「小沢健二」という生き方(『ミュージック・マガジン』2012年5月号掲載文・初稿)

これからはオザケンのことは芸術家とか思想家って呼ぶことにするよ

「オザケン」について、新聞や雑誌などで書かれる機会はとても減った。なぜプロの物書きは、オザケンについて積極的に触れないのだろう。例えば現代日本の論点「原発政策」について、オザケンはあまりにも誠実で冴えた文章を執筆している。しかしそれを取り上げるメディアはあまりにも少ない。これはちょっと危険な感じがする。
その理由はいくつかあって、まず音楽誌においては、これまでの「レコード会社のプロモーションとしての掲載」が、「すべて自分たちで行う」現在のオザケンの活動では存在しないことが挙げられる(そんな中、独自の特集を組む本誌の快挙と暴挙に拍手!)。さらに、「140字」や「産業(3行)で」等、短い文章を好む風潮も影響しているかも知れない。しかしもっとも大きな理由として、これまでの「ミュージシャン」という経歴が、彼を正当な評価から遠ざけているように思われる。

小沢健二は「ミュージシャン」ではない

だからこう考えよう。もはやオザケンはミュージシャンではない。今の彼は、主に音楽を奏でる「芸術家・思想家」なのだ。
芸術家というのは、岡本太郎とかダリとか、大竹伸朗とか沼田元氣とか。思想家というのは、アリストテレスとか孔子とか、カントとか中沢新一とか、村上春樹とか東浩紀とか、上野千鶴子とか宮崎駿とか、内田樹とか蓮實重彦とか。どちらもその作品や活動を通じて、僕たちの社会や心をつくる職業だ。
確かにオザケンは主に音楽をつくる人だ。しかしそれはあらゆる手段の中で、音楽を選び取ったに過ぎない。昔の人が「すべての芸術はつねに音楽の状態にあこがれる」と言ったように。
音楽はただの空気の振動なので、形がない。でも形がない分、「人々に純粋なイメージを与え、記憶に刻まれ、心を作る」という力が、他の芸術に比べて強い。そこにオザケンの真骨頂でもある「歌詞」が入ることで、イメージを描く手助けをし、さらに強い気持ちを作り出せている。
そんな音楽の長所を活かす「芸術家・思想家」が、今のオザケン。「いつの間にか姿を消したり、社会について語り出したり、急にコンサートをやるって言ったり、作品集を売り出したり、訳わかんない!」とお嘆きの仔猫様も多いだろうが、誰も考え付かない・予想できないことを提示するのが芸術家・思想家なのだ。

芸術を愛し、心をつくる一族の出身

芸術家・思想家としてのオザケンの生き方を俯瞰するには、彼の一族も少しだけ考慮する必要がある。
「世界のオザワ」、といえば指揮者・小澤征爾。もはや説明の必要もないが、オザケンの叔父にあたる人。もう一人の伯父は陶芸家だ。さらに、オザケンの父はドイツで賞も取った文学者、母は数々の著作を発表している心理学者。人々の「心」をつくったり考えたりしてきた一族である。
本人も、「征爾叔父や父の他の兄弟や父、母、その友だちは、ある独特の雰囲気を共有していて(略)大きく影響された」(『モンキービジネス』14号/11年)と語っているように、オザケンが芸術家として歩み出したのは自然な流れであった。
さらに、父方の祖父にあたる方は、日本の現代史を研究する上では欠かせない小澤開作という豪傑で、東北アジアに「アメリカのような多民族国家」をつくろうとした人。思想家としてのオザケンは、そんな一族の系譜をたどると理解しやすい。

9年間の「賢い王子様」期

オザケンが主に「ミュージシャン」として活動していたのは、89年から98年の約9年間。奇妙な符合だがこの期間は、日本の音楽ソフトの売り上げが急上昇し、ピークに達する時期と一致する。
東京大学に通いながらフリッパーズ・ギターというバンドで登場したオザケンは、91年に解散するまで3枚のアルバムを発表。その巧みな音楽編集センスと非凡な歌詞により、「フリッパーズ以前・以後」と呼ばれるほどの影響を音楽界に与えた。
93年からソロ活動を開始。タモリも絶賛した深く濃い歌詞、厚いサウンド、古今東西の名曲を厳選・分解・再構築したメロディーで、バンド時代を超える知名度を獲得する。息継ぎできぬほどに詰め込まれた歌詞を全身全霊で歌い上げる姿、文化系女子の必読誌『オリーブ』で発表した美文、そしてテレビ番組などでの強烈な「王子様キャラ」とあいまって一世を風靡した。
この時期、3つの大きな事件が日本を震撼させる。阪神淡路大震災、オウム、バブル崩壊後の景気低迷だ。人々が「時代の終わり」「ポストモダン」を体感していたちょうどその時、彼は底抜けに明るい「全肯定」の作品を通じて、人々に魔法をかけ続けた。

危険な海外放浪「思想家」期

ところが98年からの13年間、彼はニューヨークに活動の拠点を移し、メディアとの接触をほぼ断絶する。実際は2枚のアルバムと1枚のシングル集を出し、小説を連載し、映画の上映会を30回ほど開催していたのだが、多くの人々にとって「音信不通」となってしまった。
何が彼をそうさせたのかは、最近になって本人の口から語られる。曰く、「当時の僕は自分がやっていることを知れば知るほど、これ、このまま続けてはいけないと言うか、続けなくてもいいことなのかなと思うようになりました。(略)むしろ、音楽がとても好きなので続けなくなった、という方が当たっています。」(USTREAM/12年)
前述の通り98年は、日本の音楽ソフトの売り上げが最高潮に達した年。大量の音楽が、聞かれ・買われ・歌われ・踊られ、飽きて忘れられていた。しかも人々は音楽を「自分で選んで聞いている」と思ってはいたが、実際はテレビ・映画等とのタイアップ(『Jポップとは何か』烏賀陽弘道/05年)や、過剰なまでの「自分らしさ」の押し売り(アドルノの「エセ個性尊重」と同義。『増補ポピュラー音楽と資本主義』毛利嘉孝/12年)により、「誰かに選ばされていた」に過ぎなかった。オザケンのように純粋で聡明、しかも母親譲りの「心理学の知見」もある人なら、そんな状況に疑問を持つのは当然のことだった。
そこから彼の「見つからない何かを探す」旅が始まる。ニューヨークに住み続けるのではなく、多くの時間を旅に費やし、しかも「安全」とは程遠いベネズエラやボリビア、南アフリカやパレスティナ、インドやラオスなどで家を借り、数か月単位で滞在した。希少金属の鉱山や危険な闇市に命がけで潜り込んだり、身体じゅうをノミが食い荒らす地下教会や灼熱の砂漠に飛び込んだり。かつての「王子様」とは実に縁遠い生活だ。村上春樹がエルサレム賞でイスラエルを訪れていたのとほぼ同時期には、オザケンは爆撃が続くガザ地区のそばに住み、地元住民とともにその悲しみの真っ只中で文章をつむぎ出してもいた。

音楽の可能性を模索「芸術家」期

そんな長い長い旅により、彼は「答え」を見つけたようだ。10年に突如、全国コンサートツアー「ひふみよ」を発表し、かつてのファンからは「音も聞こえないぐらい」の熱狂を持って迎え入れられる。そしてその後の「新曲ダウンロード販売」「CDボックス販売」に続き、「東京の街が奏でる」コンサートに至る。
新生・オザケンを理解するには、いくつかのキーワードが挙げられる。「手づくり」「大衆音楽」「芸術家とパトロン」「日本語で表現するということ」「ものとして愛される商品」「アメノウズメ」などなど。これらの解説は他の機会に譲るとして、かわりに、「心」をつくることを意識する芸術家・思想家としてのオザケンのテーマを3つだけ紹介する。
一つは「日本語の音楽」。バッハやビートルズたちが発明した西洋の音楽に対し、日本の立場から応える「はっぴいえんど」以降の流れと通じるものがあり、世界と日本、音楽と日本というものをいつも真摯に突き詰めている。それには「比較」がもっとも有効な手段。だからこれからもオザケンは、日本の外から、日本語とそれをとりまく状況について考え、発表してくれるだろう。
二つめのテーマは、「ほんとうのことって何だろう」ということ。別の言葉で彼は、「どこかに光があるはずだ」とも表現していた。この考えは、ソロデビュー時に披露された「サタデーナイト・フィーバー」や、渡米直前に発表された「ある光」の歌詞、または前述の映画上映会での発言などからも伺われ、いつも彼は純粋な好奇心とスマートな頭脳で、「ほんとうのこと」を探している。
そして三つめは「時」。音楽は「時の芸術」(「東京の街が奏でる」モノローグ)である以上、これまでの時の積み重ね(歴史)とは無関係でいられないからだ。
これら、あるいはこれら以外を急いで理解する必要はない。オザケンの作品は、後から目が覚めるように来る「そうか!」が面白いのだから。
『論語』にいうところの「惑わない」年齢に達したオザケン。しかし芸術家・思想家としての「天命を知る」までは、まだ時間がある。本人も「これからのことはわかりません。これからのことがわからなくていい、という贅沢をありがたく生きています。その中から、何か自然に出てくるものがあればやります。」(前掲『モンキービジネス』)と言っているように、それを楽しみに待とう。何かをしながら、あるいは何かをあえてしないで。あなたが気になっているオザケンという人物は「本物」。このまま信じて「オッケーよ!」

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