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【マロニエの木の下で】六章(血)

 慎也はまもなく尽きようとするタバコや、ゲームの課金代、空になったコンビニ袋を見てそろそろアイツのところに出向く頃だな・・・と思った。
いつものジャンバーを羽織って外に出た。
寒さもあり足早に歩くとアイツのアパートまで30分はかからなかった。
通いなれた古いアパートに近づくにつれ慎也の表情は険しくなっていく。
アパートに着き慎也は立ち止まった。
赤いペンキが所々錆びて剥がれている鉄階段を慎也は睨みつけた。
この鉄階段も慎也に刻み込まれた過去の記憶を何度も呼び覚ますからだ。

 アイツが真夜中に酔った足取りで家の鉄階段を上ってくる音がする。
大体その日の階段の音でアイツの機嫌が分かった。
階段の真ん中辺りまで来ると壁をドンドン!と叩き、大声をあげている日は大概一、二時間暴れた後すぐ寝る日が多い。
一番危険なのは、獲物に忍び寄る獣のように静かに上がって来る夜だった。
大雨のあの日も急に玄関を足で蹴る音が家中に響き渡った。
アイツの突然の帰宅に母が慌てて玄関の鍵を開けると、ずぶ濡れで立つアイツがいきなり母の顔面を殴りつけた。
泣き出す慎也を無視しして母の髪を掴み玄関の床に頭を叩き付けた。
「痛い・・・」と力なく聞こえる声
母はもうこうなる事を覚悟していたのか。
完全に母は狩られてしまった獲物のように無抵抗でアイツに殴られ続けた。
慎也は近くにあった傘でアイツに叩きかかった。
すると威嚇するような目で慎也を見た後、また母を殴り続ける。
今度は慎也が近くの花瓶をアイツの背中めがけて投げつけた。
流石にそれには苛立ったのか慎也の胸ぐらを掴むと玄関ドアに投げつけた。
それを見た母は今まで残しておいた力を振り絞るように慎也の手首をむんずと掴み勢いよくドアを開けた。
一目散に二人は走った。
雨が降っていたのかも、裸足の足が痛いとも、どこを走っているのかも覚えていない。
走りながらただ記憶にあるのは手首の痛さとともに「許さない!」という無音の世界だけが漂っていた。

 そんな記憶の中の憎しみをぶつけるように、アパートの鉄階段をわざと大きな音が出るように、力いっぱいに踏みつけて慎也は上って行った。

 目的の部屋の前に立つとインターホンもノックもせずにドアノブをひねった。
拳に力が入る。
入ってすぐ四畳の台所があって、その奥に六畳の和室がある。
いつもならアイツは台所で一升瓶を片手にコップ酒をあおっているが今日は和室にいた。
やけに背中が小さく見える。
「慎也か」
振り返ったアイツの顔にはまだ消えていないアザが唇の横にあった。
慎也はアイツの視線を避けるように「今なんぼある?」と聞いた。
「今はタバコ代ばあしかないぞ」
震える手で五百円玉を差し出した。その手は嫌に黄色く見えた。
「また来いや、その時までには用意しちょくけん」
いつもの慎也なら無理にでも金を要求し一、二発殴るところだが、今アイツを殴ると壊れてしまいそうな気がした。
今日は何かが違う・・・。
酒を飲んでいないからか?声がいつもの調子ではないからか?これほど瘦せていたのか?
「今日は帰る」そう言って慎也は靴を履きかけた。
その時「慎也」と、背後からアイツの声がした。
振り返ると、何かを言おうとするのを止めて慎也をじっと見つめてきた。
黄疸の入った目の先でカメラのレンズの焦点が定まった時の様に慎也を一瞬捉えた。
慎也もアイツと初めて目を合わせた。
「これが親父か・・・」
鉄階段をゆっくりと下りポケットの中の五百円玉をただ握りしめたまま歩いた。
吹き付ける風が慎也をもう一度あのアパートに引き返させようとしているようにも思えた。

 いつの間にか白いものが舞い始めた。
ちらちらと降ってくる雪が慎也の顔で溶けていった。

 たどり着いた家は暗かった。今夜は母は夜勤だ。ガスコンロには土鍋が置いてあった。
おでんを温め、厚揚げ、こんにゃく、大根、卵を皿に取り、からしをどっさりつけ部屋に向かった。
ずっとつけたままにしていた27インチの箱の明かりが慎也に「おかえり」と言っていた。
今夜はなぜか部屋を明るくしたいと思った。
散らかったゴミだらけの部屋、ああ・・・これが俺の生き様か・・・。

 指定席に座るとそこらへんに放ってある雑誌や漫画を何冊か重ね、その上に皿を置いた。
まず厚揚げを半分にして口に入れた。
温かい食べ物はなぜかホッっとする。
ふとアイツの事を思った。
「アイツはいつも何を食べているのだろう・・・」でも慎也はすぐに「しったことか!」と振り払った。
しかしすぐにその気持ちは戻ってくる。
アイツが今日言いかけた言葉はなんだったんだ・・・
目が合った時、アイツの表情はとても穏やかだった・・・
その日は食べ終わるまでアイツの事が気になって仕方なかった。

 いつもの慎也ならそのままゲームを始めていただろう・・・。
なぜか今夜はその気にならない。
慎也は分っていた。ゲームは一時の麻酔薬であることを。
イライラやモヤモヤの感情を一時的に麻痺させ、今すべきことを全て先送りにしているだけという事を。
今、部屋を埋め尽くしているモノがそれを物語っている。
慎也は食べ終わるとSNSに詩を書き始めた。

深海魚:鋭く光る赤い目が
    俺をずっと狙っている
    生まれ落ちたその日から・・・
    身を守る事だけを考えていた
    体を小さくし
    息をひそめても
    赤い目は襲いかかる

    体中傷だらけになって
    これ以上もう傷をつける
    場所はどこにもないのに
    それでも刃をむいて
    向かってきた

    いつしか俺も鋭く
    赤い目になって
    同じように
    してやっているのだ

    しかしなぜだろう・・・

    手を振り上げるたびに
    赤い傷口が深くなっていく・・・
    11/27 21:03

 書き終えると慎也は布団に潜り込んだ。
が、寝付けなかった。雪明りの窓から車のライトが室内の壁を通り過ぎていく。
音のない静かな夜。
携帯の書き込みを知らせる通知音が鳴った。

COCO:シン、こんばんは
    詩を読みました
    これはあなたの事ですか?
    今日は何かあったのですね・・・

    今夜はゆっくり休みましょうね

 慎也はその文字を眺めながら朝までずっと起きていた。

長い夜だった。

 まだ明けきらない部屋で慎也はいつものジャンバーを着た。
玄関を出るとうっすらと雪が積もっていた。
両手をポケットに入れると左手に冷たい硬貨の感触があった。
白い息を吐きながらまだ足跡の無い雪の上を慎也は走った。

 鉄階段を上がる。
部屋に入ると外気よりもひんやりとしていた。
和室の布団の中にアイツはいた。
こんな風にいつも寝ているのか・・・と思った。
「おい!」
と声をかけた、ピクリともしない。

「おい!」
もう一度大声で呼んだ。

 慎也は目の前の出来事に呆然と立ち尽くした。
心臓の鼓動が一気に部屋中に響いていった。
突然我に返った慎也は膝を落とし、父の顔を両手で持つと力いっぱい揺さぶりながら
「おい!起きろ!」
「親父!起きろや!」
「聞こえんがか!」
震えが全身を襲い、呼吸が乱れる。
父の冷たい頬を平手で何度も打ちながら慎也は叫び続けた。
いつまでも開かない父の目は、慎也の願いを聞く事はなかった。

 数日後の葬儀の日、雪が積もった。
父の最後の声を聞いた晩も雪だった。

 父は両親も親戚も既になく、葬儀は寂しいものだった。
通夜の晩にはたった一人、父の友人の松田茂さんという方が来てくれた。
白髪交じりの坊主頭でグリッとした目が印象的な方だった。
松田さんは手を合わせた後、長い間、棺の中の父を見ていた。
三人でお茶を囲み、父の思い出を松田さんが話し始めた。
「カズ兄とは、飲み友達でねえ、馬鹿言いながらしょっちゅう飲んだがよ」
慎也も夏美もこうして来てくれる人がいたのかと思った。
「ここ二年程は、カズ兄は酒を断ることが多くなっちょったがよ、どうもあの頃から体の調子が悪かったがじゃろうね」
違う・・・と慎也は思った。
「息子さんがたまに会いに来てくれる言うて、カズ兄は喜こんじょった・・・」
驚いた夏美は茶を飲む手を一瞬止めた。
その言葉が終わらないうちに慎也は急に立ち上がり外へ出た。
「そんな事があるか!アイツが俺を待っていたわけがない!」慎也はそう叫びながら拳を握りしめた。

 父、谷 和男は56歳の生涯を閉じた。
和男は祖父の代から町内でも屈指の印刷業を営んでいた。
高度成長期の頃は左団扇の日が続いた。
しかし慎也が生まれ、初孫を見て喜んでいた祖父がその年に心筋梗塞で他界した。
和男は家業に興味を持たず、仕事内容も従業員任せであった。
幼い頃から裕福な家庭に育った和男は、自由気ままな生き方を身につけていった。
意に沿わぬ事があると些細な事でもすぐに腹を立て手を上げる癖があった。
慎也の記憶の中の父は、酒を飲み、仕事はせず、毎日のように母と俺を殴っている姿だ。
慎也が小学校を卒業時、両親の離婚と同時にその家を出た。
その後も父は酒を止められず、従業員ともうまくいかなくなり、事業閉鎖に追い込まれた。
印刷工場や機械を全て手放した後、慎也たちの住む市内のアパートに数年前に越して来ていた。
偶然にも二年前の夏、慎也は和男が歩道橋を歩いている姿を見た。
ずいぶんと痩せこけている様に見えたが間違いなくアイツだった。
なんでアイツが同じ町にいるんだ?何をしているんだ?慎也は無意識に後をつけた。

 鉄階段の例のアパートに入って行こうとした。
和男が締めかけたドアを慎也は片手で抑えた。
驚いた様子で和男は振り返った。
「慎也か・・・」
「俺を覚えちょったか!」
十年の歳月は二人の色々なものを変えていた。
間近に見る和男は、七十も近い老人に見える。
二人の目の高さも力関係もすでに逆転している。
「茶でも飲むか」
和男はそう言うとマジックの付いた靴を脱いで上がろうとした。
「お前!また俺とおふくろを殴りにこの町に来たがか!」と言うやいなや慎也は後ろから和男を蹴り倒した。
倒れた和男を振り返らせ、胸ぐらを掴み立ち上がらせた。
「痛いか!」と言うと今度はみぞおち辺りを殴った。
うめき声を上げながら和男はうずくまった。
前のめりになった和男のポケットから折りたたんだ紙幣がポサッっと落ちた。
脅えるように両手で頭を覆う姿に慎也はもう一発殴ろうとしたが、震える拳を下した。
金を掴むと「このクソッタレが!」とドアを蹴り外に出た。

「茶でも飲むか・・・」父の口から出た言葉が優しかった・・・。
優しくてもアイツはすぐに鬼になる!
鬼だから殴ったのだ。俺は悪くない・・・俺はもっと酷いことをされてきたんだ。
左手の古傷を見ながら慎也はそう自分に言い聞かせた。

 慎也の中では終わらせていたはずの父親だったが、違う姿となって現れてから、再び落ち着かぬ日々が始まった。慎也がしてきた父、和男に対しての復讐めいた行動の中に慎也自身さえ気付いていなかった父親への思慕の念があった事を・・・。

 どれくらいの時間、外に立っていただろう。
携帯からSNSの書き込み通知の音が鳴った。
ココからだった。

COCO:こんばんはシン
    用事をしていたらごめんね
    この間の詩を読んでから心配しています
    何かあったの?

慎也は躊躇うことなく返事を書き込んだ。

深海魚:親父が死んだ

なんで俺はこの人に父の死を知らせたんだ・・・。
得体のしれないSNSの相手に、いや、何も知らない相手だからこそ素直に伝えることができたのかもしれない・・・。

この日ココからの返事が来ることはなかった。



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