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★3rdFireTravel(7)|変わりゆくカシュガル。中国新疆ウイグルの複雑な事情。それでも古城に沈み、日常に溶けていく日々。

パキスタン国境・クンジュラブ峠から戻り、再びカシュガルへ。標高4500mを越える世界から一気に街へ降りてくると、身体より先に気持ちが落ち着いていくのが分かった。あれだけ「果て」まで行ったのに、旅はまだ終わらないどころか、ここから“沈没”が始まるらしい。友人が皆帰国し、気付けば予定は消え、時間は曖昧になり、カシュガルに居続ける理由だけが増えていった。

カシュガル博物館へ
ある日、特に目的もなく電動バイクでカシュガル博物館へ。外の喧騒とは違い、静かにこの土地の歴史が紹介されている場所だった。シルクロード、ウイグル文化、オアシス都市としての記録。「ここは通過点じゃなくて、ずっと誰かが生きてきた場所なんだ」と、当たり前のことを少し遅れて理解する。

カシュガル博物館、立派な箱物

3000年以上前のミイラと対面したウルムチ博物館でも同様に、カシュガル博物館も「無料」
ウルムチ博物館もかなり立派な建物で展示物も凝っていたが、無料。こちらの博物館も無料、このカシュガル博物館の展示スペースはかなりゆったりしており、展示物の数に比べて箱が大きい印象がした。「タダより怖いものはない」と昔からおばあちゃんに言われましたが、客観的に見たので、内容は満足いくもので、ウイグル、特にカシュガルのことがよくわかる展示でした。

メインは一階、二階は少し、三階は街の開発と政府構想
地下は残念ながら展示中止中

今回、私が感じた注目点は、無料であることと関係しているかも。それは、展示が一つの観点から投稿されていること。(ウルムチ博物館でも感じたのですが、カシュガル博物館ではかなり露骨というか直接表現がされていた気がします)
それは、①ウイグル(カシュガル)は元々から中国の領土で、②中国・過去中央政府(共産党含)がいかにこの地域の発展に力を注ぎ、うまくやってきたかという観点からの展示です。
それぞれの展示物コーナーの最初に思想教育的説明があるので、それを要約します。(ここから展示内容の要約がかなり長いので飛ばして、高台民居から読んでいただくのをオススメします、なら書くなって感じですが...笑)

ここから長いので飛ばして下までいってください

■博物館内容(長いのでスキップ推奨)

【前言(プロローグ)】

【要約】
・領土の正当性(不可分の領土):
「新疆は我が国(中国)の領土の不可分の一部である」と明記し、秦・漢の時代から多民族大一統(大規模な統一国家)の枠組みが形成されてきたという歴史伝統を強調している。
・民族の絆(血脈のつながり):
「新疆の各民族は、中華民族という大家族の血を分けた一員(血脉相连的家庭成员)である」とし、中央政府と新疆の少数民族が歴史的に深い血縁・連帯関係にある。
・文化の帰属(中華文化が根底):
「新疆の各民族の文化は、中華文化という肥沃な大地に根ざしている」とし、ウイグル文化を含む地元の文化は独立したものではなく、中華文化の一部(またはそこから派生したもの)である。
・宗教の多様性(多宗教の共存):
「新疆は古来より、複数の宗教が並存する地域である」としています。これは、新疆が「イスラム一色」の土地ではなく、仏教やその他の宗教も交えて共存してきた。
・政治的目標(「正しい」五観の確立):
観覧者に対して「正しい国家観、歴史観、民族観、文化観、宗教観(いわゆる『正確な五観』)」を植え付け、「中華民族共同体意識」を強固にすることで、中国の国家目標である「中国の夢(中国梦)」の実現へ向けて団結することを求めています。

(古くからの故郷、華夏[中華]の子孫が共に守り育む)
新疆の地を「古くからの中国の土地」とし、そこに住む人々を等しく「中華の子孫」と位置づける情緒的なフレーズ。
(新疆は中国領土の不可分の一部である)

【要約】
① 「前漢」から始まる正当性と「多元一体」
中国の多民族統一国家という形は、新疆の各民族を含む全中華の子孫が共に奮闘した結果である。前漢(西漢)の時代から、新疆地区は正式に中国の版図の一部となった。 各民族が共に広大な領土を切り開き、「多元一体」の中華民族という大家族を築き上げてきた。
② 「分裂期(独立期)」の歴史的再解釈
歴代の中央政権は新疆を有効に管轄してきた。歴史上、国家の領土には割拠(分裂)の時期と統一の時期が交互に訪れたが、国家の統一こそが常に主流であった。歴史上、新疆地区には何度も割拠(独立政権の乱立)が見られたが、それらの地方政権もすべて「その時代の中国歴史の一部」である。 分裂の期間がどれほど長く、状況がどれほど深刻であっても、最終的には再統一へと向かった。新疆が常に中国の一部であるという事実は疑いようがない。

(歴代中央政府による新疆の管辖[統治])
前のパネルで宣言されていた「歴史の正当性」を証明するための、具体的な歴史叙述と「物証(出土品)」の展示
遺物名: 「五星出东方利中国」織錦(しきん)
(五星東方に出づるは中国に利あり)

【要約】
我が国は悠久の歴史を持ち、人類最古の発祥地の一つである。中国史上最古の王朝である夏、商、周が中原地区に興り、周辺の部族と融合して「諸夏」または「華夏(かか)」と呼ばれる族群が形成された。春秋戦国時代を経て、華夏族は周辺の東夷・南蛮・西戎・北狄などの諸族と交流・融合し、最終的に紀元前221年に秦始皇が最初の統一封建王朝を樹立。紀元前202年には漢高祖(劉邦)が再び統一王朝(漢朝)を樹立した。
タイトルは「新疆の統治」ですが、本文ではまだ新疆(西域)の話が出てこないです。

(魏晋南北朝時期における新疆の管轄)
右上の石碑(拓本):
トゥルファン(高昌)周辺の古墓から出土した、漢字で書かれた墓誌(お墓の記録)。中国本土の元号(年号)や、中原と同じスタイルの漢字文化が当時の新疆で使われていた強力な証拠として展示。
手前下の絵(壁画の模写):
農民がクワやシャベルを持って農作業をしている様子が描かれています(アスターナ古墓群などの壁画)。「中原の農耕技術が西域に伝わり、定着していたこと」の物証。

【要約】
① 「分裂期でも統治は継続」
三国時代の曹魏(そうぎ)政権は漢の制度を継承し、西域に「戊己校尉(ぼきこうい)」を置いた。西晋も「西域長史」を置いて軍政を管理した。
三国・両晋・南北朝時代、北方の匈奴、鮮卑、丁零、烏桓などの民族が中原に移住し、最終的に漢族と融合した。327年、前涼(五胡十六国の一つ)政権は初めて郡県制を西域に広げ、「高昌郡(現・トゥルファン)」を設置した。448年、北魏は万度帰を西域校尉に任じて焉耆(えんき)に駐屯させ、正式に郡県を設けた。460年から640年にかけて、吐魯番(トゥルファン)盆地には「漢族を主体とする住民」による高昌国が建てられた。
② 「中原の高度な技術が西域を豊かにした」恩恵論
魏晋南北朝時代、シルクロードは開通し続け、新しい物産や技術がもたらされた。西域では稲作や綿花の栽培、養蚕、牧畜、手工業、採鉱、金属冶金が急速に発展した。鉄製農具の普及と牛耕技術の推進により、西域の農産物や経済作物の収量が向上した。西域は、我が国で最も早く綿花が栽培された地域である。織物業(毛・棉・絹)も地方の特色を持ち、染織・紡績技術はかつてない向上を見せた。

(漢王朝時期における新疆の管轄)
中央の額縁:「張博望侯碑記錄文」
西域を開拓した張騫(博望侯)の功績を称える碑文の記録。
「シルクロードを開いた偉大な先駆者」
中央下の丸い瓦(瓦当 - わとう):
漢代の建物に使われていた文字入りの瓦。中原と同じスタイルの建築(=漢朝の役所など)が、当時の新疆に存在していた証拠。
左下のブロンズ製の武器(戈 - か):
漢軍が使用していた武器。本文にある「兵を駐屯させて畑を耕した(駐兵屯田)」という軍事支配の物証。
中央右寄りの小さな印章の写真(3つ):
本文にある「皆佩漢印綬(みな漢の印章を帯びていた)」を証明するもので、地元の首長に与えられた「漢帰義羌長印」などの印章。「地元のリーダーたちも漢の権威を認めていた」

【要約】
① 「西域都護府」による「統一」
紀元前138年と119年、武帝は張騫(ちょうけん)を2度西域に派遣し、大月氏や烏孫と結んで匈奴に対抗し、中原と西域の交流を切り開いた。
紀元前60年、天山北麓を統治していた匈奴の日逐王が漢に降伏し、西漢(前漢)は西域を統一した。 同年、西域の軍事政治を管理する最高機関として「西域都護府」を設置し、鄭吉(ていきつ)を初代都護に任命した。
② 漢の官員
地元の「訳長(通訳官)」「城長(都市の長)」から「侯」「王」に至るまでの全役職が漢朝の印章(印綬)を帯びており、これらはすべて漢の官員であった。
漢の中央政権は西域において国家主権を行使し、行政管理機構を設け、官員を任命し、軍隊を駐屯させて屯田を行い、「戸籍を統計」し、「漢の法律(漢令)を推行」した。 これが後世の歴代中央政権による西域管理の基礎となった。

(隋唐時期における新疆の管轄)
中央の大きな表: 「唐代历任安西 advisory/都护、大都护简表」
(唐代歴任安西都護・大都護簡表)
唐の時代に西域の最高責任者(安西都護府のトップ)として派遣された役人や将軍(郭孝恪や、高句麗系の名将として有名な高仙芝など)の名前、役職、在任期間がズラリと一覧化。

左下のガラスケース内の書状(拓本・古文書):
トゥルファン(アスターナ古墓群など)から出土した、漢文で書かれた当時の公文書や戸籍、売買契約書レプリカ。
「実際に唐の法律や行政システム、漢字文化が現地で機能していた」ことを示す歴史的遺物

【要約】
① 「中央の制度(法律・税制・科挙)がそのまま実施された」隋代に中原の分裂が終わり、新疆における郡県制の範囲が拡大した。突厥(とっくつ)や高昌などの周辺民族が相次いで隋に帰属・朝貢した。
唐代に入ると西域管理は大幅に強化され、天山南北を統括する「安西大都護府(あんせいたいとごふ)」と「北庭大都護府(ほくていたいとごふ)」が設置された。主要官員は中央から任命され、地元の首領も地方官に任じられた。唐の様々な国政命令が西域で実施され、法律の契約制度、学校の設立、科挙(官僚登用試験)制度、さらには均田制(土地制度)、租庸調制(税制)、府兵制(兵制)**までもが西域で推進され、社会文化を繁栄させた。于闐(ホータン)の国王はみずから朝貢し、唐の国姓である「李(り)」の姓を賜った。
② 「シルクロード全盛期と中央の技術」
唐の安定した政治が西域の経済発展を保障した。シルクロードは全盛期を迎え、農業、紡織、醸造などがかつてない発展を遂げた。中原の先進的な耕作技術と完璧な灌漑システムが西域の農牧業を促進した。「絹馬互市(絹と馬の交易)」や「参天可汗大道(当時の主要幹線道路)」、点在する宿場町(駅站)が、西域の先住民と中原の緊密な関係の紐帯(結びつき)となった。

(宋・遼・金・元時期における新疆の管轄)
中央上の青い水差し(図版):
「鳳穿牡丹紋執壺(元)」(新疆霍城アルマリク出土)
元代に景徳鎮などで作られた最高級の「青花磁器(染付)」の破片や水差し。これが新疆から出土したことをもって、「元朝中央の高度な物質文化が西域に届いていた」
中央下の渋い色の皿(図版):
「青釉刻花双魚紋盤(元)」(新疆和静県出土)
これも中原で作られた龍泉窯などの青磁。
右側の大きな茶色い写真:
「アルマリク(阿尔玛勒)古城遺跡」(新疆霍城)
チャガタイ・ハン国の首都として栄えたシルクロードの巨大都市遺跡。大帝国(元朝・モンゴル)のインフラによって、新疆の都市が国際貿易で大いに栄えた。

【要約】
① 宋代:親戚関係
宋代、西域の地方政権は宋朝と朝貢関係を維持していた。高昌回鶻(ウイグル)は中朝(宋)を「おじ(舅)」と尊び、みずからを「外甥(おい)」と称した。カラハン朝も多く使者を送って宋朝に朝貢した。
② 元代:モンゴル帝国の歴史「中国中央政府」
元代に入ると、「北庭都元帥府」や「宣慰司」などが設置されて軍事政務が管理され、西域への管轄が強化された。1251年、西域で「行省制(地方行政制度)」が実施された。
③ 経済・文化:「中原からの恩恵」
五代・遼・宋・金時期、西域の経済はさらに発展し、住民は開墾や都市建設を行い、**中原の先進的な生産技術を導入した。冶金、製陶、ガラス製造技術が発展した。
元代の西域経済は農業が主となり、生産技術や水利インフラが長足の進歩を遂げ、紙幣の流通制度が確立された。「ナシジ(納石失)錦」と呼ばれる金糸織物が登場し、活字印刷術が改良された。

(明清時期における新疆の管轄)
清朝は「新しい土地」という意味で「新疆」と名付ける。

中央の白いパネル: 「清代伊犁将军辖军政机构表」
(清代イリ将軍管轄軍政機構表)
イリ将軍の下に、各都市を治める都統や大臣がどのように配置されていたかを示す巨大なピラミッド型の組織図。「軍事的な征服地ではなく、高度に官僚化された中国の行政組織であった」
右側の茶色い写真群:
イリ将軍府の遺跡(恵遠古城など)や、当時の清朝の役所の門の古い写真。国家の主権と行政が、実際にこのカシュガルやウイグル全体の地で機能

【要約】
① 明代
明代、中央政権は「ハミ(哈密)衛」を設置して西域事務を管理する機構とした。また嘉峪関(万里の長城の西端)とハミの間に、安定、阿端、曲先、罕東、赤斤蒙古、沙州の「6つの衛」を相次いで建立し、これにより西域事務の管理を支えた。
② 清代:多重統治「中央の管理」
1762年、清政府は新疆に「伊犁(イリ)将軍」を設立し、各地に大臣を駐屯させ、部隊編成、都市建設、関所の設置、辺境巡回などを行って西北の安全を維持した。
ウルムチ地区では「州県制」、ハミ・トゥルファン地区やモンゴル諸部族には「ジャサク(札薩克)制度」、天山以南(タリム盆地など)では現地の役人制度である「ベグ(伯克)制」を実行した。
③ 「西遷」と「東帰」
清朝が天山南北を統一した後、内地からシベ(錫伯)族などの諸族の軍民を新疆へと移住(西遷)させ、またロシア側から戻ってきたトルグート・モンゴル部衆を適切に安置(東帰)した。これらは辺境の防衛と建設に重要な役割を果たした。
④ 1884年の「建省」:現代への直結
1884年に新疆建省が行われ、巡撫(省の長官)を置いてウルムチに駐屯させ、通常の行政区画(道、府、庁、州)に組み込んだ。

(中華の血脈、千秋万代[永遠]にわたり融合し合う)
(新疆の各民族は中華民族の血を分けた大家族の一員である)

【要約】中華民族の形成と発展は、中原の各民族・文化と、周辺の諸民族・文化が絶え間なく交流・融合してきた歴史である。先秦時代の「華夏(かか)族」は、周辺部族との長期的な融合(特に春秋戦国時代の500年に及ぶ大動乱)を経て、秦漢の時代にさらに融合し、中原の人口の大部分を占める「漢族」を形成した。そして、漢族が中国歴史の主体民族となった。魏晋南北朝時代には、北方の少数民族が中原へ大移動して「大融合」が起きた。13世紀の元朝(モンゴル)の成立は、かつてない規模の民族移動を促し、元朝の領内一帯で「民族が雑居(混ざり合って住む)する局面」が形成された。こうして、中華の各民族は長期的な発展の中で、最終的に「大雑居・小聚居(国全体では混ざり合い、局所的に集まって住む)」という分布の特徴を持つに至った。

(ウイグル族は長期にわたる移動と融合を経て形成されたものである)
(回鶻[ウイグル]移動ルート)

【要約】
① 「突厥(トルコ)」との血縁関係の否定
ウイグル族の先民の主体は、隋唐時期にモンゴル高原で活動していた「回纥(かいこつ/ホイフ)」人である。当時、彼らは突厥(とっくつ)による圧迫と奴隷化に反抗するために各部族で同盟を結んだ。
② 唐王朝による「お墨付き(正統性)」
744年、諸部族を統一した回纥の首領「骨力裴羅(こりはいら)」は、その功績によって唐王朝から『懐仁可汗(わいじんかがん)』に冊封され、漠北に回纥汗国を建てた。788年、支配者は唐朝に上書し、自ら「回鶻(かいこつ/フイグ)」と改称することを願い出た。
③ 「漢族を含む多くの民族のちゃんぽん」という主張
840年、回鶻汗国はキルギス(黠戛斯)に滅ぼされ、一部は内地に移住して漢族と融合したが、残りは西域(新疆)へと移動した。西域に移った回鶻は、吐魯番(トゥルファン)盆地の『漢人』や、タリム盆地の焉耆(えんき)人、亀茲(きじ)人、于闐(うてん)人、疏勒(そろく)人などと融合し、近代ウイグル族の主体となった。元明時期にはさらに蒙古(モンゴル)人とも融合した。
④ 「維吾爾(ウイグル)」という漢字
1934年、新疆省政府は政府令を発布し、「維吾爾」という漢字を公式な規範的呼称と定めた。その漢字の意味は『あなたと私の団結を維持する(维护你我团结)』であり、ウイグルという名称の本来の好意を初めて正確に表現したものである。

(交流と融合、共同での開拓)
手前下の土管や瓦(瓦当 - わとう):
漢代や唐代の役所・都市遺跡から出土した、中国式の土木・建築資材(水道管や屋根瓦)
中央の人物肖像画:
清代に新疆の開拓や屯田、水利事業(カナートと呼ばれる地下水路の整備など)に関わった、中央から派遣された地方官や将軍の姿

【要約】
① 民族のサラダボウル化
新疆地区を最も早く開発したのは、先秦から秦漢時期に天山南北に生活していた塞人(サカ)、月氏、烏孫、羌、亀茲、焉耆、于闐、疏勒、莎車、楼蘭、車師、および匈奴、漢人などである。魏晋南北朝時期の鮮卑、柔然、高車、エフタル、吐谷渾、隋唐時期の突厥、吐蕃、回紇(ウイグル)、宋遼金時期の契丹、元明清時期の蒙古、女真、タングート、カザフ、キルギス、満、シベ、ダウール、回、ウズベク、タタール族など……。
② 「漢族」も最初期開拓者の一つ
それぞれの歴史時期において、漢族を含む異なる民族の大量の人口が新疆地区に流入し、異なる生産技術、文化的観念、風俗習慣をもたらし、交流と融合の中で経済社会の発展を促進した。彼らは新疆地区の『共同の開拓者』である。
③ 過去「漢族過半数」
唐代、中央政府による西域管理の深化にともない、漢族の人口が大量に増加した。西州(トゥルファン)、伊州(ハミ)、庭州(ジムサ)では、大部分が漢族の民衆であり、西州と伊州ではその割合がさらに高かった。

(開放と包容、多くの宗教の並存)
(多元的な融合、多種多様な宗教が西域に集う)
(新疆は古来より、多くの宗教信仰が並存する地域である)

【要約】
① 新疆=宗教のちゃんぽん化
紀元前4世紀以前、新疆には原始宗教があった。紀元前4世紀以降、祆教(ゾロアスター教)、佛教、道教、摩尼教(マニ教)、景教(ネストリウス派キリスト教)、イスラム教、カトリック、プロテスタント、東正教(正教)などの多様な宗教が次々と新疆に伝わった。新疆の宗教史の特徴は「一教または二教が主流となりつつも、多数の宗教が並存する」ことであり、交融と共存こそが主流である。
② 神話現地化「血脈の証明」
トゥルファンのアスターナ古墓群から出土した『伏羲女媧図(ふくぎじょかと)』は、中原の絵画スタイルを継承しつつも、中国の創世神である伏羲と女媧を「目が深く鼻が高い『胡人(西域の外国人)』」として描いている。
漢族と胡人の2つのスタイルが同時に現れていることは、古代の新疆の住民が「祖先崇拝」という認識において中原と深い統一に達していたことを示しており、新疆と祖国内地が「同じ根、同じ源(同根同源)であり、血脈がつながっている」ことをさらに証明している。

上段(左から): 蔵伝佛教(チベット仏教)、摩尼教(マニ教)、佛教(仏教)、原始宗教
下段(左から): 景教(ネストリウス派キリスト教)、伊斯兰教(イスラム教)、道教、祆教(ゾロアスター教)
*イスラム教の「ワン・オブ・ゼム(数ある中の一つ)」

左側の図: 比較的、中原(漢族)の伝統的なタッチに近い端正な顔立ち。
右側の図: 衣服の模様や顔の陰影、輪郭などが、明らかに西域(シルクロード・イラン系文化)の影響を色濃く受けたタッチ。
長いの終わり、ここからでイイかも

■博物館内容終わり(ここからでイイカモ)

「续写新的篇章」(新たな章を書き続ける)

① 「1955-2025」:新疆ウイグル自治区成立70周年の節目
② 「笑顔の子供たち」が作るハートマーク
③ 足元に転がる「ザクロ(石榴)」の決定的な意味
習近平国家主席が掲げた高名なスローガンに、次のようなものがあります。「各民族は、ザクロの種のように緊密に抱き合わなければならない(各民族要像石榴籽一样紧紧抱在一起)」
内容盛りだくさん書いてしまいましたが、要は、新疆ウイグルはウイグル族がずっと住んでた地域ではなく、歴史的にも漢民族もおり、そして元々中国であるということです。

皆さんどう思われますか?

高台民居へ
次に向かったのは高台民居(イェンギサール旧市街の一部)。土とレンガで積み上げられた家々が崖のように連なり、細い路地が無数に伸びている。住んでる人もおらず、観光地として整備されてしまっていました。

高台民居入口、観光用に政府が造ったっぽい
皆ここで映える写真を撮る
高台にある古い住居
今は誰も住んでいない
観光地化
後ろにはビルが。。。
復元中
少し上に上がると、昆仑塔と観覧車が見える
近くに建設中ビル
2023年2月公布、文化街区
保護し、綺麗になっていく

観覧車から見るカシュガル
なんとなく観覧車に乗った。上から見るカシュガルは、想像よりずっと“普通の都市”だった。しかし視点が少し上がるだけで、街の形がはっきり見えてくる。古城の迷路のような構造、外側に広がる新しい街。

カシュガルの古城隣の観覧車
お客は私のみ
古城とビル群
着々と観光地整備が進む
山々に囲まれる、色々ごっちゃ混ぜ
高いところから古城全体
先ほどの高台民居

この街は普通の街になってほしくないなぁ....

古城の中をブラブラ
それから、古城の中をブラブラと散歩、来た時はうぁー2000年以上前の街だーっとか感動していましたが、博物館、高台民居、ビル建設状況等を見てしますと、色々なことが見えてきました。
古城の中も、メイン通りは、漢民族向け(インスタ映えするよう)に作り替えられているのだなっと思いました。最も路地に入れば、紀元前の街の雰囲気はあるのですが、いずれにしても政府の観光施策でキレイなっています。

AAAAA国家級旅行景区
映え写真SNS用コルプレ屋
明らかに後から追加した外装
カシュガルから台湾まで5657km、旅行者心くすぐらせる
一斉ライトアップ
路地もライトアップ、ほんとの裏路地は真っ暗でした
古城風の造られた街
古城風の造られた街
古城中から昆仑塔

古城の中には学校もあって、私が宿泊していた民宿の前もよく子供たちが通っていきました。中国の学校で児童が身につけている赤いスカーフ「紅領巾(ホンリンジン)」(中国共産党が指導する少年少女組織「中国少年先鋒隊」の団員証)を着用していて、学校ではウイグル語を話すことが禁じられて、北京語に統一されているとのことも聞いています。現実として、ウイグルの老人は北京語で話しても理解してくれませんが、若い人は北京語が全く問題なく話せます。

カシュガル第一小学校、紅いスカーフ着用の生徒たち

徐々に、世代を超えて、中原(中国)の思想が広がっていくのを見ている感じでした。

宿で出会う人々
カシュガルでは、宿にいる時間が一番長くなってしまいました。20元(470円程)のドミトリーに泊まってましたが、共有スペースで仕事したり、向かいのカフェでコーヒー飲んだり、毎日宿にあるビールを飲んだり、ダラダラしてました。気付けばそこには、いろんな国の人が集まっていました。話をしたり一緒に飲んだ人は、中国人、オーストラリア人、スイス人、ウイグル人、韓国人等。(日本人は一回も合わなかったです)夜になると、誰かがビールを開けて、自然とテーブルが会話の場になる。
「どこから来たのか」「これまでどこを旅してきたのか」「これからどこへ行くのか」同じ場所にいるだけで、人生の断片が勝手に並んでいく。

宿の真ん中にある木🌲
ここは昔は外国人が多いbackpacker宿では?今のオーナーは漢民族、客も80%漢民族

オーストラリア人は中央アジアの長期旅の話をし、スイス人はパミール高原の話をして、中国人は国内のまだ行っていない辺境の話をする。
私はクンジュラフ峠を越えてパキスタンへ行きますが、このルートを誰も行かないということにびっくりしました。というのも、私は20年以上前世代のバックパッカーなのでこのルートは黄金ルートだと思っていました。中国→パキスタン→イラン→トルコがシルクロードのベーシックルートだと思ってました。
しかし、今、中国人の若いバックパッカーはパキスタン側には行かず、別のルートが主流のようです。
・中国伊利からカザフスタン🇰🇿→キルギスタン🇰🇬→タジキスタン🇹🇯→ウズベキスタン🇺🇿→飛行機で✈️トルコ🇹🇷  (トルクメニスタン🇹🇲ビザが難しくウズベキスタンからトルコへ飛行機で飛ぶようです)
これも一帯一路の影響ですかね。今後の楽しみルートが増えました。私もこのルート、次回、試そうと思います。そして、ウイグル人の青年との飲み、中国人と飲んでる時の態度と、二人で飲んでる時の態度、明らかに違い、皆といると時は話題を警戒しているようでした。二人で飲んでるときは警戒はないですが、敏感な話はやめてくれと言われました(どこで音が拾われているかわからない)。何かあったら親子供三世代問題に影響があるとか.......
重い現実を突きつけられました。

動かない日々と、沈没という感覚
観光はしている。でも、それ以上に“滞在している時間”が増えていく。朝起きて、適当に歩いて、何か食べて、宿に戻る。それだけで一日が終わる日もある。本来なら「停滞」に見える時間かもしれない。でもカシュガルでは、それがなぜか心地よかった。

宿の向かいの珈琲屋☕️

旅のスピードが、完全に変わってしまった。
カシュガルは“目的地”ではなく“滞在地”だった
パミール高原、白沙湖、クンジュラブ峠。あれほどの景色を越えてきたのに、今の自分の記憶に強く残るのは、実はこの街での何気ない時間だったりする。何も起きない日。人と話す夜。意味もなく歩く昼。宿の人たちとの飲み会。それらが積み重なって、気付けば「沈没」と呼べる状態になっていた。しかし、中央アジアへ旅立っていく中国人バックパッカーを見送って、自分の目的地はカシュガルではなく、風の谷フンザであることを思い出します。また、ウイグルの青年とのやり取りも私を現実に戻し、そろそろこの状態に区切りをつけてもよいかなと決心をさせたかもです。特にウイグル青年とのやり取りが、私にとって便利で楽な中国からの出国覚悟を決めさせた要因の一つかもです。一週間少しの滞在に区切りをつけて、次の目的地を目指すのでした。

⸻次回予告
・パキスタンビザ取得のリアル
・ウイグル辺境通行証の取得
・パキスタンへ、クンジュラフ峠越え
旅はまだ終わらない。むしろ、ここからが一番長いのかもしれない。

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カシュガル沈没Traveller より

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