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麦稈真田の父 川田谷五郎 麦わら帽子の物語 Part 1 (六郷特別出張所) #27

明治時代初期~昭和時代初期まで、
麦わら帽子』が大田区の名産品でした。
雑色村にあった川田商店について。

※本記事は
 Otapedia公式note(https://note.com/fine_rat5784)のみで
 公開しています。
 無断転載・改変・商用利用を禁止します。
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① 川田家の人々

 【川田谷五郎】麦稈真田の祖
  兵右衛門 (永吉) の長男
   生年1840年 (天保11年) 頃~ (諸説あり)
   1911年 (明治44年 ) 10月20日 71歳
   第一回
都議会議員に選出
   「麦稈真田」
開発し、
   後の真田業の発展に大きく寄与、
   功績により緑綬褒章を賜る。
    ※語り継がれるべき
     「大田区無名の偉人」

 【川田兵右衛門 (永吉)】地域の発展に貢献
  谷五郎の父

   生没年不明
   1872年 (明治5年) 
   1877年 (明治10年)
   雑色村村長 (戸長) を務め
   地域社会の発展にも寄与。
    [出典 3] 2025年7月23日加筆
 【川田廣太郎】父と共に新技術を開発
   
生年1865年 (慶應元年) 頃
   1943年 (昭和18年) 11月28日 78歳
   
谷五郎の息子
   谷五郎と共に新たな技法
   「経木真田」を開発
 【川田むら】谷五郎の
   
生年1880年 (明治13年) 頃
   1948年 (昭和23年) 7月7日 68歳
   
川田諒次の
 【川田諒次】谷五郎の後継者
   生年1877年 (明治10年) 頃

   1959年 (昭和34年) 5月19日 82歳
   
谷五郎の娘
   川田むら
結婚し、
   
谷五郎から事業を継承した。
   晩年の真田業に至るまで
   要職に就いた。
   
   ※表記のブレもあり
    詳細な記事が見つからず。
   ※没年情報は2025年11月23日加筆。

左胸元に緑綬褒章を付けた川田谷五郎
出典 六郷今昔小誌
川田谷五郎 経歴
コトバンク デジタル版
日本人名大辞典+Plus を引用
生年にブレがあり
71歳で亡くなったという史実から
ここでは天保11年を採用

② 名産「麦稈真田」60年の軌跡

【1871年 (明治4年)】
   川田商店設立。
   品川縣から営業認可が下り

   人力車を運行。
1872年 (明治5年)】
   『麦わら帽子』の素材を生み出す。
   ※穴守稲荷川崎大師にて販売。
1874年 (明治7年)】
   
試作品をアメリカ輸出、
   注文
を受ける。
1878年 (明治11年)】12月
   谷五郎
   第1回東京府会議員選挙に出馬し当選

  ※現都議会議員選挙
1881年 (明治14年)】
   第2回勧業博覧会
出品し、
   評価を得る。
1883年 (明治16年)】
   
3つの工場を新設。
   日本全国に広まる。
  ※この頃粗悪品流通で
   信用低下。
1884年 (明治17年)】11月
   無秩序な
   競争激化
を契機に
   農商務省
   組合設置が促す。
1886年 (明治19年)】8月
   
雑色村112に
   川田麦藁商会設立

1888年 (明治21年)】2月
   谷五郎
を中心に
   郡内189名の業者が集結
   組合設立認可を提出
   東京荏原郡麦藁組紐営業組合
   設立。
   初代会頭は谷五郎
1891年 (明治24年)】8月
  
 長男廣太郎と共に、
   新たな技術
   経木真田
を開発。
1899年 (明治32年)】5月1日
   
谷五郎緑綬褒章授与
1903年 (明治36年)】
   万国博覧会
に出品、
   金メダルを授与
  ※しかし栄光の裏で
   この頃川田商店破産
   理由についての詳細は不明
1907年 (明治40年)】
   大森八景園
にて
   第二回関東経木真田競技大会
開催。
1911年 (明治44年)】10月12日
   
谷五郎逝去71歳
   
墓所は 南六郷 宝泉寺
  ※
コトバンクデータによると
   74歳になるが、
   ここでは資料に基づき
   71歳没を採用
    (2025年11月23日加筆)   
1911年 (明治44年)】
   麦わら細工が、
   東京府知事阿部浩から、
   銀杯表彰状を受ける。
1916年 (大正5年)】
   絶頂期を迎える
  ※この頃から生産量は低下していく。
1920年 (大正9年)】
   1916年に大森町に45あった工場が
   4年で6にまで減少

1926年 (大正15年)】2月
   諒次
   東京府荏原郡麻真田工業組合長を務める

1931年 (昭和6年)】
   産業構造の変化や
   新技術の台頭により、
   真田紐を中心とした
   真田業界は、
   現大田区から
   完全姿を消す

出典 川田氏提供
「大正時代の川田商店」
25年6月7日に追掲

    ※川田様にお話を伺いに行ったところ
    いきなりの訪問にもかかわらず、
    ご丁寧に対応して頂き、
    本当にありがとうございました。
    お陰様で写真の撮影日まで
    判明いたしました。
    2025年6月7日 投稿後に追記

    ー推定ー
    写真に写っているのは、
    撮影日からすると、
    谷五郎さんは、
    お亡くなりになっているので、
    息子さんのどなたかと、
    お孫さんでしょうか?

東海道に面してローマ字の看板を掲げた
川田商會工場
東京府荏原郡六郷村雑色117番地
左から5番目が長男廣太郎 明治29年撮影
出典
大田区史 資料編 民族(2025年11月20日追記)

川田家が眠る場所

川田家墓所 宝泉寺
2025年11月23日追掲

③ 麦わら細工の歴史と麦稈真田の誕生

  ー麦わら細工の起源ー
 ※海外では、
  フィンランド12世紀から続く、
  「ヒンメリ」という、
  麦わらを使用した伝統技術があり、
  クリスマスツリーの装飾としても使われ、
  様々に形を変え、現代に受け継がれている。
     出典 ヒンメリ - Wikipedia

ヒンメリ
出典 ウィキペディア
 

 日本での麦わら細工は、
 フィンランドに遅れること600年
 江戸時代中期、
 1733年 (享保18年) に、
 漁師たちの度重なる不漁に際し、
 生活の足しとするための、
 副業が求められていました。
 そこで大林寺日好住職が、
 大森村の漁師たちを助けるために
 麦わら細工考案されました。

 刻みつけの「はこ物」と、
 編み上げの「ひねり物」の
 2種類がありました。
 当時の東海道の旅人には、
 有名な郷土玩具であったそうです。
 なかでも、
 ひねり物の「麦わら編み細工」の
 「大森細工」から
 「麦稈真田」という独自の業として
 技法が確立、
 地域工芸として発展していきました。
 ※大林寺 (大田区大森中2‐7‐19)

復元された大森麦わら編み細工
出典 大森麦わら細工の会

出典
1.ウィキペディア ヒンメリ
2.コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus
3.六郷今昔小誌
4.大森麦わら細工の会
5.大田区史 下巻
6.産経新聞 東京都議選の歴史
7.大田区史 資料編 民族
8.大森町政提要
 ヘッダー写真は
  AIによって生成された画像です

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