【マロニエの木の下で】十八章(マロニエの木の下でⅠ)
羽田空港に着くと、慎也はターミナルで迷った。
人混みに酔ったようだ。とりあえずカフェに入った。アイスコーヒーを一飲みすると気分が落ち着いてきた。
これから予約してるホテルまで行けばいい。
人混みが苦手な慎也だが誰一人として関係のない、知らない人ばかりだと案外気楽な事に気が付いた。
駅員や清掃員にまで片っ端から聞きながらホテルまでたどり着いた。
〇〇ホテルは銀座近くにあった。チェックインした後ひと眠りした。
夕食は近くのコンビニで買ってきた。
シャワーを浴びる前にココにメールをした。
僕は今東京にいる
シャワーを浴びた後もメールの返事はなかった。
コンビニから買ってきたおにぎりを口にしながらも慎也は携帯をずっと見ていた。
電話が鳴った。
震える手で携帯を取った。
ココの声がした。
「シン・・・どういうこと?」
ココの声はかすれていた。
「今銀座近くの〇〇ホテルにいる」
「銀座に・・・?」
「うん、キミに会いにきた・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
慎也は理解した。
「会えないんだね・・・」
「・・・」
全てを理解した慎也は窓ガラスに移る自分を見ながら初めて自分の方から話題を変えた。
「ココ?そこから月は見える?」
「少し・・・まってね」
体を起こしているような息遣い、ゆっくりとした足音、カーテンに触る音。
「シン・・・見えるよ・・・丸く・・・青い月だね・・・」
この夜は二人にしか見えない月だった。
慎也は嗚咽をこらえるのに必死だった。
「ココありがとう」
「ココじゃないよ・・・慎也・・・私は・・・コトだよ」
静かな涙だけが慎也の頬を絶え間なく流れ続けていた。
「コト、ありがとう」
「慎也・・・ありがとう・・・」
コトの苦しそうな息遣いに耐えかねた慎也は静かに携帯を閉じた。
携帯を握りしめたままベッドにうつ伏せになり声をあげて泣いた。
翌朝荷物をまとめていた時、宛先も名前も書かれていないクラフト紙に包まれたコトにもう一度見てみたいなと言われた絵が、来た時と同じ場所にあった。
チェックアウトを済ませて表に出ると日差しはすでに暑かった。
ホテルの目の前に日陰を優しく作っている街路樹があった。
その中の一本の木に向かって歩いた。
慎也はその木に触れながら呟いた。
「僕は西崎慎也といいます。コトに会いに来ました。これから僕は帰ります。もしもコトという人があなたの前を通ることがあったら『またね』と伝えください」
その時、谷川を吹く風と同じ匂いの風が慎也を包み込んだ。その木を覚えておくために自分の手を当てて携帯のカメラに残した。
13時の直行便で帰宅した。2時間のフライトは速かった。
慎也は自分の部屋に入った途端、言い知れぬ恐怖が襲ってきた。コトが消えてしまうかもしれないという現実をどう受け止めればいいのか・・・。
幽鬼の様な顔つきで呆然と立ち尽くしていた。息をするのも苦しくなった。気が付くと手にはハサミが握られていた。あまりにも呼吸が苦しいので喉を突き刺せば楽になるかもしれないと思ったからだ。
コトに負担をかけるようになるかもしれないと思いつつ、自分の弱さからもう一度だけ甘えを許してもらおうと思いメールをした。
今、無事に帰ってきました。
ホテルの前の木にさよならを言って来ました。
コト、もしこの木に出逢う事があれば
そっと触れてみてください。
そう書き、今朝自分の手を当てて撮った木の写真を添付した。
慎也が東京で語りかけた街路樹の名前がマロニエの木だと分かるのは後になってからである。
