八幡神はいつ応神天皇になったのか
仁徳天皇と菟道稚郎子の並立は古い政治史の問題であり、宇佐の応神・春宮祭祀は、それを後世に再構成した祭祀史の問題である。
この二つは区別して考える必要がある。
宇佐は最初から応神王統を伝えていたのか
前稿では、宇佐八幡が「応神天皇―菟道稚郎子」の王統を伝えていた可能性を提示した。
しかし、史料の成立年代を考慮すると、この部分は修正する必要がある。
宇佐に最初から応神王統が存在したとは限らない。
より慎重に考えるなら、宇佐の祭祀は次のように変化した可能性がある。
第一段階
御許山・比売神などに関係する宇佐地域固有の祭祀が存在した。
第二段階
後世の縁起・氏族伝承では、大神氏・辛嶋氏などが八幡祭祀に関与したとされる。八世紀には八幡神が、大仏造立や国家的危機に託宣を下す国家神として正史に現れる。
ただし、この段階の正史は八幡神を応神天皇とは説明していない。
第三段階
769年の道鏡事件を通じて、八幡神が皇位継承の可否を判定し、「皇緒」を守る神として歴史の表面に現れた。
第四段階
九世紀前半、応神化以前の八幡神に応神天皇の人格が重ねられ、844年成立の『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』には、八幡神が「品太天皇の御霊」と明記される。少なくともこの時点までに、応神八幡が史料上確認できる段階へ達していた。
第五段階
859年、八幡神が宇佐から男山へ勧請され、翌860年には社殿が造営された。これにより、応神八幡は王城鎮護・皇統守護の神として、その国家的性格をいっそう強めていった。
第六段階
中世になると、菟道稚郎子が春宮として独立祭祀され、『古事記』『日本書紀』の系譜に対応した応神王統の祭祀体系が次第に形づくられていった。
この順序で考えると、「宇佐=応神」は宇佐祭祀の出発点ではなく、長い形成過程の結果だったことになる。
結論――道鏡事件が「応神八幡」を準備した
道鏡事件以前の正史は、宇佐の神を「八幡神」「八幡大神」と記すだけで、応神天皇とは呼んでいない。
769年には、道鏡を天皇にすれば天下太平になるという託宣が、宇佐八幡の神意として朝廷へ奏上された。ただし『続日本紀』は、大宰主神の習宜阿曾麻呂が道鏡に媚び、「八幡神教」と偽って奏上したものと記している。したがって、それが実際の宇佐八幡の神意だったかは確認できない。これに対して和気清麻呂が持ち帰った再神託は、「天つ日嗣には必ず皇緒を立てよ」と告げたとされる。
この事件を通じて八幡神は、皇位継承の可否を判定する神として歴史の表面に現れた。
その翌年、天武系最後の称徳天皇が崩御し、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位した。
宇佐の再神託が直接、白壁王の即位を命じたわけではない。したがって、道鏡事件が天智系への皇統交代を計画したとまではいえない。
それでも、
769年――八幡神が皇位継承を判定する
770年――天武系から天智系へ皇統が移る
844年――八幡神が品太天皇の御霊と史料上明記される
859年――応神八幡が石清水へ勧請される
という時間的な連続は見逃せない。
八幡神が自然に応神天皇へ変化したのではなく、九世紀前半、すでに国家的託宣神となっていた八幡神に応神天皇の人格を重ね、応神天皇を新たな八幡神として据える祭神再編が行われた可能性がある。
大神比義が六世紀に応神天皇を発見したという物語は、その応神化を過去へ遡らせるために整えられたのかもしれない。
宇佐に残る「幼少の応神」
宇佐神宮の境外末社・阿良礼神社は、八幡大神が奇瑞を現した場所と伝えられている。その伝承では、八幡神は三歳の童子として現れ、竹の葉の上で託宣したとされる。
また、宇佐公康『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』には、応神天皇は七歳で夭折し、同年齢とされる竹葉瀬君が養子となって、応神天皇の身代わりを務めたという伝承が紹介されている。
阿良礼神社の三歳童子伝承と、宇佐家に伝わる七歳夭折説は同一の史料ではない。しかし宇佐周辺に、成人した大王としての応神天皇とは異なる「幼少の応神」の記憶が残っていることは注目される。
もしこの伝承に古い記憶が含まれているなら、『古事記』『日本書紀』が記す長命の応神天皇像は、応神の名や王権を引き継いだ後継者の事績を統合したものだった可能性がある。
その場合、菟道稚郎子も必ずしも幼少で没した応神の実子ではなく、応神王統の政治的・祭祀的正統性を継承した人物として位置づけることができる。
菟道稚郎子の春宮祭祀も、八幡神が応神天皇とされた後、『古事記』『日本書紀』の皇位継承説話に従って整備された可能性がある。
一方、高良に残る仁徳天皇・九躰皇子・留王の伝承は、宇佐で後世に形づくられた「応神天皇―菟道稚郎子」系の祭祀体系とは異なる王統観を示している。
ただし、高良伝承が応神八幡体系以前の古い王統をそのまま保存していると、現段階で断定することはできない。『高良玉垂宮神秘書』の成立年代と、その内部に残る伝承層を分けて検討する必要がある。
今回明らかになったのは、高良と宇佐の祭祀体系が同じ時期に成立したとは限らないということである。
仁徳天皇と菟道稚郎子の並立は、古い政治史の問題である。それに対して宇佐の応神・春宮祭祀は、後世に再構成された祭祀史の問題である。
道鏡事件は、八幡神を応神天皇へ変えた直接の証拠ではない。しかし、八幡神を国家的託宣神から皇統の継承を守る神へ転換させ、その後の応神天皇化を準備した分水嶺だった可能性がある。
現在、宇佐八幡の八幡大神は応神天皇とされている。九世紀半ばの史料にも、八幡神が品太天皇の御霊であることが明記されている。
本稿が問うているのは、現在の八幡大神が応神天皇であるかどうかではない。
八幡神は、いつ、なぜ、応神天皇の御霊と位置づけられたのか。
道鏡事件と天武系から天智系への皇統交代は、その成立過程を解くための、最も重要な転換点だったと考えられる。
