雑色駅の父 麦稈真田の後継者 川田諒次 (六郷特別出張所) #164
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導入
【川田諒次】谷五郎の後継者
生年1877年 (明治10年) 頃~
1959年 (昭和34年) 5月19日 (82歳)
麦稈真田の父
川田谷五郎の娘
川田むらと結婚し、
谷五郎から事業を継承しました。
1903年 (明治36年)
若干26歳で
麦稈及経木真田同業組合
組合長に推挙され
1926年 (大正15年) 2月
東京府荏原麻真田工業組合
組合長に就任しました。
大田区から
真田業が消滅に至る
1931年 (昭和6年) まで
創業家の後継者として
要職に就き業界を支えました。
墓所は、南六郷 宝泉寺
彼は、
真田業の
継承者であると同時に、
雑色駅を
現在の場所に
移設するために奔走した
「雑色駅の父」
とも呼べる人物でした。
この物語は
六郷小学校の
開校120周年記念誌の中に
要約されています。
雑色駅物語
【雑色駅移設をめぐる騒動】
1921年 (大正10年) 頃
京浜電気鉄道は、
それまで国道の上を
走っていた併用軌道を
専用軌道になおす計画を
立てていました。
これに伴い、
雑色停留所の位置変更が
大きな問題となり、
賛否両論、
村を二分するほどの
騒ぎとなったのです。
京浜電気鉄道は、
雑色駅を
現在の仲六郷小学校付近に
作ろうと計画しました。
これを知った
雑色の人々は、
元の駅の近くに駅を
設けてほしいと
会社に懇願しました。
そこで川田諒次が、
何度も会社へ
足を運びましたが、
なかなか
取り次いでもらえませんでした。
足を運んだある日
社長秘書が、
「今日で、
あなたは60回目の来社です。
その熱意に負けました。
社長に私から話して、
会う機会を作りましょう」と
会う機会を取り付けました。
社長は
「駅の土地と費用を出すなら」と
条件を出しました。
そこで、
川田諒次氏は地元の有志や
工場建設を予定していた
宮田自転車の社長などを説き回り、
土地95坪と2,850円を集めて
会社に提供しました。
こうして、
1923年 (大正12年) 4月1日
現在の位置に
雑色駅が
新設することになったのです。
(原文まま)
編集後記
60回も会社に足を運ぶという粘り強さ、
そして地元の工場をも巻き込んで
資金を集めるリーダーシップ。
それは
戸長を務めた
祖父の川田兵右衛門 (永吉)や
現都議会議員も務めた
谷五郎の精神が
受け継がれていたように思えます。
私たちが
いつもお伝えしたい
「無名の偉人」の情熱が、
この物語には
凝縮されています。
Otapediaは
川田諒次氏を
「雑色駅の父」
として
4月1日を
雑色駅が
併用軌道から
専用軌道に移った日を記録する
「大田区記憶の日」
として登録します。
大田区の記憶を呼び起こす
「Otapedia」の活動
私たちは
その“名を失いかけたものたち”に、
もう一度まなざしを向け、
記憶の岸辺に呼び戻す営みです。
彼らの活動や
痕跡は消えても、
地域に遺した軌跡を
未来へと伝えていきます。
これらの呼称は
「Otapedia独自の呼称」であり
「大田区公式の認定ではありません」。
雑色駅を利用される皆さんは、
この駅が
「愛と熱意の結晶」であることを、
ぜひ心の片隅に置いて
利用してみてください。

出典
六郷小学校開校120周年記念誌
ヘッダー
Wikipedia 京浜急行雑色駅
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