【マロニエの木の下で】十七章(決意)
次の作業は地ならしだった。
草を抜き余分な土をツルハシで削る。その土をテミでかき集め猫車に移し地面を平らにしていく。
苦手な蛇に何度か驚かされた。蛇よりもさらに苦手なムカデが出た時は浜脇さんを呼ぶこともあった。
「なんちゃじゃない!」とスコップで遠くへ投げてくれていた。
慣れとはすごいもので、蛇やムカデにもさほど驚かなくなった。
この作業が一ヶ月も続いた。
何をするにも一緒に動いてくれたのは猫車であった。
荷台の部分はボコボコになり、緑色の塗料が所々剥がれ落ちている。この猫車が慎也の手足となってくれた。
仕事がうまくいかない時などおそらく愚痴を一番聞いてくれたのもこの猫車だった。
体が慣れた頃のある晩、描き上げた絵をココに送りたいと告げた。
「今は住所を教えられない・・・ごめんなさい・・・」
「なぜ?」
それに対する返事はなく、ココは話題を変えた。
その夜、慎也はすぐに寝付けなかった。
そういえばココの事は一番知っている様に思っていたが、肝心なことは何一つ知らないことに気が付いた。
電話のやり取りをし始めて半年も経つのに、ココの本名も住所も全く知らない。自分は本名も住所も明かしているのに。
「今は住所を教えられない」という事はいつかは教えてくれるという事だろうか・・・。もしも今電話とメールが来なくなれば一体何で繋がっているのだろうか?何一つ見返りを求めない女性(ひと)が果たしているのだろうか・・・何も教えてくれないという事は、自分を信じてくれていないのではないか・・・いや違う。そうではないと思いたいが心のどこかで『なにかがおかしい』という一抹の不安が渦巻いていた。
お互いが想い合っているのは確かだろう。確かだと思いたい。
しかし慎也は今、自分は薄氷の上に立っているのではないかという思いが膨らんできた。
白石谷の朝も夏真っ盛り、道路わきの倉庫の前に6メートルの鉄筋が10本ずつ束ねて山の様に積んであった。地ならしをした場所にその鉄筋を敷き、道となる基礎の配筋作業が始まった。4、5本まとめて運んだ。かれこれ20キロ近くある鉄筋が肩に食い込む。
平坦な広い道ならまだしも、木々の間や大きなオブジェがある中を長さのある物を運ぶのは並大抵ではなかった。
何往復しただろう。言われていた分の鉄筋を運び終えるのに半日かかった。弁当はいつもの谷川に足を浸し食べていたが、今日は冷茶だけ飲むとそのまま川べりで横になった。
袖口から出た腕の色は完全に労働者のものになっていた。
午後からは、運んできた鉄筋を道幅に合わせて切断し並べていった。
次に碁盤の目の様に重なった部分をハッカーという道具を使って鉄線で結束していった。
始めは鉄筋の長さを間違えて切ったり、ハッカーの使い方のコツがわからず鉄線を何本も無駄にした。
が、浜脇さんはいつもの様に何も言わず仕事を続けていた。
初日には10メートルほどの基礎の配筋をやり終えた。
最終的にはこの上にセメントを流し込み固まれば道になる。
このように一つずつの工程の積み重ねで一つの物が出来上がっていく。
最近慎也は作り上げていくという事を体で感じ始めていた。
毎日綿の様に疲れて帰っても、ココの存在そのものが慎也の原動力となっていた。
言い知れぬ不安や疑問を抱えつつも、そのことについてはフタをして努めて見ないようにしていた。
ココの方はその事に触れられないように上手く話題を逸らしていた。
その夜のココとの会話は短かった。
ただ話している時に聞こえてくる小さな咳が気になった。
それから三日後の夜、慎也はいつものようにココに今日あった事を報告した。
そしてこの日の夜、慎也はココにどうしても言いたいことがあった。
「キミに会いたい・・・」
ココはすぐに話を逸らそうとしたが慎也はそのまま話を続けた。
「これほど想っているのに会えないままは辛すぎる」
「・・・そうだね」と静かにゆっくり言った。
伝えたい事は山ほどあった。
「僕が信じられない?」
「そうじゃないよ!」と強い口調で言った。
「それじゃあなぜ?」
「・・・その返事はもう少し待って」と涙声になった。
ココの声はとても弱々しかった。
慎也はこれ以上聞く事ができなかった。
ある日の午後白石谷は雨になった。
「西崎君、昼を済ませたらアトリエに来なさい」と浜脇さんが言った。
「画材は僕のを使ってええきこんな雨の日はここへ来て絵を自由に描きなさい」
そう言いながら浜脇さんは真っ新な100号のキャンバスをイーゼルに置いてくれた。
帰り道、櫻井画材店に寄った。いつもの女性店員ではなく、彼女によく似た年配の女性が荷解きをしていた。
白色にも何種類もありその中から浜脇さんが教えてくれたパーマネントホワイトを手に取るとレジに向かった。
「ありがとうございました」という声や表情から、あの彼女の母親だろうなと思った。出口へ向かった時ドアが開いた。「ただいま」買い物袋を持った例の彼女が戻ってきた。
慎也は思わず「あ、おかえり」と言った。
そう言ってしまった後で戸惑う慎也の様子に彼女は笑い出した。
慎也も母親と思われるその人も可笑しくなって三人が一緒に笑った。
この晩、慎也は決意した。
これまで何度も『会えない』という理由を考え続けていた。
旦那がいるのか・・・。これは誰でも真っ先に思いつく事だろうが、隠す必要はないだろう。
僕を信用できないからか・・・。SNSの出会いから事件に発展する事が多い昨今当たり前に警戒する事だろう。それなら勝手な作話で誤魔化したり、中断すればいいことだ。
大幅に年齢を偽っているのか・・・。声、話し方、その内容、仕事場に向かう途中の会話の中で聞こえてくる小走りのヒールの音、聞いている曲・・・・・・これらの事を考えたら年齢の偽りは否定できる。
指名手配者なのか・・・。まさか・・・仕事にも行っているし、趣味の絵もSNSに載せたりしているではないか。
有名タレントか・・・。それもない・・・僕の様な人間を相手にするはずがない。
詐欺・・・。これは自身をもって否定できる。与えるだけで僕への要求は何一つないのだから。むしろ何かあって欲しいくらいだ。
ココについての情報は限られているので、これ以上の詮索はいつも堂々巡りとなり結局答えは出ないままだった。
この頃は電話で話す度に、慎也は思いの丈をぶつける事が多くなっていた。
慎也はあまりにも一途すぎ、性急過ぎた。その気持ちが強くなれば強くなるほど、答えはだんだんと遠のいていった。
それがココを追い込んでいくことに気づいたのは後になってからである。
もうこれ以上胸のしこりを抱えたままでいる事はやめようと思った。
とにかく今はココの居る東京に行く事しか残されていない気がした。
二週間後、3日の休みをもらって慎也は東京に発った。
