風船爆弾 国産科学工業研究所 (蒲田東特別出張所) #412
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公開しています。
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※史料に基づき記述していますが、
必要に応じて
考察が入る場合があります。
はじめに
風船爆弾は
戦時下の兵器であり、
現在では
非人道的な攻撃手段として
強く批判されています。
本記事は兵器の評価や
戦争の肯定を目的とするものではなく、
地域史として
関わった人々や
工場の記録を残すためのものです。
風船爆弾とは
和紙を
コンニャクノリで強化・加工し
大きな気球をつくり、
爆弾をつるして
約1万㍍の高空に浮揚させ、
偏西風に乗せて
アメリカ大陸へ向けて飛ばした兵器です。
気球の内部には、
水素が詰められていました。
近藤至誠(こんどうしじょう・しせい)
1875年 (明治8年) 12月18日生
~1940年 (昭和15年) 7月6日没
1897年 (明治30年) 11月29日
陸軍士官学校9期卒。
陸軍少佐の頃、
アドバルーンを見て
風船爆弾を軍に提案したとされています。
第二次世界大戦前の
1940年 (昭和15年) 7月6日
病死しました。
近藤至誠氏の主な記録
1906年 (明治39年) 4月1日
勲五等双光旭日章 受章
1908年 (明治41年) 12月
入営者及軍人父兄の心得 発行
(入営する兵士や
その家族(父兄)に向けて、
軍務に対する心構えや
兵役に関する基本的事項を説いた
全62ページの小冊子)
1913年 (大正2年) 11月28日
勲四等瑞宝章 受章
1914年 (大正3年) 11月10日
正六位に叙される
1918年 (大正7年) 8月6日
中華民国四等文虎勲章 受章
1921年 (大正10年) 11月1日
勲三等瑞宝章 受章
1923年 (大正12年) 2月
『韃靼海峽氷原航海 大正十二年二月』
砕氷艦「大泊」にて
小樽港を出航したサガレン州派遣軍の
活動や現地の様子を記録した
長編記録映画を撮影したとされる。
1933年 (昭和8年)
軍籍を離れ
国産科学工業研究所にて
和紙製気球に爆弾を搭載する
研究開発を始めたとされます。
書籍の出版や記録映画など
彼の活動は多岐にわたります。
軍人として、
また一人の研究者として
時代のうねりの中で
役割を果たした人物でした。
国産科学工業研究所
1933年 (昭和8年)
軍籍を離れ
目黒区に
国産科学工業研究所を設立しました。
同社にて
和紙製気球に爆弾を搭載する
研究開発を始めたとされます。
後に国産科学工業株式会社へ
改称しています。
和紙で作られた気球
1929年 (昭和4年)
和紙問屋の老舗
日本橋の「小津商店」に
国産科学工業研究所から
和紙製造の依頼がありました。
秘密厳守・秘匿性・至急との命題を受け
店にある40~50種類の紙を提供しました。
小津商店らの試行錯誤
既存の和紙では条件を満たせず、
埼玉県小川町の細川紙の職人たちと
新たな紙の開発に取り組みました。
紙問屋新井商店が
4か月をかけて完成させ、
「小津商店」が納入しました。
約1年で量産体制も整いました。
関東軍による気球実験
1904年 (明治37年)
日露戦争のあと
満州に配備され
満州事変を起こした関東軍が
風船爆弾に興味を示し
1933年 (昭和8年) ころからは
関東軍による対ソ気球実験で
研究を重ねました。
蒲田への移転
1936年 (昭和11年) ころ
手狭になった目黒を離れ
蒲田に工場を構えました。
(現・蒲田5‐45付近)
戦時中には
陸軍の下請け工場となります。

風船爆弾計画再始動
関東軍による
気球実験がなくなり
第二次世界大戦突入後まで
忘れられた存在となりました。
しかし、戦況が悪化すると
1943年 (昭和18年) 7月
陸軍省軍務局長が
軍幹部に意見を求め、
上空の偏西風を利用した
風船爆弾構想が再浮上します。
陸軍登戸研究所
1943年 (昭和18年) 8月
陸軍省は、
陸軍登戸研究所に対し
気球の研究を命じました。
「気球本体」
「搭載する生物兵器」
「材料の和紙」
に取り組み
同年11月、
直径10m・射程1万kmの
気球を完成させ、
翌1944年 (昭和19年) 初頭
千葉の海岸から
試作気球200発に爆弾を付けて
実験を行いました。
勤労動員
1944年 (昭和19年)
梅屋敷にあった
私立大森高等女学校
(現・三田国際学園中学校・高等学校)
の女学生たちが
国産科学工業研究所に
通っていた記録が残っています。
風船爆弾実戦投入
1944年 (昭和19年) 秋から
1945年 (昭和20年) 4月にかけて、
約9,300発の風船爆弾が
千葉県一宮町
茨城県北茨城市
福島県いわき市
の3カ所から
秘密裏に発射されました。
そのうち285発の着弾が確認され、
1,000個ほどが
アメリカ本土に着弾したと
推測されています。
その後の国産科学工業株式会社
終戦の日の8月15日
総務部長であった内藤要氏は、
関係書類を
すべて焼却処分したとされています。
また終戦後の
1945年 (昭和20年) 11月18日
連合軍は
航空機の研究や実験を禁止しました。
これには、気球の研究も
含まれていました。
おわりに
当時の大田区には
1944年 (昭和19年) に指定された
695の軍需工場のうち
172の工場が大田区にありました。
国産科学工業研究所もその一つでした。
近藤至誠氏の構想は
後に参照されました。
Otapediaは、
国産科学工業研究所を
「大田区無名の企業」
勤労動員された
私立大森高等女学校の
女生徒たちを
「大田区無名の組織・集団」
として記録します。
大田区の記憶を呼び起こす
「Otapedia」の活動
私たちは
その“名を失いかけたものたち”に、
もう一度まなざしを向け、
記憶の岸辺に呼び戻す
営みです。
彼らの活動や
痕跡は消えても、
地域に遺した軌跡を
未来へと伝えていきます。
これらの呼称は
「Otapedia独自の呼称」であり
「大田区公式の認定ではありません」。

出典
1.『社史「小津330年のあゆみ」』
2.『登戸研究所』明治大学平和教育登戸研究所資料館
3.『大田区史 下巻』大田区役所
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