永代橋はなぜ予算化されたのか③――文化六年(1809年)の十組問屋と冥加金の時代 #83
橋の維持費は、通行料だけでは足りなかった。
その不足を埋めたのは、商人たち――十組問屋である。
本稿では『諸色調類集』第8巻に見える文化六年の記述をもとに、
三橋の財政に商業組織がどのように組み込まれていったのかを確認する。
前回はこちらです💁
1 冥加金という負担の登場
史料には次のように記されている。
文化六巳年ゟ菱垣廻船積仲間十組問屋共
名目御定被下候付奉服
御国恩度為冥加追々願之上
金壱万弐百両ツ年之上納
右之外三橋共掛替引受、且御下金返納方をも引受、取渡銭相止
現代語訳
文化6年(1809)以降、菱垣廻船の十組問屋は幕府に認められ、その見返りとして毎年1万200両の冥加金を納めた。さらに、永代橋など三つの橋の修理・架け替えや、工事費の返済も引き受けた。
その結果、それまで徴収されていた橋の通行料は廃止され、

ここで確認できるのは次の点である。
十組問屋が制度的に位置づけられる
年間1万両規模の金を上納
橋銭(通行料)は停止される
つまり橋の維持は、
利用者負担(橋銭)から商業負担(冥加金)へ
と大きく転換している。
2 請負から「組織負担」へ
さらに重要なのは、単なる資金提供ではない点である。
三橋共掛替引受、且御下金返納方をも引受

十組問屋は、
橋の架け替え
修復費の負担
幕府貸付金の返納
といった機能を一体として引き受けている。
これは個別の請負人ではなく、
商業組織そのものがインフラ運営主体になる構造である。
3 見返りとしての町屋敷
この負担に対して、幕府は明確な対価を与えている。
為褒美、十組問屋共江、室町三町目ニ而町屋敷被下候

つまりこれは、
無償の寄付ではない
強制徴収でもない
制度化された交換関係である。
負担と利益がセットになっており、商業組織は公共財の維持を通じて経済的利益を得る。
4 なぜ問屋が関与したのか
この構造が成立した背景には、問屋の性格がある。
十組問屋は、
流通を支配する中核商業組織
幕府との関係が強い
資金動員能力が高い
という特徴を持つ。
そのため、
不安定な請負制度の代替
大規模修復費への対応
として、最も現実的な担い手だった。
5 しかしこの制度も長くは続かない
この仕組みは一見安定している。
しかし史料は次のように続く。
文政二卯年、右三橋共道障有之十組引受、御差止相成候

十組問屋の関与は、文政二年(1819年)に停止される。
つまりこの制度もまた、恒久的なものではなかった。
橋銭(第2回)
冥加金(第3回)
予算制度(第4回)
三橋の財政は、段階的に再編されていく。
まとめ
文化六年(1809年)の段階で、永代橋を含む三橋の維持は、
橋銭による請負から
十組問屋による冥加金へ
と大きく転換した。
ここで成立したのは、
商業組織が公共財を支える制度
である。
しかしこの仕組みもまた一時的なものであり、次の段階ではより行政的な管理へと移行していく。
次回は、文政二年(1819年)以降に現れる「備金」と「年間費用の算定」――予算制度の成立を見ていく。
参考資料
画像から読み解きをサポートしてくれるツール
「ふみのは」
例文が豊富です。典型的な言い回しに慣れるには良いと思います
最初の頃は不要ですが、解読に慣れてきたら辞書が必要です。まだ辞書の力をいかせていない気がします・・
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