【マロニエの木の下で】十三章(山の中の美術館)
名刺には
「浜脇 仁・・・ハマワキ・・・ジン?・・・ヒトシ?何て読むんだ?まあいいや、浜脇さんか」「〇〇市の白石谷だ・・・隣りの市だな・・・『山の中の美術館』・・・山の中に美術館か・・・?」
そこまで行くには自転車で片道2時間はかかりそうだ。
ポケットに1000円札を突っ込むと9時に出発した。
かれこれ一時間は自転車を走らせている。やっと白石谷の標識が見えてきた。まだ15キロある。
自販機で冷たいコーヒーを買い一服し終えた慎也は、またペダルをこぎ始めた。
だんだんと道が細くなっていく。緑が深くなっていく。左手には谷川が流れている。ついに地道になった。民家も少なくなり一本道になった。対向車が来ると自転車を降りて避けなければならなかった。まもなく民家とは明らかに違う色々な形を繋ぎ合わせた様な黄色い建物が見えてきた。
『山の中の美術館』の木製の看板が立ててあった。
「ここか・・・」慎也は自転車を置く場所を探した。
「ごめんください」と静かにドアを開けた。中はカフェの様な雰囲気でテーブルや椅子が置いてあった。どこからともなくコーヒーの香りが漂っている。
慎也の目に飛び込んできたものは正面の壁一面に波や渦のように見えるものを青一色で描いてある絵だった。
何分ぐらい見ていただろう・・・。
人の気配がないので外に出て裏庭に回ってみた。
自然のままの風景の中に溶け込むように石や木やブリキなどで作られた奇才で不思議な作品が所々に置かれてあった。その向こうは谷川になってさらにその向かいの山は杉や竹の林となっている。
どこからかラジオの音が聞こえてきた。その音を追って谷川を覗き込むと、作業服を着た人がツルハシで斜面を掘り起こしていた。
「こんにちは」と声をかけると、作業の手を止め覗き込んでいる慎也を見上げた。
「おう?どなたかのう?」
「西崎です。昨日の・・・」
「ああ!昨日の・・・今上がって行くき、カフェの方で待ちよってや」と汗を拭いながら言った。
カフェに戻って慎也が壁の絵を見ていると、「自転車で来たがかえ?」の声がした。
慌てて慎也は振り向いて頭を下げながら「西崎です」と言った。
「よう来てくれたね西崎君」と椅子をすすめてくれた。
「家はどこぜ?」と聞かれ住所を言うと、「そりゃえらい遠くから・・・」慎也は頷いた。
「今嫁は買い物に行っちゅうき」と言いながら冷蔵庫からペットボトルの茶を出し注いでくれた。
「西崎君、前から絵は描きよったが?」タバコに火を点けながら言った。
「キャンバスに描いたのは昨日の絵が初めてです」
「おお、そうやったがかえ。あの絵は10号よりも大きゅう見えた。なかなか面白い」
絵の感想を言ってくれたことが嬉しく、少し照れくなり会釈をした。
「仕事はなにをしよるがぜ?」
「していません」と小さな声だがはっきりと答えた。
浜脇さんはしばらくタバコの煙を眺めていた。
「西崎君の絵をもっと見てみたいのう」突然浜脇さんはそう言った。
「ありがとうございます」と再び会釈をした。
帰り際、浜脇さんが「これに西崎君の電話番号を登録しちょってくれんかね」と携帯電話を差し出してきた。
そう言い終えるとビニール袋をもって裏庭の方へ出て行った。
登録が終わったころ「これ持って帰り」とシイタケの入ったビニール袋を手渡してくれた。
「頂いてもいいですか」
「おう、なんぼでも生えよるき、また取りに来いや」
「今日はありがとうございました」慎也は深く一礼した。
帰り道、慎也の頭の中はいっぱいだった。箱の中では絶対に見えなかったもの、体験できなかった事、それらを一挙に体験した。
疲労は感じつつも箱の中とは全く違う充実感があった。
その夜もココとはいつものように会話をした。
昨日の展覧会で画家の人に出会った事、『山の中の美術館』へ自転車で行った事などを伝えると「疲れてない?大丈夫?山の中の美術館?本当に山の中にあったんでしょ?素敵ね。」
「今日も話せてよかった、ありがとうおやすみ」
慎也はおやすみを言って電話を切る前に聞きたい事があった。それは昨日ココの言った「私も頑張らなきゃね」という言葉についてだった。
いつもの様に喜んでくれたココの声ではあったがなぜか俺は感じた。
弱さを含んだ声だった事を・・・
