【マロニエの木の下で】十二章(次の階段)
今、慎也は10号のキャンバスに向かっている。この場所は以前は27インチの箱が置かれていた場所だった。
窓の光を遮り、ごみ溜め状態だったあのころと比べ、整頓された今の部屋はずいぶんと雰囲気が変わっていた。
作られた世界の中で遊んでいた慎也が、10号の真っ白なキャンバスに自分の世界を創り出そうとしている。
思うがまま、描きたいモノを描き、塗りたい色で塗り、時間を忘れ、がむしゃらに描き込んだ。
背景には青い満月、バラバラになった時計の歯車、白い女性の手、仕上がった絵を眺めながらタイトルは『時を拾う』にしたいと思った。
出展日までの期間に慎也は車の免許も取ることにした。「免許は取れ」とう父の言葉がずっと気になっていたからである。
免許取得の際も見知らぬ人と一緒の講習や学科試験が不安だった。しかし
本試験では運の良さが味方してか一発合格だった。
人から見ればごく当たり前の事なのだろうが、10年遅れで慎也の時計がやっと動き始めた。
『ヤングアート展』に出展した慎也の『時を拾う』は入選した。
何事もスムーズにいき過ぎる事に慎也は驚きと同時に戸惑いを覚えていた。
展覧会場には母と一緒に行った。
母は慎也の絵の前で動こうとしなかった。
じっと慎也の絵を見ている母親の背中を慎也は見つめていた。
母は絵を見ながら何を思っているのだろうか・・・
少しずつ変わっていく自分に驚いているのは母も同じだろうか・・・
俺の今後の生き方を案じているのは確かであろう。
幼い頃母の日に手渡した似顔絵を見ているあの頃の表情と同じであってほしい、慎也はそう思った。
「おふくろ、もうそろそろ帰ろうか」と声をかけた。
「これは君の作品かね?」「面白い絵だね」との声がし振り向くと、年の頃は母親ぐらいだろうか、ハンチング帽に作業服姿の優しげな眼をした男性が立っていた。その横には奥さんらしき女性もこちらを見て微笑んでいた。
慎也は返す言葉も分らずコクリとうなずいた。
『時を拾う』の作品を見ながら「僕も絵を描いているんだよ。時間がある時に一度ここへ遊びに来てみないかね」と名刺を渡してくれた。
その晩、ココにメールで「公募展の絵が入選した」と書き込み絵を添付して送った。
ココから電話があったのは10時頃だった。その時慎也は横になっていた。
電話口のココの声はいつもより弾んでいた。
「シンよかったね」と言いながらも泣いている様にも聞こえた。
「月も、時計も、指もココからもらったものを描いただけだよ」と慎也は伝えた。きっかけを作り自分を動かしてくれたココに精一杯の感謝を伝える絵だったのだ。
「次の絵も見たいな」という一言が耳に残った。
「いつか本物のシンの絵が見に行けるように私も頑張らなきゃね」と笑った。
慎也は湯船に浸かりながらココが最後に言ったあの言葉が気になっていた。
「私も頑張らなきゃね」といったあの言葉・・・・・・
(急いで次の絵を描かなくては)という思いが溢れてきた。
急いで湯船から飛び出し今日会った中年男性から手渡された名刺を取り出した。
「明日、ここに行こう」
