【マロニエの木の下で】十九章(マロニエの木の下でⅡ)
7月7日を境にして、慎也の周りからすべての色が消えた。
仕事中は無心になってやろうとしたが、そう思えば思うほど一年余りのココとの思い出が慎也の心を苦しめた。
慣れていたはずの作業手順も間違えることが多くなってきた。
弁当も残すようになり母も心配するようになっていた。
川音と蝉しぐれの中で汗を流した時期も過ぎ、朝夕は上着がいるようになった。
道作りは150メートル以上仕上がり、折り返し点となり残り半分になった。
これからは谷川からアトリエへ上っていく坂道を作っていく事になる。
後半は寒さの中での作業だった。土留め、地ならし、配筋、セメント流しの工程は慎也の頭に入っていたので任せてもらう部分も多くなった。
「失敗しても材料の事は気にせんでえい、ただ怪我だけはしなよ」と慎也の横を通る度にそれとなく浜脇さんが言ってくれた。
いつもの様に砂袋を積んで運んでいる時、坂道でひっくり返してしまった。良き相棒だった猫車を思わず蹴り飛ばした。
休憩時間になり、今日は奥さんではなく浜脇さんがコーヒーを出してくれた。
3時を回ると、山影になった谷川は急に気温が下がる。
2人は冷たい石の上に腰を下ろしコーヒーを飲み始めた。
両手で包み込んだカップから立ち上がる湯気を見ながら慎也は思わずため息がでた。
「絵は描きゆうかえ?」
「・・・描いていません」
「どんな事があっても絵だけは描きよりよ」
浜脇さんは、慎也の心を見透かしているかのようだった。
「道はなかなか捗ったのう」
ゆっくりとタバコに火を点けながら、「もうあそこまで繋がったら完成よ」と煙が向かう目の先に美術館の入り口が見えた。
帰るとすぐに風呂に入った。冷え切った体はなかなか温まらなかった。味気ない食事をとり、自室に戻ろうとした時、「慎也」と母が呼び止めた。
「小包が来ちょるよ」と手渡してくれた。
差出人を確認すると、佐々木 琴と書かれてあった。
「佐々木琴・・・ササキ・・・コト・・・」
慎也は固まってしまった。
暫く動けなかった。
混乱した頭で小包を握りしめていた。
我に戻った慎也は自室に戻り、小包を開いた。
中には封書と小さなアルバムが入っていた。
恐る恐る封書を開くと丸く小さな文字が見える。
「コト・・・」 コトだ。
西崎 慎也 様
佐々木 琴です。 慎也、コトだよ。
この手紙が届く頃には山の中の美術館の「道」という作品がどこまで出来上がっているのかな?
山里の秋は色とりどりの木の葉が舞っていることでしょう。
この手紙は貴方が東京に来た翌日に書いたものです。
もし私に何かあった時は11月17日に貴方の手元に届くように投函してほしいと親しくしている職場のAさんにお願いしてあります。
貴方に初めてSNSで話しかけた日が11月17日だったんだよ。
あの頃は貴方は深い海の底にいたんだよね。
私が「私の心は屈折しているから・・・」と伝えた時
貴方が「虹は光が屈折するから見える」ということを教えてくれたんだよ。
それからは貴方が成長していく姿を会話の中で感じることが、私の励みでした。
展覧会の入選の知らせを受けた時も、貴方が道作りを始めた時も本当に嬉しかった。
貴方は私に励まされているとばかり思っていたかも知れないけれど、実は私の方が貴方に励まされていたんだよ。
慎也、同封のアルバムを開いて見て・・・
いつも私が見ていたお気に入りの風景の写真です。
最後の写真は見覚えあるでしょ?
これは貴方が送ってくれたホテルの前の街路樹の写真と同じ場所です。
慎也、この木の名前はね、マロニエっていうの。
初夏の頃にはかわいいピンクの花が咲くよ。
貴方の帰った次の日に親友のAさんに付き添ってもらって貴方が写真を撮った場所に行ってきた。
貴方の触れていた同じ木を見つけて同じポーズで撮りました。
思わずその木を抱きしめました。
慎也、また会おうね。
雨の後にはまた新しい虹が出るよ。
マロニエの幹にそっと触れた白くて細い琴の手が写った写真の下に『マロニエの木の下で』と書かれてあった。
