目蒲線と河原坂 (鵜の木特別出張所) #166
はじめに
以下は
当時を知る古老の方々の証言を
原文のまま記録したものです。
読みやすくするため
小見出しだけ筆者が付けました。
この記録は、
目蒲線開通の裏側にあった
人々の生活と
土地の記憶を伝える
貴重なアーカイブです。
なお後半は
補足説明や筆者自身の
見解となります。
※本記事は
Otapedia公式note(https://note.com/fine_rat5784)のみで
公開しています。
無断転載・改変・商用利用を禁止します。
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建設現場の様子
目蒲線は
1923年 (大正12年) 11月に
全線の開通を見たのであるが
既に数年前から工事は
始められていたのであった。
その当時の人夫は、
ほとんどが韓国人であったようだ。
現在の鵜の木1‐6東角
かさはら、宮崎さんの所に飯場があり、
大体200人位は居たらしい。
元調布町長であった
本家の天明啓三郎 (当主家寿子氏、郁夫氏父)
からの依頼で、
本家分に属する
河原坂 (かわらざか) の土を
無償で目蒲線工事のために
提供することを承認され、
その土を運搬するための飯場であった。
人力による土盛り作業
工事の現場について
一言付言して置こう。
沼部から下丸子までの間は、
だいぶ部分畑であったが、
何れも低地であるから
相当高く土盛りをしなければならず、
特に下丸子寄りの所なぞは
一部池の埋め立てもあり、
基礎固めなども大変な様子であった。
何んでも池の所の埋め立てには、
けやきの枝の大束を
随分と投入していたのを見物したものだ。
電車軌道になる所には、
トロッコ用の小さな線路が敷かれ、
河原坂の西側の所から掘り始められた。
今と違って
トロッコと称する運搬車が
人力によって動かされ、
措定の位置でトロッコの外枠を取り
車輪ごと底板を倒す、
つまりあけるのである。
従って、
大変な人手が要る訳である。
工夫の食生活
工事人夫の飯場は、
沼部付近にも数カ所あったようだ。
非常に強く残っている印象に
「ヘビ」がある。
冬は多く赤土に穴を掘り、
その中で越冬するという
「マムシへび」は
人夫の人達は
大変よろんで食べていたようだ。
へびの皮を頭からむき、
昼飯の時に輪切りにして
米の中に入れて炊く。
米の中に醤油を入れていた。
へびは食えると思っていないし、
不思議で仕方なかったから、
食べている人の口元を
シゲシゲと見ていたら
“坊や食べたいか?”
その一言が
今でも耳に残っている。
古墳に当たる!
さて、
坂の土は工事の進捗と共に
平坦となっていったが、
偶々古墳に突当った。
話をしてくれた老婦人は、
合掌しながら云う。
お前少し前であったろう。
顔見知りの人夫の人が大きい声で
早く来てくれと云う。
私の手を引いた人は
工事現場の東側の所の穴を指していた。
白骨化した骨は想定内
中を見ると白っぽい骨が3体あった。
一番奥の骨の側の細長い黒い物があった。
多分刀であったろう。
黒っぽい石が一面に敷いてあり、
廻りは石で囲ってあった。
見ているうちに怖くなってきたので、
急いで帰って来た。
と申して、
当時の驚ろきを再現していたようだった。
鵜の木付近の台地には、
相当古くから横穴式古墳があると、
色々な資料に記されており、
この古墳も、
その当時のものであろうが、
刀がある所から武士であり
黒い石が敷いてあるからには、
相当偉い人ではなかろうと推定する。
その老婦人は怖くて、
しばらく自宅にいたが、
夕方その場に行った時には、
既に土は運ばれ平坦になっていたと云う。
続く事故と「祟り」の噂
人夫の方たちは異国人であり、
特に、
その人達を指導していた者は、
日本人であるが、
相当元気な者であったろうから、
適当な処分をしたのではなかろうかと思料する。
“どうも、あの遺体の処置が気にかかる。”
と、老婦人は今でも云うが、
こんなことを付け加えて話してくれた。
「工事が終り、
目蒲線が開通してから間もない頃、
二つの事件相ついで起った。
鵜の木駅から沼部寄り二つ目の踏切りと、
今一つは、
下丸子駅北側踏切りに限って、
数回にわたって
飛び込み自殺があり、
どうも不思議で遺体の祟りかも知れない。」
と老婦人は云う。
天明家無償の貢献
何れにしても、
夏の夜の話題になりそうな事柄である。
河原坂の土を無償で提供した天明さんに、
会社側から何等かの
感謝の意を表したいとのことであったが、
“土地の発展のためなら何もいらない。
若し会社側が理解して頂けるのならば、
駅の改札口を南側にしてほしい。“
と言ったそうだ。
【以降Otapediaによる解説と考察】
【天明家】
天明 (てんみょう) 家は
下野国佐野で
天明鍛冶といわれる
鋳物師として有名で、
天明鋳物を開発したことで有名です。
1489年 (延徳元年) 頃
鵜ノ木村に移って来たと
伝えられます。
それ以降
代々村長や町長を務め
鵜の木を中心に
広く地域の名主として
現在に至っています。
【光明寺の池】
元々現在の線路付近は
昔多摩川の流域だったと
伝えられています。
その証拠として
今も多摩堤通り沿いに
光明寺の池が残っており
この池は流域だった頃の
名残とされています。
【河原坂】
大田区は
新大田区百景として
「河原坂切通し (松山)」
に登録されています。
また
2006年 (平成18年) 8月に発見された
飛鳥時代の権力者の墓とされる
鵜の木一丁目横穴墓群遺跡の
脇に位置しているため、
工事の際に土を掘り起こして
人骨や刀剣などが出てきても
不思議ではありません。

河原坂
頂上の左側が
鵜の木一丁目横穴墓群
鵜の木松山公園内 (鵜の木1‐6‐15)
新大田区百景
大田区は
1997年 (平成9年) に
河原坂切り通し(松山)を
新大田区百景122点の
題材の一つに選定した。

鶴田 昭男 氏作
新大田区百景(調布地区 No.45‐52)
出典:大田区役所
【現在】
かつて池は
子供たちの遊び場であったようだが
池に落ちる子もいたため
現在は
フェンスによって囲われています。
池に一番近い鵜の木3号踏切は
わずかしか離れておらず
文章の内容からも
池の一部であった可能性も考えられ、
光明寺の池は
今よりも大きな池であったと推測されます。

遠くに見えるフェンスの先の森が
光明寺と光明寺池
【最後に】
Otapediaは
天明啓三郎氏を
「大田区無名の偉人」
目黒蒲田電鉄を
「大田区無名の企業」
河原坂と目蒲線を
「大田区未顕彰の地域遺産」
として登録します。
大田区の記憶を呼び起こす
「Otapedia」の活動
私たちは
その“名を失いかけたものたち”に、
もう一度まなざしを向け、
記憶の岸辺に呼び戻す営みです。
彼らの活動や
痕跡は消えても、
地域に遺した軌跡を
未来へと伝えていきます。
これらは
「Otapedia独自の呼称」であり
「大田区公式の認定ではありません」。

出典
1.『鵜ノ木同顧』 原田福二 1982発行
2. Wikipedia『目黒蒲田電鉄』
3. Wikipedia『天明鋳物』
4.『大田区鵜の木一丁目横穴墓群7号墓発掘調査報告書』 (2008年)
5.『新大田区百景』大田区役所
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