての礎を築いた。
・六之助の五男 五郎 (友田恭助) (新劇俳優)
1899年 (明治32年) 10月30日~1937年 (昭和12年) 10月6日
幼い頃から芝居を好んで過ごした。
錦城中学校に進学する。
その頃土方与志と出会い、
伯母の住まいに
芝居小屋を作ってもらった。(南湖座)
1917年 (大正6年)
早稲田大学独文科に入学した。
在学中に新劇協会の
畑中蓼坡の指導を受けて、
1919年 (大正8年)
『ワーニャ伯父さん』で、
本格的な舞台初出演を果たす。
1920年 (大正9年)
舞台『青い鳥』の
大阪公演に専心するため、
早稲田大学を中退。
本格的に新劇俳優として活躍する。
1925年 (大正14年)
女優の田村秋子と結婚
1928年 (昭和3年)
久保田万太郎作『大寺学校』で
新生面を開き、人気を博した。
1937年 (昭和12年) 9月6日
妻秋子らとともに、
文学座を創立。
※現在の文学座の代表は、
角野卓造。
同月20日
応召して赤羽工兵隊に入隊、
日中戦争の最前線に送られ、
翌月10月6日
上海郊外の呉淞で戦死。(37歳)
茅ヶ崎市南湖4丁目にあった
恭助の別荘を
囲むようにしてある坂は
伴田の坂と呼ばれている。
出典 [⁹]

出典 ウィキペディア
・伴田家の痕跡

出典 日本地形社
現在の東六郷1丁目交差点あたりに
広大な敷地を有していた
・回想
息子たちの輝かしい功績には、
目を見張るものがあるのに
農園の記事は限りなく乏しい。
現在この地に農園があったとは、
想像しがたい、
がそれは、
たった100年前の話なのである。
当時の蒲田周辺は、
まだまだ開発されていませんでした。
さらに家族には、
アーカイブに
名を残すような者もいながら、
農園のことについては、
詳細な記載がないという、
何とも奇妙な現実が存在する。
Otapediaは
伴田四郎を
「花卉市場の父」
友田恭助を
「文学座の父」
伴田農園と伴田養鶏場を
「大田区無名の産業」として
登録します。
大田区の記憶を呼び起こす
「Otapedia」の活動
私たちは
その“名を失いかけたものたち”に、
もう一度まなざしを向け、
記憶の岸辺に呼び戻す営みです。
彼らの活動や
痕跡は消えても、
地域に遺した軌跡を
未来へと伝えていきます。
これらの呼称は
「Otapedia独自の呼称」であり
「大田区公式の認定ではありません」。
不完全な部分については、
今後の史料発掘や補完作業で、
より詳細な記述が加わる予定。
出典
1.あわひなる「花屋全史」手稿
2.「大東京職業別明細図之内 東京府」(昭和元年)
3.「品川郷土の会会報 139号」
4.『人事興信録』データベース
5.矢口町誌
6.拓殖大学
7.高田商会
8.東京市工場要覧 大正14年11月現在
9.Wikipedia 友田恭助
ヘッダー写真はAIで生成された画像です。
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