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東京最後の乗合馬車と大騒動 (入新井・新井宿・池上特別出張所) #423

※本記事は
 Otapedia 公式note(https://note.com/fine_rat5784)のみで
 公開しています。
 無断転載・改変・商用利用を禁じます。
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※史料に基づき記述していますが、
 必要に応じて
 考察が入る場合があります。


(旧)都市計画法が六大都市に適用

1920年 (大正9年) 1月1日
(旧)都市計画法が公布され
東京・大阪・京都・名古屋・横浜・神戸の
六大都市に適用されました。

これにより
街路の整備や拡幅などを
計画的に進めるための
法的な枠組みが整えられました。

道路や街路の整備が進められ
交通だけでなく
消防・衛生・防災など
都市の安全を考えた
まちづくりが行われるようになります。

都市の骨格は少しずつ
「自然発生的な街」から
「計画によって形づくられる街」へと
変わり始めました。


乗合馬車会社設立

1920年 (大正9年) 3月
資本金30,000円
地元の有志5~6人によって
池上運輸株式会社が
設立されました。

池上~下母沢~池上本門寺前(若松屋)間の
乗合馬車事業を開始しました。


途中駅の下母沢

東急バス池上営業所の近く
光教寺の裏手にある
大田区立下母沢児童公園
乗合馬車唯一の停留所でした。

昭和11年~昭和20年
ここに居を構えた
作家の子母澤寛は、
地名をそのままペンネームにしました。

写真:旧池上通りと旧六郷用水の間にある
大田区立下母沢児童公園
(大田区中央4‐28‐14)
撮影:かえる11号

関東大震災

1923年 (大正12年) 9月1日
関東大震災発生を契機に
道路の整備や市街地の再編が進み、
自動車交通が
急速に広がっていきました。


いち早く乗合バス事業を開始

池上電気鉄道は、
池上乗合自動車を設立し、
1927年 (昭和2年) 9月9日
五反田~中延~馬込間で
バス事業を開始しました。

鉄道事業では、
目黒蒲田電鉄に後れを取っていた
池上電気鉄道も
乗合バス事業は好調でした。


目黒蒲田電鉄の乗合バス事業

一方ライバル会社である
目黒蒲田電鉄の目蒲乗合は
池上電気鉄道から遅れること
1年半後の
1929年 (昭和4年) 2月2日に
営業許可を得て
1929年 (昭和4年) 6月25日に
最初の路線、
大井町駅前~東洗足間(大井町線)3.27kmが
営業を開始しました。
同時に
大森乗合自動車を合併し
同社の鬼足袋線
(大森~鶴渡 現森50系統の前身)
が目黒蒲田電鉄の路線になりました。


乗合馬車の最後

池上電気鉄道は、
池上運輸を買収し、
池上乗合自動車による
乗合自動車事業への移行を進めました。

1930年 (昭和5年) 8月16日
東京最後の乗合馬車が
営業を終えました。


乗合自動車の始動と騒動

1930年 (昭和5年) 8月17日
池上電気鉄道による
乗合自動車の運行が開始しました。

しかしこれに対し、
大森駅詰めの
人力車夫60~70名が
池上通りの
現・大森郵便局付近において
人力車を止めて交通の妨害を行いました。

8月17日の運行開始当日、
失業の不安をもつ
大森駅詰の人力車夫たちが
道路に人力車を駐めて交通を妨害。
大森署により
関係者が検束される事態となりました。

翌18日も妨害は続けられ、
さらに多くの車夫たちが
検束・留置されます。

沿線の人力車夫およそ190名は、
その家族920人の
死活問題であるとして組合を設立。
組合長が
全国大衆党員らとともに警視庁へ赴き、
失業対策を求める陳情を行いました。

この紛争は長期化しましたが、
同年8月30日、
大森署長の斡旋により事態が動きます。

入新井町長・蒲田町の関係者、
そして車夫側代表30名が
大森署に出頭し、
解決を一任。

池上電気鉄道側も同様に
大森署に解決を委ね、
14日間にわたる騒動に
ようやく終止符が打たれました。

1901年(明治34年)に
東海道(現・国道15号)の路面を
電車が走りはじめたときも、
人力車夫や乗合馬車業者からの
反対運動が起きました。

こうした事件は、
従来の交通機関から
新しい交通機関(乗合自動車)へと
移行する歴史の中で、
避けて通れない
過渡期の大きな問題だったのである。


池上通り(平間街道)と道路拡張の歩み

関東大震災後の東京郊外における
人口の急増と産業の発展には、
交通機関の発達にともなう
主要道路の改修が不可欠でした。

しかし当時の池上道は、
古くからの狭い道幅のままであり、
乗合自動車が走るにも
非常に困難な状況だったのです。

1929年(昭和4年)7月 
東京府第一道路改修事務所によって
池上道の拡張計画が策定されました。

そして1932年(昭和7年)
震災復興計画に基づき、
従来の4.5mしかなかった道幅を
15mへと広げる大工事が始まります。

工事は段階的に進められました。

1933年(昭和8年)7月
大森郵便局前の旧池上道から
分かれる新道のうち、
入新井第四小学校先の
交差点(現・中央3‐5番)までが完成。

1934年(昭和9年)5月
同交差点から
現・中央7丁目5番付近までが完成。

1937年(昭和12年)4月
八景坂から日枝神社までが完成。

1937年(昭和12年)8月
現・中央8丁目から
池上までの工事が終わり、
ついに全面コンクリート舗装道路が
完成しました。


おわりに

時代の転換期に必ず付いてくる
スクラップ&ビルド。
日本にとっても
大きな転換期でもありました。

Otapediaは、
池上運輸株式会社を
「大田区無名の企業」
として
旧池上通り(旧平間街道)を
「大田区未顕彰の地域遺産」

として
大森駅詰め人力車夫たちを
「大田区無名の組織・集団」
として
東京最後の乗合馬車が
最後の運行を行った
8月16日を
「大田区記憶の日」
として記録します。

大田区の記憶を呼び起こす
「Otapedia」の活動

博物館に展示されない
大田区の歴史を
展示する資料室

私たちは
その“名を失いかけたものたち”に、
もう一度まなざしを向け、
記憶の岸辺に呼び戻す営みです。

その活動や
痕跡は消えても、
地域に遺された軌跡
未来へと伝えていきます。

これらの呼称は
Otapedia独自の呼称」であり
大田区公式の認定ではありません」。


出典
 1.『池上電気鉄道』Wikipedia
 2.『人力車夫が妨害』1930年8月17日 朝日新聞

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