見出し画像

奴隷からスルタンになった男

【#104_THE_SLAVE――Human Bug Report】
世界の紛争が終わらない。

常任理事国二国が紛争を起こしているのが、歴史的に見ても珍しい時代だとも言えるだろう。

日本でも戦国時代が人気である。
国が分かれ、
領主が争い、
昨日までの味方が敵になり、
国境を越えて軍勢が押し寄せる。

ドラマの影響で、身分の低かった豊臣秀吉にスポットが当たることも多い。

農民から天下人になった。
これは確かに、とんでもない出世である。
しかし世界を見渡すと、
もっと面白い歴史がある。

日本ではマイナーである。
いや、
世界史を知っている人間にとっても、
それほど有名ではないかもしれない。

奴隷からスルタンになった男がいる。
しかも、
モンゴル軍を止めた。

その男の名は、バイバルス。


13世紀。

ユーラシア大陸には、巨大な帝国が存在していた。

モンゴル帝国である。
チンギス・ハンが築いた帝国は、その死後も拡大を続けた。

東へ。
西へ。
そして、中東へ。

モンゴル軍が来る。
都市が落ちる。
国が滅びる。
王が殺される。

1258年。
モンゴル軍を率いるフレグは、バグダードを攻略した。

バグダード。
イスラム世界の中心ともいえる都市である。

アッバース朝のカリフも殺された。
そしてモンゴル軍は、さらに西へ進む。

ダマスカスも陥落した。
次は、エジプトかもしれない。

この時代のイスラム世界にとって、モンゴル軍は軍隊というより、
災害に近かった。
ところが、その前に立ちはだかった男がいた。

バイバルスである。

■ 奴隷だった男

バイバルスは、

最初から王子だったわけではない。
貴族でもない。
スルタンの息子でもない。
奴隷だった。

キプチャク系遊牧民の出身とされる彼は、少年時代に捕らえられ、
奴隷として売られた。
そして、エジプトへ送られる。

そこで、マムルークとなった。

マムルーク。
イスラム世界で軍人として育てられた軍事奴隷である。

奴隷なのに、軍人になる。
そして、能力があれば出世する。

現代人からすると、奇妙な制度である。
身分は奴隷。

しかし、軍事能力があれば、
統治する側へ上がっていくことができた。
バイバルスは、その世界で頭角を現した。

やがて、戦場で名を上げる。
そして、モンゴル軍と向き合うことになる。

■ モンゴル軍が来た

1258年。バグダード。
1260年。ダマスカス。
次はエジプト。

しかし、
ここでモンゴル帝国に異変が起こる。

モンゴル帝国の大ハーン、モンケ・ハーンが死んだ。
中東征服を進めていたのは、モンケの弟フレグだった。

フレグは軍の大部分を率いて、東へ戻らなければならなくなった。

中東に残されたモンゴル軍は、手薄になった。
マムルーク軍は、動いた。

「今しかない。」

1260年9月3日。
パレスチナ。
アイン・ジャールート。

ここで、モンゴル軍とマムルーク軍が激突する。

■ 退く

バイバルスは、マムルーク軍の先鋒を務めた。

目の前にいるのは、モンゴル軍。
あのモンゴル軍である。
チンギス・ハン以来、ユーラシアを席巻してきた軍隊。

バグダードを落とし、
ダマスカスを落とし、
国々を震え上がらせてきた軍隊。

バイバルスは、
その軍隊の前に出た。

騎兵が走る。
弓が飛ぶ。
砂塵が舞う。

そして、バイバルスは退いた。

少しずつ。
さらに、少しずつ。

モンゴル軍が追ってくる。
バイバルスは、また退く。
敵から見れば、マムルーク軍が崩れている。

勝てる。
そう見えたかもしれない。

だから、追った。
追い続けた。

しかし、これは敗走ではなかった。

バイバルスは、敵を連れて行っていた。

その先へ。
その先へ。
モンゴル軍を、罠の中へ。

やがて、地形の向こうにマムルーク軍の主力が現れる。

スルタン・クトゥズの軍である。
伏せていた兵が動く。
バイバルスが、振り返る。

そして、反転した。
逃げていた騎兵が、一斉に向きを変える。
モンゴル軍の前には、さっきまで逃げていた敵。

その背後には、新たな大軍。
一瞬で、戦場の意味が変わった。

弓が飛ぶ。
騎兵が突っ込む。
怒号が響く。
モンゴル軍も反撃する。
激戦になった。
モンゴル軍の指揮官キト・ブカも戦った。
しかし、
次第にモンゴル軍が崩れていく。

そして、キト・ブカは捕らえられ、

処刑された。

マムルーク軍が勝った。

アイン・ジャールートの戦いである。

もちろん、バイバルス一人がモンゴル軍を倒したわけではない。

クトゥズが全軍を率いていた。
しかし、バイバルスの働きは重要だった。

そして、この勝利は大きかった。

モンゴル軍は、無敵ではなかった。
中東への大規模な西進は、ここで止まった。


ところが、
ここから、さらに妙なことが起きる。

■ 英雄は、王になった

戦いに勝った。
モンゴルを止めた。
普通なら、英雄として終わる。

ところが、バイバルスは終わらない。
戦いの後、彼はスルタン・クトゥズと対立した。

そして帰路。
クトゥズは殺害された。
その後、バイバルスがスルタンになった。

ここで、少し立ち止まりたい。
さっきまで、

「モンゴルからイスラム世界を救った英雄」

だった男が、その直後には、

「自分の上にいるスルタンを殺して王座に就いた男」になっている。

同じ男である。
英雄と、権力者。

その二つが、同じ人間の中に入っている。
これが、バイバルスという人物の面白いところである。
奴隷だった男が、スルタンになった。

しかも、ただ王座を譲られたのではない。
自分で、王座を取りに行った。

■ 王座に座って終わらない

しかし、バイバルスは王座に座って満足する男ではなかった。

次の敵がいる。
十字軍国家である。
中東には、第一次十字軍以来のキリスト教勢力が残っていた。
バイバルスは、これらを次々と攻撃していく。

1268年。
アンティオキアを攻略。

さらに要塞を攻撃し、支配領域を広げる。
1271年には、十字軍の重要拠点の一つだったクラック・デ・シュヴァリエも陥落させた。

そして、エジプトとシリアを支配する国家を強化した。

モンゴルを止めた。
十字軍とも戦った。
王座にも座った。

しかし、それだけではなかった。

■ 剣だけでは国は作れない

バイバルスは、

単なる戦争屋ではなかった。
道路を整備する。
駅伝制度を整える。
要塞を建設する。
通信を整える。
国家の軍事・行政基盤を強化していく。

さらに、バグダードを滅ぼされたアッバース朝のカリフをカイロに迎えた。

カリフを置くことで、
自分たちの支配に、イスラム世界の正統性を与えようとしたのである。

剣だけではない。
政治。
宗教。
外交。
軍事。
すべてを使った。

メトロポリタン美術館も、バイバルスを単なる軍事指導者ではなく、行政に注意を払い、建築事業などを支援した統治者として紹介している。

つまり、奴隷だった男は、国を動かす側になった。

■ スルタンとは何なのか

日本人には、少し分かりにくい。

天皇。
将軍。
国王。
皇帝。

こうした言葉なら、何となくイメージできる。
スルタンとは、イスラム世界で世俗的な政治・軍事権力を握る支配者が用いた称号である。

時代や地域によって意味は変化する。
バイバルスの場合は、エジプトとシリアを支配する君主だった。
つまり、奴隷だった男が、
軍隊を率い、
政治を行い、
外交を行い、
宗教的権威まで利用して、国家を動かしていた。

出発点は、奴隷である。

■ 人間は、上を目指す

ここまで来ると、バイバルスの人生は、一つの物語に見えてくる。

少年時代。
捕らえられる。
奴隷として売られる。
エジプトへ送られる。
マムルークとなる。
軍人として出世する。
モンゴル軍と戦う。
モンゴル軍を止める。
味方のスルタンを殺す。
自分がスルタンになる。
十字軍と戦う。
国家を強化する。

まるで、誰かが脚本を書いたようだ。
しかし、創作ではない。

歴史である。
ここで、豊臣秀吉を思い出す。
秀吉も、最初から天下人だったわけではない。

低い身分から出発し、
織田家で頭角を現し、
やがて天下を取った。
バイバルスは、もっと極端だった。

奴隷から、スルタンになった。

二人に共通しているのは、血筋だけでは説明できない上昇である。

しかし、これは単純な成功物語ではない。

二人とも、戦争という巨大な混乱の中で、上へ登っていった。

時代があった。
才能があった。
偶然があった。

そして、本人の欲望もあった。

人間は、上を目指す。
問題は、どこまで上へ行けば、満足するのかである。

■ 猫は王座を欲しがらない

猫は、自分の身分を気にしない。

王様の前でも、平気で寝る。
奴隷の家でも、平気で寝る。
高級な絨毯の上でも寝る。
段ボール箱の中でも寝る。

昨日まで野良だった猫が、

今日から突然、
「私は貴族です」と言い出すこともない。

■ 英雄と悪党は、同じ人間である

バイバルスを、英雄としてだけ見ることはできない。

モンゴルを止めた。
イスラム世界を守った。
国家を強くした。
これは事実である。

しかし、味方のスルタンも殺した。

敵には容赦がなかった。
権力を奪った。
自分の王座を守った。

つまり、善人だったわけではない。
聖人でもない。
現代の価値観から見れば、
恐ろしい人物でもある。
それでも、歴史を動かした。
ここが、人間の面白いところである。

歴史に名前を残す人間は、必ずしも、「良い人」ではない。
ものすごく有能な人間が、ものすごく恐ろしいことをする。
その両方が、同じ人間の中に存在する。

【デバッガー所感】

バイバルスという男を見ていると、人間には、妙なバグがあると思う。
人間は、生まれた場所を気にする。

家柄を気にする。
身分を気にする。
肩書きを気にする。

そして、他人が自分より上なのか、下なのかを気にする。

ところが歴史を見ると、その「上」と「下」が、時々ひっくり返る。

農民が天下人になる。
奴隷がスルタンになる。
昨日までの敗者が、
今日は王になる。
そして、昨日までの王が、明日には死んでいる。
人間社会は、身分というシステムを作る。

国境というシステムを作る。
権力というシステムを作る。
そして、そのシステムを守るために、戦争をする。
ところが、そのシステムの最下層から、
時々、
システムそのものをひっくり返す人間が出てくる。

バイバルスは、その極端な例だった。
奴隷として売られた少年が、モンゴル軍の前に立つ。

ここまで来ると、人間の能力というものが、少し怖くなる。

能力は、人を救うこともできる。
国家を作ることもできる。
しかし、権力を奪うことにも使える。

だから、
「有能な人間」と、
「善良な人間」は、別の問題なのである。

これは、現代でも変わらない。

会社でも、
政治でも、
組織でも、
同じことが起きる。

能力のある人間が、
必ずしも優しいとは限らない。

優しい人間が、
必ずしも権力を持つとも限らない。

そして、
権力を持った人間が、必ずしも幸せになるわけでもない。
それなのに、人間は王座を作る。
王座ができると、そこに座りたくなる。

そして、誰かが座れば、今度は、それを奪いたくなる。
人は、自分の生まれを選べない。

しかし、その後に何をするかまでは、完全には決められていない。

そして、
人間は時々、
自分でも想像しなかった場所まで行ってしまう。

人間は、
案外、
とんでもないことをする。