【マロニエの木の下で】一章(あなじ風)
少し埃っぽいロフトの小さな窓から一筋の光がキャンバスを照らした。
その光を背に絵を描いているのは私だ。
外に目をやると、小さな女の子と子犬が芝生の上で戯れている。
周りの木々は紅葉が始まり、グラデーションが庭を彩っている。
階下で話し声がする。
珈琲の香り・・・。
日常の穏やかな生活、長い間慎也が夢見ていた生活・・・。
「パパ~下りて来てくれますか~」
この声は誰?
慎也はこの声の主が誰なのかを考えた。
「松田のおじさんが来てくれましたよ」
そうだ、亜希子だ、私の妻の声だ。
「パパ~おさかなだよ~」
これは娘の綾の声。
時計に目をやると10時を指していた、いつの間にか絵を前にしてウトウトしていたらしい。
慎也は椅子からゆっくりと立ち上がり、カフェになっている一階へ下りて行った。
階段を一段下りるごとに亜希子、綾、松田さん、いつも来て下さる橋本ご夫妻の顔が見えてきた。
「いらっしゃい」
慎也はみんなの顔を笑顔で見渡した。
クーラーボックスから取り出した魚を両手で掴んで、
「パパみて!みて!」綾は興奮している。小さな綾の手から30センチほどもある大きなアジを掴みきれないでいた。
慎也に見せた後、綾は橋本ご夫妻にも見せに行った。
「まあ!大きいお魚ね~、手は冷たくないかえ?」
「つめたい~」そう言って急いでクーラーボックスに戻した。
「松田さんいつもすみません。今晩お刺身でいただきますね」
そう言うと亜希子は、松田さんがいつも注文するおむすびのモーニングを作り始めた。
松田さんは季節の物を届けてくれたり、庭の木々の剪定などを手伝ってもらったりする仲である。綾の事を本当の孫のように可愛がってくれている。
いつの間にか綾は庭に出ていた。
数日前に慎也がクスノキの枝に作ったブランコに乗り、緊張した面持ちでしっかりと両手でロープを握り締めている。
間もなく自分でこげるようになるだろう。
何事にも興味を示し、飽きずにやり続けるのは、亜希子の性格に似ているのかもしれない。
その周りをパグ犬のペルが落ち葉を蹴ってはしゃぎ回っている。
ペルは、近所の門川さんというおばあさんが飼っていた犬である。
門川さんは定休日と雨の日以外は、毎朝9時にシルバーカーをゆっくり押しながらカフェに来てくれていた。
いつも愛犬のペルが一緒だった。
「ここで飲む食後のコーヒーは、よいよ美味しいね~」と言うのが門川さんの口癖だった。
カフェの玄関に置かれたシルバーカーの横でペルはいつも伏せのポーズをして静かにご主人が出てくるのを待っていた。
門川さんが店に顔を出さない日が続いた時は、亜希子が仕事の合間に家を覗きに行くこともあった。
ある朝、9時にカフェのドアを開けると門川さんの姿はなく玄関の周りを行ったり来たりして落ち着かない様子のペルがいた。
何かを察した亜希子は門川さんの家に行ってみると、門川さんは居間で息を引き取っていた。
仏壇に手を合わせていたのか線香の煙が揺れていた。
門川さんには娘が一人いるが、嫁ぎ先の家ではペットを飼うことができないらしく、ごく自然にペルを慎也たちが引き取ることになった。
綾にとっては門川のおばあちゃんが残してくれた嬉しいプレゼントなった。
ペルは今でも9時頃になると玄関に行き決まって伏せのポーズでずっと門川さんの家の方を見つめている。
その時はしばらくそっとしておくのである。
『カフェ・蒼い鳥』は主に亜希子がやっている。
綾が三歳になったのを機に自宅の一階をカフェにしオープンしたのである。
隠れ家的な要素がうけたのか、メニューもさほど多くはないが橋本さんご夫妻や松田さんのように常連客が少しずつ増えてきている。
二人にとって育児と家事と仕事が今はちょうどいいバランスで出来ている。
この場所は亜希子の祖父が生前所有していた土地だった。そこに父親がアトリエを建て趣味の絵を描く場所として使っていた。
小高い山裾の一画にあり父親が亡くなった後、母親が譲り受けたが、市街地に自宅兼店舗があるため、この土地については亜希子の自由にさせてくれた。
築20年以上経つこのアトリエを、慎也は大工だった松田さんに手伝ってもらいながら半年かけてリフォームした。
敷地面積は申し分なく有り余るほどあった。
天気の良い日は遠くに太平洋が一望できる。少し不便ではあるが絶好のロケーションだ。メタセコイア、アメリカフウなどの落葉樹が数本あり、小さな森の中にいるような雰囲気にさせてくれる場所だった。
ランチタイムが過ぎ、ひと時の休憩時間となった。
慎也は珈琲を持ちテラスに出た。洗い落とせていない青い油絵の具が手の平に少し残っている。珈琲の香りと混ざり合っていつもの安心感を味わう。
庭先では、綾が飽きずにブランコで足蹴りの練習をしていた。
ペルはその横で綾の動きを追っている。
片づけを終えた亜希子が綾にブランコのこぎ方を教え始めた。
慎也の目の前には夢に描いていた幸せな光景が広がっている。
突然、あなじ風がゴオー!という音と共に木々の枝を揺らし落ち葉を巻き上げた。まるで砂嵐のようだ。
亜希子と綾の声、ペルが吠える。
土埃と枯れ葉がたたきつけてきたが慎也は目を大きく開け、守るべきものを確認した。
