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エンパイヤ自動車学校 (六郷特別出張所) #163

※本記事は
 Otapedia 公式note(https://note.com/fine_rat5784)のみで
 公開しています。
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1920年代の東京は
関東大震災を契機に
「車の時代」へと
歩を進めました。

六郷の一角に誕生した
この自動車学校は、
短期間で
数千の卒業生を輩出しました。 

まずは自動車の歴史から
紐解いてみます。


【日本のモータリゼーションの夜明け】

1907年 (明治40年) 2月
警視庁により
自動車の公道運転に免許が必要になり、
三井銀行社長三井高保の運転手であった
渡辺守貞氏が第一号取得者となりました。

同時にナンバープレートの装着も義務づけられ、
登録番号「1」明治屋に割り当てられました。

1910年 (明治43年) 頃には、
運転手の養成も始まり、
吉田真太郎氏が「自動車運転手修技所」を創立。
 (これが日本最初の運転手養成組織とされます。)

1916年 (大正5年) 1月には、
東京府の発動機協会
自動車運転手養成部が設立され、
これが日本初の自動車教習所となりました。


【全国的なルールとインフラの整備】

1919年 (大正8年) には、
内務省令として
「自動車取締令」が施行され、
自動車に関する取り決めが
日本全国で統一されました。

また、
同年4月には道路法が公布され、
自動車が道路整備の基準として
初めて考慮され始めます。

さらに、
1920年 (大正9年) 12月には
「道路取締令」が公布され、
翌年施行
これにより、
日本全国の交通法規
より厳密に統一されました。


【関東大震災が呼び込んだ「車の時代」】

こうした
全国的なルールと
インフラ整備が進む中、
日本の自動車社会を
本格的に始動させたのが、
1923年 (大正12年) 9月1日
関東大震災でした。
震災により、
東京市電などの既存の交通手段が
壊滅的な被害を受け、
悪路で人力車なども
機能不全に陥る一方で、
それまで贅沢品と見られていた自動車は
その実用性を広く認識されるようになり、
利用が激増しました。
壊滅した東京市電の代行運行のため、
東京市は
フォード社にフォード・TT型を大量発注。
これをバスに転用して、
翌年1月から運行させたのが、
有名な「円太郎バス」です。
この円太郎バスの活躍により、
商機を見出したフォード社は
日本への進出を決定し、
1925年 (大正14年) 
日本フォード社設立します。
大震災がもたらした車の爆発的な増加と、
それに伴い「運転手」が不足となりました。


【エンパイヤ自動車学校設立】

この時代的なニーズに応えるべく、
東京自動車業組合が立ち上がり、
1925年 (大正14年)
荏原郡出雲町
(現在の大田区の仲六郷1-41〜42)
バス通りに面した東側に、
東京自動車組合付属自動車学校
設立されました。

彼らは
陸軍自動車学校出身の
簗瀬幸三郎氏を校長に迎えます、
それはこの学校が、
陸軍出身の
高い専門性を持つ人物を招き
最先端の教育機関を
目指していたことを
裏付けています。

敷地は1,012.5坪という広大さ。
10名もの教官が在籍し
当時最新鋭のフォード車を教材に
運転技術と学科が
徹底して教えられていました。

1928年 (昭和3年)
「エンパイヤ自動車学校」
改称されたこの学校は、
東京の交通史において
重要な役割を果たしました。


【自動車教育の第一人者、簗瀬幸三郎】

校長を務めた簗瀬幸三郎氏
単なる学校運営者にとどまらず
日本の自動車教育の確立に尽力した
第一人者でした。
氏の著作には
『フオード自動車学』(大正13年)
『最も容易に自動車運転手になる法』(大正14年)
『最新交通道徳の詳解』(1955年)
などがあり
その活動期間は
戦前・戦後をまたぐ
長期にわたっています。


【幻の学校校長と同名自動車商会の関連】

ちなみに、
校長の名に含まれる「簗瀬」の文字から、
自動車販売で有名なヤナセとの関係が
気になるかもしれませんが、
ヤナセの創始者は梁瀬長太郎氏で、
漢字が異なりますので、
現在の株式会社ヤナセとは無関係です。
 
また 現在エンパイヤ自動車
という企業が存在します。
当時フォード車を扱っていましたが、
社史に自動車学校に関する
詳細な歴史はでてきておりません。

No Imageですが
1931年 (昭和6年) の
夏季講習申込書が
遺っているようです。


【東京の片隅の六郷が車社会を支えていた】

学校が設立されて
わずか7年後の
1932年 (昭和7年) までに、
エンパイヤ自動車学校は
約5,000名もの卒業生
輩出しました。

彼らは、震災後の
東京の物流と交通を支える
貴重な担い手となっていったのです。
 
注目すべきは、
同時期の地元六郷に存在した車両が
トラック25台自家用車30台
にすぎなかった事実です。

この事実からは、
エンパイヤ自動車学校が、
地元の需要というよりも、
東京全体、ひいては
日本のモータリゼーションの推進という、
より大きな使命を
背負っていたことがうかがえます。

出典:
『大東京職業別明細図之内 東京府』
内外地図 (1926年)
実技用の教習場所は別なのか?

【大田区にあったもう一つの源流:
    日本自動車学校】

自動車運転手の養成は、
大田区とも深い関わりがあります。
飛行機事業から一時撤退した
「羽田の父」と称される
相羽有 (あいばたもつ) 氏は、
これまで予備課程で教えていた
自動車操縦法に軸足を移し、
1917年 (大正6年) 10月
日本で2番目に開設された
自動車学校「日本自動車学校」
を独立させました。

大勢の入学者を集めて
成功を収めた同校は、
1919年 (大正8年) 9月に、
京浜蒲田駅 (現京急蒲田) の
西側一帯 (蒲田四丁目) に
新校舎を構えて移転しました。

作家の稲垣足穂
この地で免許を取得しています。

1937年 (昭和12年) 測量
出典 日本地形社

【結び】

ー幻の自動車学校ー

1935年 (昭和10年) 
頃に
姿を消したとされる
エンパイヤ自動車学校。

その短い歴史は、
関東大震災後の日本が、
いかにして車社会へと
変貌していったかを示す
貴重なアーカイブです。

Otapediaは、
簗瀬幸三郎氏
「大田区無名の偉人」
モータリゼーション黎明期
5,000名もの卒業生を輩出した
エンパイヤ自動車学校
「大田区無名の企業」
として登録します。

大田区の記憶を呼び起こす
「Otapedia」の活動

私たちは
その“名を失いかけたものたち”に、
もう一度まなざしを向け、
記憶の岸辺に呼び戻す営みです。

彼らの活動や
痕跡は消えても、
地域に遺した軌跡
未来へと伝えていきます。

これらの呼称は
Otapedia独自」の記録上の呼称であり
大田区公式の認定ではありません」。


参考資料
 1.六郷わがまち 第13号 平成8年11月1日
出典
 2.Wikipedia 日本における自動車の年表
 3.Wikipedia 相羽有
 4.エンパイヤ自動車 沿革
 5.「大東京職業別明細図之内 東京府」(昭和元年)
 6. 江戸東京博物館 デジタルアーカイブス
  エンパイヤ自動車学校 夏季講習申込書 1931
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