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六郷橋 通史 (六郷特別出張所) #215

ー免責事項ー
初めに
度重なる流出や
架け替えがあるため
便宜上「第〇期六郷橋」と
呼称しています。
正式な行政呼称では
ありません。

※本記事は
 Otapedia 公式note(https://note.com/fine_rat5784)のみで
 公開しています。
 無断転載・改変・商用利用を禁じます。
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400年の波濤と人々の記憶 
第1期六郷橋 1600年 (慶長5年) 

徳川家康の命により 
多摩川に初めての橋
全長216m

架けられました。


この橋は
「千住大橋」 
「両国橋」とともに 
江戸の三橋と 
呼ばれました。 

※1569年に
 江戸に攻め入った際
 行方弾正
 橋を焼き落として
 武田勢を食い止めたという
 記録もあります。『小田原記』


第1期六郷橋 流失 1688年 (貞享5年)

5度の破損と
5度のかけ替えの後
7月21日の 
大洪水によって
江戸時代最後
六郷橋は流失し、 
以後、再建はされませんでした。 


渡船の時代へ 1709年~

橋がなくなったことによって
六郷の渡し」の
渡河事業は、
重要な産業となると判断した
川崎宿名主・
田中丘隅 (たなかきゅうぐ) 
は、
幕府に訴え
1709年 (宝永6年) 3月15日 
六郷川の渡河を
川崎宿請負を許可しました。
六郷渡船が始まりました。


象と天皇が渡った日

1729年 (享保14年)
長崎から江戸へ運ばれた
雌雄のベトナム象の渡河
(雌の象は途中で
 亡くなったようです)

1868年 (明治元年) :
明治天皇御一行
江戸に入りの際
たくさんの船を繋げて
一時的に橋を作る
船橋」という方法で
渡河されたと
伝えられています。


第2期六郷橋「左内橋」1874年 (明治7年) 

1月21日
川崎大師の 
初大師に合わせて 
八幡塚村の「筏屋」 
鈴木左内によって 
初の民間人による 
俗称「左内橋」が 
完成しました。

写真:鈴木左内 肖像
大田区立郷土博物館 所蔵

離職する水主たちへの補償

「左内橋」完成によって
長年、
六郷の渡しを
支えてきた水主28名は、
その職を失うことになりました。

鈴木左内は
水主の彼らに
総額250円の離業扶助
支給しました。

それは、
橋の誕生によって
職を失う水主たちへの、
左内なりの誠意ある配慮でした。


度重なる橋の補修

洪水などによって
そのたびに
莫大な修繕費がかかりました。

それでも彼は
渡船による
不便や不都合を
解消したいーー
その一心で
身を削ってまで
橋を守り続けました。


第2期六郷橋「左内橋」流失 1878年 (明治11年)

9月15日
多摩川の氾濫によって
「左内橋」は流失
しました。

この流失を最後に
左内が再び
橋を架けることは、
ありませんでした。

左内橋の完成から
わずか4年8か月後で
その短い命を終えたのです。

歴代の六郷橋に
個人の名称が
冠されたのは
後にも先にも
この「左内橋」のみでした。


水主たちの最後の輝き

左内橋流失後の
9月18日より
渡船再開されました。

それは
第3期六郷橋
架かるまでの
4年と少しの時間でした。

水主たちは
もう一度だけ、
川を渡る人々のために
船を出し続けたました。


第3期六郷橋 1883年 (明治16年) 

2月8日
八幡塚村

川崎駅共同出資によって設立された
六郷架橋組合

木製有料橋を再架橋しました。

橋の名称案として
「六郷橋」と「多摩川橋」で
意見が分かれましたが、
六郷橋」と
定められました。


水主たち涙の訴え

第3期六郷橋の完成は
水主28名にとって、
渡船の終焉を意味する
出来事でもありました。

水主たちは
他の仕事に就くことは
 考えられない、
 客は居なくとも
 申請は提出させてほしい
」と
渡船業務の継続を願う
届出を提出しました。


渡船の水主終焉への動き

その後
架橋の時代が本格化し、
渡船業者は
橋の流出時のみの
臨時稼働となっていきます。


第3期六郷橋 流失①  1885年 (明治18年) 

7月2日
橋の修繕は
翌年までかかり
翌3日より
渡船が一時的
復活
しました。


第3期六郷橋 流失 ② 1897年 (明治30年) 

5月4日 
洪水による
2度目の流失
で、
6日
より
渡船運行されました。


渡し船業の終焉

1883年 (明治16年) 
28名いた水主は、
この流失の頃には、
「有志者」7名にまで
減っていました。

これは
破損や流失時のみの
臨時営業に限られたため
他の渡船場への移動や
廃業するものが
多数出たと考えられます。

これ以降
正確な運行記録は
確認出来ていません。


京浜電気鉄道による買収 1900年 (明治33年) 

7月
品川までの
路線延長
にともない、
第3期六郷橋を買収しました。

しかし
買収した橋の
構造的な脆弱性を認識した
京浜電気鉄道は
安全性を考慮し、
鉄道専用の橋を
新たに架けました。

その後六郷橋は
1903年 (明治38年) 8月より
無料で渡れるようになりました。


第3期六郷橋 政府へ献納 1906年 (明治39年)

12月14日
京浜電気鉄道
六郷橋を政府に献納しました。


第3期六郷橋 流失③ 1910年 (明治43年)

8月
3度目の流失
となり、
第3期六郷橋は
その幕を閉じることとなりました。

六郷神社にある
第3期六郷橋親柱

第4期六郷橋 1910年 (明治43年) ~

第3期の橋
流失の同年に
木製橋として
再建されました。 


第4期六郷橋 流失 1913年 (大正2年)

8月27日
第4期六郷橋は、
再び流失してしまいました。


再び橋を架けるために

1914年 (大正3年) 
度重なる流失を受けて
政府も動き出します。
六郷橋の再架橋に向けた
計画が立てられました。

しかし、
第一次大戦の影響により
計画は一時中断されます。

その後
1918年 (大正7年)
「道路法」が制定され
再び架橋の動きが
本格化していきます。

1920年 (大正9年) 
六郷橋架け替え工事を含む
「京浜国道改修工事」が始動。

この工事は、
国による直接施工ではなく
東京府神奈川県
それぞれの側を
担当するかたちで
進められました。

橋梁の設計者は
神奈川県側の
技師・増田淳氏
担当しました。

そして
1923年 (大正12年) 9月1日
関東大震災発生。
帝都復興事業の一環として
予算が確保されることと
なりました。

写真:大正12年1月4日
大師ゴマ木初荷 六郷橋上
対岸左天神者森 右六郷神社

第5期六郷橋 1925年 (大正14年) ~

1925年 (大正14年) 8月
俳優・船越英一郎氏
祖父が営む飯島組によって
初の鉄筋タイドアーチ式
長さ 443.3m 幅 16.4m
架けられました。

この橋は別名
陸路の帝都門
とも呼ばれ、
東京の南の玄関口としての
象徴
となっていきます。

写真:昭和10年代の六郷橋
大田区立郷土博物館 所蔵
川崎区宮本町7
稲毛公園の第5期 六郷橋親柱
2002年 (平成14年) 11月
川崎商工会議所・国・市・地域住民の協力の下
園内に移設される

第6期六郷橋 1979年 (昭和54年) ~

1979年 (昭和54年) 
道路拡張のため
架け替え工事が始まります。

1次工事
1984年 (昭和59年)
新橋の一部が完成。

2次工事
1987年 (昭和62年)

旧橋を撤去して
新橋が完成。

3次工事
1997年 (平成9年)

完了。
片側3車線で、
幅は倍になりました。

国道15号上り車線
東京側にあるモニュメント

哀しい事故 1979年 (昭和54年)

12月14日
午前9時40分頃

第5期六郷橋
旧橋の架け替え工事中に
崩落事故
が発生しました。

この事故により
5名の尊い命が奪われ、
12名が重軽傷を負いました。

奇しくもその日は、
79年前に京浜電気鉄道が
六郷橋を買収した日と
同じ日でした。

写真:昭和59年12月
事故後の六郷橋を
心配そうに見守る人々
大田区立郷土博物館 所蔵
石原裕之氏 撮影

現在の六郷橋

その歴史には
幾多の災害と
尊い犠牲
そして
橋にすべてを賭けた
男たちの夢が
刻まれています。

その六郷橋は
「箱根駅伝」
舞台として
毎年正月の2日間
必ずテレビに映る
有名な橋になりました。

左内が描いた
夢の懸け橋」は
今日も人々の
往来を支えています。

写真:現在の六郷橋

最後に

Otapediaは、
12月14日
六郷橋政府へ献上
六郷橋崩落事故を記録する
「大田区記憶の日」
として登録したいと思います。


出典 
 大田区史 下巻 
 Wikipedia 六郷橋 
 左内橋 馬込文学マラソン 
 左内橋 六郷橋と六郷の渡し 
 町民の鈴木左内が造った左内橋 有料木橋 
 六郷の魅力再発見 写真集 ー記録と記憶ー 
 六郷今昔小誌 
 Wikipedia 観乗寺(大田区) 
 六郷橋の開通と渡船の終焉 川崎市民ミュージアム
ヘッダー
 宮本台緑地 第5期六郷橋親柱

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