【マロニエの木の下で】八章(秒刻みの針)
慎也はこの三日間何もせずに過ごしていた。
三冊の日記と五百円玉の傍で・・・。
ココからメールがあったのは三日後の事だった。
coco:お父様が亡くなられたと聞いてから
一週間が経ちますね
大丈夫ですか?
パソコンのモニターの明かりは今もついていた。誘いのチャットは毎日入っていたが父が逝った日からこの箱の中に入る気にはなれなかった。
そんな時にココからメールが入ったのだ。
初めて他人からの温もりのある言葉だった。
慎也は今の気持ちを聞いて欲しかったが、どこから話せばいいのか、また今話し始めると溢れ出る感情が止まらなくなりそうで怖かった。
深海魚:正直、今は話す気にはなれない
coco:分りました
あまり一人で考え込まないでね
私でよければいつでも話を聞きますから
深海魚:ありがとう
慎也はその日から窓の外を眺める事が多くなった。
家の西側にある公園の栴檀の木はすっかり葉を落とし、白い実が残っている。キュルキュルと鳴く鳥がその実をついばんでいる。
「俺が朝寝始める頃、コイツ等が邪魔をしていたのか・・・」
昼下がりになると大きな声で世間話を始める三人組のおばさん達がいた。
「ああ、トイレに起きる頃、毎日聞こえていた声の主はこの人達だったのか・・・」
夕方になると並んでブランコに座り、楽しそうに会話をする制服姿の男女がいた。
「俺の青春には無縁の一場面だ・・・」
箱に囚われていた間に、現実ではこんな時間が当たり前に流れていたのか・・・。
俺は現実から目を逸らしたまま生きてきた。
少なくとも父は現実から逃避せず一人で病気と闘い、逝ってしまった。
十日も経った頃、慎也はSNSに詩を綴った。
深海魚:左手の傷を見る度に
心の古傷が怒号する
復讐の時
獣の様な目で牙をむく
少しずつ・・・少しずつ・・・
俺は自己陶酔していく・・・
俺は正当化していく・・・
アイツとは
違うはずだった俺の目が
アイツよりも
鋭くなっていく
何度叩き潰しても
何度奪い取っても
少しずつ・・・少しずつ・・・
アイツは
強くなっていった・・・
アイツは
優しくなっていった・・・
最後の日
アイツが俺に向けた瞳が
父という強さを教えて逝った
12/16 12:20
詩を書き終えると、ココに書き込みをした。
深海魚:この間はありがとう
慎也はすぐに返事が来るだろうと思って待っていた。しかし一時間経っても書き込みはなかった。
丁度母親の声がした。
「お好み焼きを食べるかえ?」
焦げたソースの匂いがしてきた。急に腹が減ってきた慎也は台所へ向かった。ホットプレートの上には一枚のお好み焼きが焼けていた。
「青のりとカツオ節は自分でかけや」と母が言った。
「マヨネーズはないが?」
「ちょうど切らしちょるがよ」
一口食べた慎也は「美味い」と言った。
最近、一緒に食べる回数が増えた事や、会話の数が多くなった事に母は嬉しそうだった。
「今日は夜勤なが?」慎也は聞いた。
「そうながよ、夕飯は何か作っちょくけんね」
「気を付けて行ったよ」そう言うと部屋に戻った。
慎也はもう一つあった部屋の窓のポスターやカレンダーなどを全て剥がした。
咳き込むほどの埃が舞った。
ヤニまみれになっていたポスターも薄くなり所々破れ、もう貼り直せないほどだった。
満月を見た夜に開けた窓と、今開けた二つの窓から光と風が入ってきた。
十年ぶりにまともに見た部屋は惨憺たる有様だったが、なぜか慎也は嬉しくなった。
新しい風が淀んでいた空気を追い出し、部屋中を照らす光が現実の時を刻み始めた気がしたからだ。
慎也はこの日から少しずつ部屋を片付け始めた。
母親が夜勤に出かける頃、ココから書き込みがあった。
coco:こんばんは
先ほど詩を読みました
すごく考えました
そして少しですが状況がわかりました
お父様との関係も
大変な葛藤があったのでしょうね・・・
待っていたココからの書き込みに、すぐに返事をした。
深海魚:詩を読んでくれてありがとう
正直まだ消えないモヤモヤが
沢山あるんだけどね・・・
coco:そうでしょうね・・・
しばらくして
coco:もしシンが良かったら直接お話しませんか?
深海魚:え?直接?
coco:はい、電話で
突然の展開に驚いた。しかし慎也はココという人を無条件に信じたいという気持ちがどこかにあり、なんの躊躇もなく電話番号を教えた。
すると、間もなくして着信が鳴った。
「もしもし、ココです」
とても静かな声だった。
「あっ、初めまして!」
なんで、これほど慌てふためいているのだ、と慎也は自分に驚いていた。
「なんか緊張するね」
「うん・・・緊張する」
お互い軽く笑い合った。
「電話でもシンと呼んでいい?」
「うん」
「シン・・・お父様の事だけど・・・」
「あぁ・・・」
「もし話して気持ちが少しでも楽になりそうだったら言ってね」
初めて電話で会話する異性の柔らかな声。静かにゆっくりと包み込んでくれるようなココの口調が慎也の緊張を少しずつ解いていった。
この人になら今の気持ちを理解してもらえるかも知れない、そんな気持ちになった。
「親父は俺が殺したがよ・・・」ゆっくり口を開いた。
慎也は堰を切ったように、これまでの父親とのいきさつを全て話した。うなずきながら傍で聞いてくれているような、そんな感じだった。
話し終えた慎也は力尽きたかのように口を閉じた。
かれこれ一時間ほど話しただろうか・・・これほど長い時間、箱の中の世界以外で他人と、いや異性とリアルに会話をするのは初めての事だった。
先ほどまで文字の会話をしていただけのココという人に、これほど自分の事を洗いざらいさらけ出して話しても大丈夫だったのだろうか?と、少々不安な思いもあった。
しかしその不安は次の言葉が打ち消してくれた。
「シン?生きていてくれて本当にありがとう」
「生きていてくれて・・・ありがとう?」慎也は今の言葉を確認するように聞き返した。
「本当にありがとう。シン?・・・今お父さんに最後に謝ることができなかったと言ったよね?そう言えているってことは、もうちゃんと謝れているって事なんだよ。きっとお父様には伝わっているよ。」
そうかもしれない・・・。しかし心の深部に根付いたしこりが完全に氷解するにはまだ早かった。
「今の俺にはそう思うことはできそうもない・・・」
「そうかもしれないね」とココはゆっくり言った。
「なんか俺ばかり話してごめん」
「ううん、いいよ。シンの気持ちが聞けて良かった」
慎也は話し終えてから、大きく深呼吸をした。
優しく話を聞いてくれたあの人の声がいつまでも耳朶に残っていた。
お互いの声を知ることが出来たからなのか、この日から急速にココを身近に感じ始めた。
それからココとは何度も話をした。
電話の時はいつもココから掛けてきた。
