【マロニエの木の下で】七章(慟哭)
「お父さんのアパートを引き払わないといかんけん、明日の午後から慎也、一緒に行こうかね」と母が言った。
慎也は首を縦に振った。
次の日の午後、慎也はあれほど通いなれた鉄階段なのに一瞬足が止まった。
住人の居なくなった四畳の台所、六畳の和室。
「ほとんど片付けるものがないねえ」
と冷蔵庫の中を見て母が驚いていた。
押し入れの中には夏用の布団だけ。
その横のタンスには父がいつも着ていた洋服が数枚かけてあり、小さなテレビ台の棚には新聞や釣りの雑誌が整理されて置かれてあった。
机の引き出しの中から三冊のノートと西崎慎也名義の古い通帳、印鑑が出てきた。
ノートを開いてみると文字がビッシリ書かれた日記があった。
その三冊のノートと腕時計をダンボールに入れた。
預金通帳を母と開いてみると150万円の記帳があった。
慎也へ
仕事をするがやったら、車の免許は絶対に要る。
まずはこれで免許を取れ。
残りは、生活に必要な物を買うたらえい。
お母さんと頑張って生きて行ってくれよ。
という手紙が挟んであった。
「あんたが持っちょったや」と母が言った。
後の荷物は遺品回収業者に引き取りに来てもらった。
このアパートにはもう来ることはないだろう・・・。
鉄階段をゆっくりと降りて行った。
家に帰り着くと、夏美が部屋に戻ろうとする慎也を引き留めた。
「お茶でも飲もうか」
慎也は足を止め黙ってテーブルに着いた。
ほうじ茶の香りが漂う。
慎也は母の言いたい事が分っていた。
口を開かない母の声なき声を慎也はじっと聞いていた。
母は二つのコップを片付けながらポツリと言った。
「寒い晩やね・・・」
慎也は部屋に戻るとそのまま布団に潜り込んだ。
目が覚めたのは深夜の2時を過ぎていた。
そっと明かりをつけ、父のアパートから持ち帰った三冊のノートを取り出した。
書き始めが平成17年の8月からとなっている。
二年前から一日も欠かさずに書いてあった。
父はこういう一面を持っていたのかと思った。
日記を読み終わる頃には母が起きる時間となっていった。
8月29日 晴れ
熱い一日だった、今年は特に暑さがこたえる。
医者から二年足らずだと言われた。
9月11日 曇り
今日は調子が良かった。松ちゃんが釣りたてのアジと焼酎を持って来たので二人で飲んだ。
釣りたての刺身はうまかった!
10月4日 晴れ
12年ぶりに慎也に会えた。突然来て驚いた。背は俺よりも高くなっていたが慎也はまだ小学の時の面影が残っていた。
あの子は働いていないようだ。心配だ。
あの日じゃないか・・・二発殴ったのにその事には触れていない・・・なぜだ?
その後も月に一度か二度は父を恐喝していたのに・・・後の日記にも慎也が殴った事については一切書いていない・・・俺が訪ねて来た事だけを書いている。
二冊目は18年の日記だった。
2月17日 曇り
体がだるく仕事に行けない日が多くなった。
会社に退職を申し出た。
失業保険で暫く暮らそうと思う。
6月30日 雨
今年の梅雨は長い。最近、腹の調子が悪い。
松ちゃんに痩せたなと言われた。確かに5キロは落ちた。
三冊目の最後の日付は19年の11月27日となっていた。
俺と最後に会った日に書いたものだ。
11月27日 曇りのち雪
朝から何も食べてないが少しも腹が減らない。吐血アリ。
さっき慎也が来た。タバコ代しかやれなかった。
慎也に仕事が見つかるといいが・・・
11月28日が無い。
慎也は横罫線だけのページになっても一枚一枚ノートを捲りながら文字の無い文字を読もうとした。
必死に父の言葉を探した。
慎也は急にあのアパートに行きたくなった。
布団の上に放っていたジャンバーを引っ張った。
その時ポケットから何かが落ち床に響いた。
あの時の五百円玉だった。
この金だけが殴らずに父の手から貰ったものだ。
五百円玉を握りしめると慎也は声も無くいつまでも泣いた。
